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死についてつらつらと考えてみる。

死とは何か。

身体の全てが止まって動かなくなる事である。
心臓も、脳も、血流も、全てが。

──動かなくなっちゃった。

これは、ドラマ「ケイゾク」(中谷美紀と渡部篤郎が良かった。テーマ曲は坂本龍一)の中で、ある犯人が人を殺した後に言ったセリフである。

死とはまるで、今まで動いていたおもちゃが、
電池が切れて、急に動かなくなり、
カタンと倒れるようなものだ。

じっと。

そのまま動かない。

きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで…

あだち充のマンガ「タッチ」の名言である。

穏やかな死は一見、眠っている状態と見間違う。

ギリシア神話におけるヒュプノス(眠りの神)とタナトス(死を司る神)は兄弟であり、それほど、眠りと死は似ていると古代から思われていた。

だが当然のことながら、眠りと死は明らかに違う。

普通は寝ていると、胸がかすかに上下に動いていたり、
瞼がピクピクしたり、鼻の穴がふくらんだりする。

だがそういう動きが一切なかったとしても──、
やはり違う。

説明が難しいのだが、
眠っている人の身体の周りは、何か空気のようなものが動いている。

戦争が終わってから長い事経ち、
昔は恐ろしかった事故も病気もだいぶ無くなってきた、
現代人は人の死を見る機会が、
昔に比べてずいぶんと少ない。

それでも無い事はない。
私が一番覚えているのは、やはり祖父母の死である。

特に初めて他人の死を目の当たりにしたのは、
確か高校生の時だったと思う。
通夜で、祖母の死に顔を見た時の私の第一印象は、
顔色とか表情とかそんな事ではなく、

『──動いていない』

だった。
身体だけじゃない。
祖母の周りを取り巻く空気というか空間が、動いていないように見えた。
人が死ぬとここまで周りの空気が凍るものか。
まるで時間が止まったような。
その人の周りとその人自身が、完全に動かない世界。

『──これが、死か』

死を初めて間近に感じた瞬間だった。

思えばあの時から、僕の頭の中には、

「死とは動かない事」

という(当たり前と言えば当たり前の)ことが強く印象づけられた。



さて、前置きが長くなってしまったが、
今回ふと死について考えてみようと思ったのは、いくつかのきっかけがある。
一昨年、一番好きだったジャーナリストの立花隆が亡くなった。

今年、一番好きだったアーティストの坂本龍一が亡くなった。

そしてここ最近で、私の近しい人が二人、がんになった事を立て続けに聞いた。

ちょっと前に、Twitter(今はXと呼ばれているが)のフォロワーさんと死生観の話になった。

他にも細かいものは色々とあるが、これらがメインのきっかけである。

メメント・モリ(死を想え)。

これは古代ローマで言われていた言葉であり、この言葉を私は藤原新也の同タイトルの著書で知った。

昔から「死とは何だろう」というのはぽつぽつ考えていた気もするが、
やはり他の人と同じように、40歳を超えたあたりから、
死について考える機会が少しずつ増えてきたように思う。

これが60歳70歳80歳になると、もっとその機会は増えるんだと思う。

今の所(限定)、人間の死亡率は100パーセントである。

人類の歴史上、これまで死ななかった人間はいない。

どれだけ恵まれている人であろうと、
どれだけ恵まれていない人であろうと、
死は平等に訪れる。

──死は怖い。

少なくとも、多くの人にとっては。

私も今の所は怖い。すごく怖い。

死恐怖症(タナトフォビア)、という言葉がある。

これは貴志祐介の著書「天使の囀り」で初めて知った。

これによると私は死恐怖症に近いような気がする。

ちょっと話は飛ぶが、
なぜ私は自殺しないかをここで書いてみたい。

生きてて苦しい事、嫌な事、辛い事なんて腐るほどある。
私も他の例に漏れず、
辛い事なんて腐る程体験してきた。

なのになぜ私は自殺してないのか。

悲しむ人がいるから?
やり残した事があるから?
もったいないから?

