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【介護】年を取るということ


昨夜、母が緊急搬送された。というか、搬送して頂いた。夕方から激しい腹痛が続いていた。どんなに痛くても痛みを口にしない母が、「お願い、救急車を呼んで!」といったのだ。これはよほどのことだと慌てた。

腰骨を痛めて10日ほど体を動かせられなくなり、恐らくそれが原因だったのだろう。

救急にご相談すると、家に向かう救急車から折り返しの電話が入った。最初は自分が動転していて気づかなかったけれど、その隊員さん、実に威圧的なのだ。わたしは母の着替えや保険証などを揃えたいのだけれど、救急車が付くまでその威圧的でメンドクサソウな声の質問が続いた。

そしてやってこられた隊員さんに母の症状を伝えたのだけれど、実にメンドクサソウで荒っぽい。3人チームのリーダーなのだろう。腰骨を痛めて寝返りさえできなかった母を何度も右に左に向きを変える。その度に母が悲鳴を上げる。その隊員さんは、悲鳴を上げる母の声など何にも聞こえないらしく、再びメンドクサソウに母に質問をする。「え?なに?何ですか~?」といわれる。母は痛みで答えられない。しかも、その質問は、電話で全て答えたことばかりだ。

あまりのむござに「やめてください!」と声を上げた。「母は救急車を呼ぶのは初めてなんです。朝までどうしても耐えられなかったのでお願いしたんです!」と訴えると、ややトーンは下がったものの、最後までその方の態度は変わらなかった。他のお二方は丁寧で優しかったけれど。そうして母は荒っぽく布に包まれ、悲鳴を上げながら階段を下ろされ、病院へ向かった。

着いた病院では入院はできないと最初に告げられた。深夜1時過ぎだ。レントゲンを撮り、お腹にガスと便が溜まっていてもろくなっている腰骨を圧迫していることが痛みの原因で、しかも酷い便秘だといわれた。

夜中の2時過ぎ、病院で、母は下剤を処方され、介護タクシーを呼んで帰るようにといわれた。入院は無理ですと。その理由さえ教えてもらえなかった。


わたしは介護はどのstageも初心者だ。けれど介護をはじめて思うことがある。社会は高齢者に時に恐ろしく冷たい。

数年前、母は大病院で股関節の手術をするつもりだった。けれど、そのドクターの説明の際に、「あのね、まあ、その年でしょ?手術するとね~、ころりといっちゃって天国ってこともあるの。わかる?」と説明された。説明されたのは大学病院のドクターだ。

意味は分かる。それを本人に伝えて承諾しておきたい気持ちだってわかる。

けれど、けれどなのだ。母は先生の言葉がわたしと同じように理解できる。それなのに、まるで赤ちゃん扱いなのだ。しかも高齢者の命はあまりものといった扱いなのだ。

母は決して反論しない。平凡で何のとりえもない母だけれど、その先生より少なくとも人生の先輩だ。どうせもうすぐお迎えが来る年だからね~なんて調子で語られる笑い話ならある。けれど、それを口にしていいのは本人と身近な人ぐらいじゃないのだろうか。

年寄りをどうして子どもと同じ扱いにするのだろう。少なくとも、自分には起こらないことが年老いた母にしばしばおこる。そんな時、わたしは、母を、高齢者たちを、子ども扱いする社会こそが、幼く未熟な社会なのだと思えてならない。

そして、いつも思うのだ。わたしもいつかこんな日が来るのだろうかと。

年を取ると出来ることが少なくなっていく。

わたしはそれでいいと思っている。

痛みを抱えながら、家族のためにできる仕事を探して動く母をみると凄いな~と感動する。実に丁寧に人生を生きているな~と感動する。

そして、そんなこともできなくなったとしても、それでも、生きようとしている姿を見るとただただ尊敬してしまう。どんな時にも、自分の人生を諦めないその姿を目にするだけでも、それは凄いことだと思っている。

できることは少なくなっていくけれど、それが自然な事でもあると思っている。



※最後までお読みいただきありがとうございました。


※いつもお読みくださりありがとうございます。

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