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初代 さるびあ丸

昭和30年代後半から始まった東海汽船保有船舶の近代化、客貨分離による純客船化が進み「さくら丸」「はまゆう丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸」と連続して建造されたが1973(昭48)年、戦前~戦後を通して同社のフラッグシップであった二代目「橘丸」の代替として計画された本船の新造をもって一応の完結を見る事となった。
建造を担ったのはこの前年に瀬戸田造船と田熊造船が合併し誕生したばかりの内海造船 田熊工場である。

引渡し直後の撮影と思われる(絵葉書)
東海汽船絵葉書「楽しい船旅」より
昭和50年代初頭の撮影

総トン数 3,079t 全長93m

東京~大島~三宅島航路に投入すべく計画された本船は、東海汽船としては当時最大にして国内の純客船の中でも最大級の威容を誇った。

竣工パンフレットより
(表紙)
竣工パンフレットより
(見開き①)
竣工パンフレットより
(見開き②)

特等船室が8名×4室、特一等船室が10名×18室、一等船室が和室椅子席合わせて14室842名、二等船室が7室788名(全て竣工時のデータ)と上級船室に比重を置いた非常にキャパシティの大きい客船であった。
その後東京~大島の日中便や各島への臨時便などを務めつつ三宅~八丈に「すとれちあ丸」が就航してからは東京~神津島の各島航路や夏季臨時便の熱海~新島~式根島便等に投入された。

昭和50年頃のシップガイドより
昭和50年頃のシップガイドより

晩年には予備船としてかめりあ丸と交互に片航路に入り、1992年に引退、国内に数年係船の後、稼働していたかは調べがつかなかったが1998年インドネシアへ売却され"TELAGA FITMA"として2005年まで在籍、その後チッタゴンにて解体された。

晩年(1986年)頃のシップガイドより
晩年(1986年)頃のシップガイドより
引退直前の夏に芝浦ふ頭より撮影
見切れてしまっているのはご愛嬌
引退直前の夏に芝浦ふ頭にて撮影
手元に唯一残っている船内での写真
被写体は高校1年生の筆者


その15年後に同地へ第2の船生を送るべく赴いた二代目さるびあ丸は、その生涯を終えた先代が最後に見た海をどのような気持ちで眺めているのだろうか…。

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