違う。
そんな上辺だけのような理由では、
本当に「もう知るか。死んでしまおう」となった時に、勢いで首を吊る(あるいは飛び込み、飛び降り)事は止められない。

それでは、なぜ私は自殺をしないのか。

それはただ単純に怖いからだ。

なぜ怖いと考えるのか?

死は怖くないものでもあるのではないか?

私の場合は根拠がある。

夢だ。

私はなぜか定期的に、自分が死ぬ夢を見る。

それもなぜかバリエーションに溢れている。

誰かに撃たれて殺される夢。
誰かに刃物で刺されて殺される夢。
蜂のような危険な生物に刺されて殺される夢。
事故に巻き込まれる夢。
災害に巻き込まれる夢。

最近はあまり見なくなったが、
昔は世界滅亡の夢をよく見ていた。

隕石の落下。
洪水。
核爆発。
強烈な毒を持つ羽虫のようなものに人類が滅亡に追いやられる夢を見た事もあった。

どれもこれも、いわゆる悪夢と言うやつだ。

そんな中で、
例えば遠くにキノコ雲を見て、
数秒後に爆風が襲ってきて吹き飛ばされた時。

あるいは銃で撃たれて倒れた時。

夢を現実と信じて疑っていない時。

その夢の中では世界は現実で、自分が本気で『死んでしまう』と思った時。

どんな時でも、襲ってくるのはとてつもない巨大な恐怖だった。

その恐怖は全く何にも例えようがない。

とにかく、その時に「このまま死にたくない」という恐怖が強烈に襲ってくるのだ。

「これで死にたくない」「これで終わりになりたくない」と。

幸運にも今の所、爆風に巻き込まれて意識を失った時点で、
目が覚めるというパターンが多い。
目が覚めたその時、だいたいは午前2時とか3時という時間帯であるが、
その後はしばらく動くことができない。
再度眠ると同じ夢を見そうで怖い。

死に直面した時の恐怖があの夢の体験と同じなら、
到底自殺する事はできない、
と強く思ってしまう。

理屈ではない。
直感で死は怖いと思うのだ。

以前何かで読んだことがあるが、
何十年も徳を積み続けた高尚な僧侶がいて、
大抵の事には心を動かされない、
相当辛くしんどい目(あるいは修行)にあっても眉一つ動かさない、
そういう人でさえ、
いざ死に直面した時は恐怖で泣き叫んだという。

私はこのエピソードを読んだとき、正に「死」というものの存在の巨大さ、恐怖に震えた。

暴力、グロ、死体ばかりを描く、あの有名なマンガ「チェンソーマン」の作者藤本タツキも、
3年ぐらい前だったか、宝島社「このマンガがすごい!」の1位になった時のインタビューで、
「一番怖い事はなんですか?」
と聞かれて、
「死ぬことですね」
と答えていた。

あれほどエグい内容を平気で考え描くマンガ家であれ、死は怖いのである。

その巨大な恐怖は、私たち一般人には到底制御できるように思えない。

この恐怖から逃れる方法はあるのだろうか。

あるいは、完全に逃れる事は難しくても、この恐怖を少しでも軽減させる方法はあるのだろうか。

「あんまり死ぬのを怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」 

これは北野武の「ソナチネ」という映画のセリフだが、
北野映画全体(全ては見ていないが…)を通して、
最高の名ゼリフの一つだと思う。

死を怖がりすぎると、死に魅入られる。

だから普段は人は、
いずれ訪れるであろう「死」について、
無頓着であるか、あるいは無視するのだろう。意識あるいは無意識問わずして。

だが、ふっと、心落ち着いた時、
あるいは、ふっと、心がザワついた時、
またあるいは、心もしくは身体の健康を損ねて、心が不安定になった時、
「死」というものを考えてしまう瞬間が訪れる。

