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2024年は、迷わず動く

2024年1月1日、北陸地方で地震がおき津波警報が鳴りやみません。北陸地方にお住いの皆様には、心よりお見舞い申し上げます。


新年、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、正月とはやはり特別なもで、昨夜までの出来事が、いきなり昨年の出来事ととして、記憶の向こう側へ飛んで行くのも。

そのためにも、昨夜は一年の締めくくりを書いてみた。

これは、自分のためにとても良いことだと思っている。

まだちょっとだけ生々しい記憶も、痛みを感じることなく書けたならこっちのもの。過去のエピソードの大半が、喜びで満たされた記憶へとすり替わり、それは大切な思い出の引き出しへと仕舞われることになる。

2023年はわたしにとって100%ありがとうの年だった


だからこそ思う。

一年は、年末に振り返るその日まで分からないものだと。

昨年から本格的に動き出し、一年の締めくくりを書いてみて、そのことを強く感じた。

確かなことは動かなければ何もないということ。

動いて、人と会い、お喋りをして、お話しを聞かせて頂いた。それから、誰かに手をかしてもらって心底ありがたかった。それならばと、誰かに手をかしてみると、さらに幸せになった。

動いて学んだことは多かった。

惜しげなく人に与え続ける人に初めて会った。それから、与えた分だけきっちり取り返したい人にも会った。どちらが良いも悪いもない。きっと置かれた環境で人の考え方は作り出されるのだろう。けれど、過去のわたしは恐らく後者で、今のわたしは前者でありたいと思っている。

それから、小さな傷を負いながら、新たな傷を負った。さらに動いていると、もう一つ新しい傷を負った。すると、少し前の傷を忘れていて、もっと前の傷のことなどすっかり忘れ、ああ、こんなふうに動いていけば記憶の傷は塞がるんだなと思えた。

それから、人と話すと自分にしか見えていないことがあることが分かり、人と話すとその人にしか見えていないことがありそうなことも感じられた。分かっているはずだと思ったことも、言葉にしなかったことでずれが生じて、そのずれの大きさに互いが驚いたこともあった。視点が違うというのは、感覚的に分かるまで人と話さなければ、うっかり忘れてしまうものだと思った。

そして、わたしに我慢できないことが、誰かにはどうでもいいことで、誰かにとってショックなことが、わたしにとってはどうでもいいこともあることを確認した。

動いてみると、そんなことを思い出すことにもなった。

人と人が関わるとは、それほどレベルの高いことなのだ。

そう、人は高等な生き物だ。

止まっていると、そんな当たり前のことも忘れてしまう。

そんなことを繰り返して人は成長するのだと思えた。

そんな沢山のことを感じた一年だった。



では、一生は?

一生はその一年の積み重ねだ。

動かなければ、人の人生なんて白いページのまま、傷つきもせず、と言いたいけれど、きっとそうじゃない。小さな傷がずっと疼いたままの状態で結構辛いのではなかろうか。

動いてはじめて、人は同じものを見て、同じように感じていると勘違いしてしまうことがあることを知る。

動いてみて、誰かにとってショックなことが、わたしには何年経っても分からないことがあるということがわかる。

「わたしたちは」なんて言葉が簡単に使えないことも思い知る。

だから、動くことは大切だと思う。

昨年は、動いてみて未熟な自分に気が付いて、動いたことで自分から少し距離ができた。

だから、2024年はまた動いていこうと思う。

まあ、自画自賛になって申し訳ないけれど、昨年よりわたしはちょっとだけ高等な生き物に近づけたと思っている笑。

今年はどんな出会いがあるのか、今から楽しみだ。


※最後までお読みいただきありがとうございました。そして、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


※スタエフでも話しています。

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