だがそれまで「死」の事を考えた事がほとんど無ければ、
上手く考える事ができない。

大抵はそのもやもやとした不安や恐怖を上手く言葉にする事もできず、
目を背けてしまう。
考えるのを止める。
思考停止するのである。

だが毎日を生きている以上、
「死」はひたひたと近づいている。
そうしてついに死がやってきた最期の瞬間、
「こんな筈じゃない」
と、自分を納得させる事ができない。
後悔ばかりする。
パニックに陥る。
半端ない恐怖が押し寄せてくる。

死について普段から考えていなければ、
いまわの際(きわ)に、精神的にとても苦しむ事になる、らしい。

だから、そういった意味で、
普段から、
しょっちゅう思う必要はないが、
たまに、なにかの折に、ふと、
徒然なるままに、
「死」について考えを巡らしてみる、
「メメント・モリ(死を想う)」
というのは大切な事であると思ったりもする。

死について考えることは、決してタブーでも何でもない。

考えるという生き物である、人間がごく当たり前に行う事である。

昔と違って、今は死を隠しすぎる。
普通に生きていて、死体を見る機会なんてほとんどない。

墓も都心部では無機質で小さな墓標がちょこんとあるだけだ。

友達と「死」について話した事のある人はどれくらいいるだろうか。

あるいは、もし話したとしても、
おそらく数分くらいで考えるのが嫌になって、
別の話題に移っているのではないだろうか。

それほど「死」というものは、
忌まわしく、
汚らわしく、
直視できないと考えてしまうものなのである。

明日死ぬかのように生きよ
永遠に死ぬかのように学べ

というのはガンジーの名言である。

これは恐らく、「いつ死んでもいいように、今生きているこの瞬間瞬間を悔いのないように生きよ」
というメッセージだと思うのだが、

この言葉を最初に知った時、私にはピンとこなかった。

再び思い出した時、これを額面通り受け止めて考えてしまった。

「本当に明日死ぬとしたらどんな気持ちになるのだろうか」
というのを本気で想像しようとしてみたのである。

今がもし朝ならば、今日一日だけの命。
例えば今夜午前0時に死ぬとして、
今日という一日を、私はどのように過ごすのだろうか。

まず仕事は恐らく休むだろう。
残り半年とか一年なら、時間を持て余してしまうので、
恐らくある程度は仕事をするかと思う(1か月くらいなら世界旅行に行くだろうか?)のだが、
1日ではどうしようもない。
じゃあ、休んでどうする?
どこかに遊びに行くか。
しかし、ジタバタしてどこかに行こうとしても、バタバタして落ち着かないままあっという間に一日が終わってしまうだろう。

という訳で、たかが一日なので、
なんだかんだ言って、落ち着いてゆっくり過ごすことになるのではないかと思う。
(キーファー・サザーランドのドラマ「24」などを見ていると、たかが1日といえどここまで可能性があるのかと思わされるが)

まずおもいっきり掃除をするかもしれない。
ご飯を作ったり。
買い物に行ったり、
家で本を読んだり。
多分、何気ないある休日の一日、
という感じにはなるかもしれない。
夕方には気が向くまま散歩にでも行くかもしれない。
なんだかんだ言って、
この、なんでもない休日の一日、
これが、最後の一日としてはふさわしいのではないか。
そして欲を言えば隣に愛する家族たちがいてくれたらさらに良いと思う。
逆に言えば、
この何でもない休日のような一日というのが、
残り一日という事を考えた時、
一番幸せという事なのではないか。
そんな事を考える。

だがきっとそうはならない。

物理的に難しいのではない。
きっと精神的に難しいと思う。

「もし本当に明日死ぬとしたら、最後は幸せな一日を穏やかに過ごす」

というのはまだこの問いを本気で掘り下げた想像していないのである。

「死」というものが本気で今夜の12時に訪れるとするならば、
どんな気持ちになるのだろうと本気で考えた事がある。

まず、その日の夜12時に確実に死ぬことが分かっているとしたら、
私なら、朝、起きた時から恐らく鬱状態になっていると思う。
今夜死ぬことが分かっていて、とてもまともな精神状態ではいられないだろう。

目が覚めてから下手をしたら数時間は恐怖が襲ってきて何もできないのではないか。
恐怖に押しつぶされそうで、
目の前が真っ暗になっており、
嫌な汗をびっしょりかいて、
身体がガタガタ震え続けているかもしれない。

それでも腹は空く。

這いずるようにして台所まで行って、
何かを無理やり口に詰め込もうとするが、
全く味を感じない。
しばらく食べた所で胃が受けつけず、恐らく全部吐き戻す。

掃除や洗濯など家事をノロノロとしようとするが、
手は震えておりまともにこなす事ができない。

そうこうしているうちにもう数時間が経っている。

散歩にでも行こうか。

震える思い足を引きずりながら、
家族と一緒に近くの公園に向かう。

公園で、家族と一緒にちっちゃな生き物を見つけてはしゃいだり、
芝生に寝っ転がったり、
遊具で遊んだりする。

一瞬、温かい幸せが胸の中に灯る。

だが次の瞬間、絶望に打ちひしがれる。

今夜12時、自分は死ぬ事になっているのだ。

再び恐怖が襲ってくる。

涙や鼻水が次から次へとあふれ出て止まらない。

身体全体が震える。

吐き気がする。

脳の中は、やりたかった事、やり残した事があふれてきて、もうぐちゃぐちゃだ。

死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。

地面に突っ伏して、涙を流しながら慟哭する。

それを横で家族が心配そうに見ている。

身体を支えられながら這う這うの体で家に戻り、
惰性でシャワーを浴び、
気を失うように布団へ倒れこむ。
布団の中で胎児のように丸まって、再び絶叫する。

死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
誰か助けてくれ。
助けてくれ。
助けて。
助けて。
助けて。

そうして永遠とも思える数時間、
精神的な苦しさ辛さのなかでのたうち回った後、
ついにその瞬間が訪れる。



……とまあ、
これが、
「明日死ぬかのように生きよ」
という名言を受けて私が想像したその日の過ごし方である。

先ほども書いたが、
ガンジーは、
「もし明日死んだとしても悔いの残らないように、しっかりと生きなさい」
という事を言いたかったんだと思う。
だがそれは、「明日死ぬかどうか分からない」という前提の上に立っている。
もし「明日確実に死ぬ」事が分かっているなら、
誰しも、まともな精神状態ではいられないだろう。

それほど死というのは、我々にとって強烈な恐怖を伴う存在なのだ。

では明日ではなく一年だとしたら?

これは普通に可能性としてありえる状況だ。
いわゆる「余命宣告」である。

例えば自分ががんなどの大病を患ったと仮定して、
医者から「余命一年です」と家族には教えられているとする。
その時、それを患者本人である自分に伝えて欲しいかどうかという問題だ。

これは非常に難しい問題である。

「もし自分の余命が一年だとして、それを教えて欲しいか?」

という問題が広く有名であるのは、
恐らくその時、多くの人が悩むからであろう。

「自分はその宣告に耐える自信がある。教えてもらって大丈夫だ」と言っていた人でも、
「教えられて後悔した」という人もいるだろう。

(余談だが、家族のためにも予めこういうのは話し合っておいた方が良いのかもしれない)

実際その重みに耐えられる人はいるのだろうか。

「余命が分かっても決して自分には教えて欲しくない」
という人もいる。当然の事だと思う。かつて私の近しい人にもいた。

余命が分かって精神的に耐えられず、自殺をしたという悲しい事例もある。

私がどちらの立場なのか、まだ分からないというのが正直な所だ。

もし「残りの命が1年」と分かったら、私は何をするだろうか?
1年というのは、短いようで、かといって何もできない訳ではないほど、中途半端に長い期間だ。
何かをやろうとしたらやれる時間がある(もちろんそれをするために必要なだけの身体が自由に動くという前提だが)。

仕事を辞めて世界旅行をするという人もいるだろう。
そのまま仕事を続けるという人もいるだろう。

少しわき道にそれるが、

「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える。」

というのはマルティン・ルターの名言である。
やはり「動いて」こそ、
もっと言えば「働いて」こそ人間なわけで、
「明日死のうが1か月後に死のうが1年後に死のうが、自分は仕事をする」
と思える人は、
それだけの(自分にとっての)価値のある仕事をしているという事ではないだろうか。

例えば、私の例だと、
その昔、高校時代だったか浪人時代だったか忘れたが、
ライン工(いわゆる流れ作業)のアルバイトをしたことがある(数日で音を上げてしまった)。
ライン工の仕事に誇りをもっている人がいたら申し訳ないが、
もし今私がライン工の仕事をしていたら、
余命宣告された瞬間に辞めていると思う。

余命宣告されても「それでも私は死ぬまでこの仕事を続ける」と言える仕事を持っている人は幸せな事のような気もするのだ。

逆に言えば、
もし余命宣告された時、死ぬ日までその仕事を続けようと思わないのであれば、
それは恐らく今の仕事に満足がいっていない可能性があるので、
その場合は、別の(自分の満足の行く)仕事に出合うように、動いた方がいいのかもしれない。

ここでスティーブ・ジョブズの有名な名言につながってくる。

「仕事は人生の大部分を占めます。だから、心から満たされるためのたった1つの方法は、自分がすばらしいと信じる仕事をすることです。そして、すばらしい仕事をするためのたった1つの方法は、自分がしていることを愛することです。もし、愛せるものがまだ見つかっていないなら、探し続けてください。立ち止まらずに」

これはジョブズが亡くなる6年前に母校であるスタンフォード大学で行ったスピーチの一節である。

「人間は生きてるだけで儲けものだ」
という人がいる。
特に最近、ネットを見ているとその空気を非常に強く感じる。

仕事が長続きしない。フリーターだ。鬱だ。統合失調症だ。生きててしんどい。ニートだ。引きこもりだ。
そんな状態でネットを見た時に、
優しい言葉を求める。
そして実際に優しい(というか耳障りのいい)言葉であふれている(自分に都合の悪い言葉は目に入らない)。
「生きてさえいれば勝ちである」
確かにこれについては私も同意する。
特に、人生辛くなって、「自殺しようか」と本気で悩んでいる人に、「がんばれ」と言うのは厳しすぎる。
今本当に苦しんでいる人。まともに働けない人。精神状態が良くない人。
そういう人たちには、
「生きているだけであなたには価値があるのだよ」
と言ってあげるだけでも、それはすごく価値のある事だと思う。

だがもしその人が現在健康であるのなら、
できれば働いた方がいいというのが私の持論である。

心身ともに健康でも、
「俺は生きているだけで価値がある存在だ」という言葉を免罪符にして仕事をせずに毎日家でダラッとしているだけなのは、
それはもちろんその人の自由なのだが、
多分、後々になってから苦しむんじゃないかと思う。

以下もやはり私の持論なので、他人に強要する事でもなんでもないのだが、
過去に何度か書いてきた通り、人間は社会的な生物であり、
社会的という事は人との関わりの中で生きていくという事であり、
その、「社会の中で他人との関わりを持って生きていく」事の代表が、
「働く」という事なのではないかと思う。

例えばラスベガスのスロットマシンで何百億円も当たったとしよう。
一生遊んで暮らせるくらいの金だ。

じゃあ、その後は、
好きなゲームをしたり動画を見たり、本を読んだりして、
残り一生をのんびりだらだら過ごせばいいのかというと、
それだけではそのうちに飽きるような気がするのだ。

例えばそこに世界旅行なんかも入れてみよう。
せっかくだから英語を勉強したいと思って、留学も入れてみよう。

正味、全部合わせて5年。まあどれだけ長くても7~8年だろうか。

でも10年までは多分いかない。
旅行や留学も含めて、自分に対する好きな事ばかりやって気持ちが持つのは長くて10年じゃないだろうか、と思う(いやまだまだ楽しめるという人もいるとは思うが)。

少なくとも私は、一生遊んで暮らせるくらいのお金を持っていたとしても、自分の事ばかりやっていたら、10年よりもっと早い段階で人生に飽きるような気がする。

じゃあ、その後、どうする?
そこで、働くのである。
ちょっと誤解をされてしまうかもしれないので補足しておく。
ここで言う「働く」というのは、サラリーマンになって会社に通う(あるいはもう少し広く書けば、誰かに雇われてなんらかの職場に向かう)事だけではない。
それこそ、小説を書いてデビューを目指すでもいいし、
今からバンドを初めてライブを行うでもいい。
商売を始めてもいい。
つまり、自分がやる活動を、自分の内側にだけ向けて活動するのではなく、他人に向けての何らかのアクションを起こす。
それこそが、私の考える広義の「働く」である。
「他人と関わる」あるいは「他人のためになる事をする」事が第一の目的なので、例えばボランティアなど、お金が発生しない活動でもいい。
あるいは「小説家になろう」などのサイトで無料で小説を連載するようなのでもいい。
とにかくこの、「他人に対して何かプラスな影響のある何かをやる」という、広義の「働く」というもの(そういう意味では専業主婦にとっては家事育児こそが「働く」ことだ)を、私はしていくと思うし、他の人にもお勧めしたい。



……という訳で、話がわき道にそれてしまったが、余命一年の話に戻す。
命の残りに一年という期限がある場合、
もちろん自分のためだけに遊んで暮らしてもいいのだが、
なんだかんだ言ってこの(広義の)「働く」という活動をしておいた方が、
最期の最期になった時に、ある程度の充実感(満足感)を持って死んでいけるような気がするのだ。

余談だが、「全く面白くもなんともない仕事」、例えば先述した、私にとってのライン工のような、「自分のスキルを全く上げる気がしない仕事」だったとしても、それをやり抜いたら、死ぬ間際での満足感、言い換えると「なんらかの人様(ひとさま)の役に立った」という気持ちを得られるんじゃないだろうか。
「働く」事の凄さというのはそこにある、と思う。
(繰り返して言うがこれは単なる私の持論なので、全く他人に強要するものではない)

さて、余命の一年をそれ(働くこと)でなんとか飽きずに過ごしたとしても、
実際に死が近づいてきたら、やはり先ほど書いた「死への恐怖」というものはあると思う。

「死ぬ瞬間」の著者であるエリザベス・キューブラー・ロスによると、余命を宣告されてから死の受容までには5段階の心理の変化があるという。

1.否認と孤立
「俺が命に関わる病気にかかっているなんて、何かの間違いだ!」

2.怒り
「なんで俺がこんな目にあわなきゃならないんだ!」

3.取り引き
「これ(全財産)をやるから(あるいはこれをするから)もう少し命を延ばしてくれ」

4.抑うつ

5.受容

ここで言う5段階目の「受容」になるまでに、様々なネガティブな感情が襲ってくるわけであるが、その根底にあるのはやはり「恐怖」じゃないだろうかと思う。
中には「受容」になる前、「怒り」や「抑うつ」の感情の中で死んでいく人もいるだろう。
実際に闘病記ものを読んでいると、そうした人が少なくない。
あるいは病気の苦しみや痛みから「早く楽になりたい」という気持ちは膨らんでくるかもしれないが、では治療を諦めて終末医療(ホスピス)に切り替えるのか、あるいは切り替えるとしたらどのタイミングか、決心がつかない人も多いだろう。
以前読んだ闘病記で、若くして末期がんになったが最後まで治ることを諦めなかった人が、死ぬ最期の最期に痛みでめちゃくちゃ苦しんでいたという記述があり、読んでいてかなり辛かった。もっと早く終末医療に切り替えたら痛みも軽減されたろうが、それでも最後まで生きる希望を失いたくなかったのだろう。
生きる気持ちを最後まで捨てない方が、生きる気持ちを早々に諦めた人よりも何十倍も痛み苦しみ、それでいて最後は結局は同じくして死んでしまうということに、私は、悪趣味で冗談のような悪魔の技を見る。

死ぬ恐怖を少しでも軽減する方法はあるのだろうか。

いや、その前に、死の恐怖とは一体どこから発生しているのだろうか。

まずすぐに思いつくのは、「一切が消えてしまう」怖さである。

「死にたくない……死ぬのは嫌だ。お……水! 水だ!!フウ これで一日ぐらいは持つ。」
「あわれな生き物よ おまえはなぜそんなに生きたいのだ?たかがナメクジのくせに……」
「た……たかがナメクジですって。ひどいことをおっしゃる。あなたがだれだかは知らないが、私だって命は惜しい!!」
「長生きして何になるというのだ?なぜ命をそんなに惜しむのだ?」
「そりゃあ死んでしまえば何もかもパーになるからですよ……」

これは、手塚治虫の「火の鳥 未来編」の一節である。
遠い未来、人間が滅んでナメクジが新しく文明を作ったが、それでも種族間の戦争により滅びる事となった。死ぬ間際にいる最後の一匹のナメクジに、神(創造主)が語りかけている場面である。

私は確かこれを中学生の頃に読んだ。

「そりゃあ死んでしまえば何もかもパーになる」

この一文が自分の中に腑に落ちたのをはっきり覚えている。

「なぜ僕は死にたくないのだろう?そうか、全部パーになってしまうからだ!」

この一文は私の頭の中に残り、それ以降、なんらかのきっかけで死を想うたびに頭の表面に浮上してきた。

そしてその気持ちは、年を経るごとに強くなってきた。

積み重ねてきたものが増えてきたからだ。

お金。肩書。家族。仕事。趣味。

自分が今まで必死こいて生きてきた証拠として、
自分の内部外部に確かに刻み込まれてきている、
私の生きてきた証。

そして何よりも、私の脳の中にある、
今まで生きてきた事により自分のものになってきた、全ての記憶、経験、知識、教養、
それらが煙のようにふわっと消えてなくなるイメージ、そしてそこから闇が永遠に続くイメージ、
そして、新しい体験や経験がもうできないんだというイメージ。
美味しいアイスクリームも食べられないし、美しい夕陽も見られない、
そんなイメージが、
恐怖の源泉にあるのではないだろうか。

以前、シェリー・ケーガンという人の書いた「「死」とは何か」という本を読んだことがある。
これはイェール大学の人気講義で、大病を患った人が何千キロも旅をして受講しに来た人もいるぐらいだという。

この本の内容としては、「永遠の命」は「死」よりもずっと怖い、という項目が印象に残っているが、
かと言って、今の人類の平均寿命を考えた時、死ぬのには早すぎる、という言葉も印象に残っている。

確かに、100年やそこらで死んでしまうのは、未練や不満がたくさん残りそうだ。

これが例えば200年から300年、いやいっそ1000年ぐらいにまで寿命が延びたとしたら、どうだろう。
「もういいや、生きるのに飽きた。そろそろ死んでもいいかな」
と思えるだろうか?
恐らくだが、私はせいぜい200年から300年くらい生きた所で、そんな風に思えるような気もする。
人生は苦しみの連続であるが、もし楽しみを全て享受しようと思っても、今のこの地球上で受けることができる楽しみなど、長くてもせいぜい1000年くらいの時間体験すれば、そのうち飽きる程度のものではないだろうか(それでも私たちからしたら十分に長いのだが)。

老人 「ボタンポン星では医学が進化しすぎてね、何百年たっても、何千年たっても人間が死なないんだ」
21エモン「聞いたか!死なないんだって!」
モンガー「すばらしい!」
老人「何が素晴らしいもんか!二千年も生きればあきあきしちゃうよ」
21エモン「ふーん」
老人「あれが0次元だよ」
21エモン「何だか陰気くさい建物だな」
老人「わしらみたいに生きるのにあきた者が入るんだよ」
21エモン「生きるのにあきた?」
21エモン「ちょ、ちょっと待って!0次元に入るとどうなるの?」
老人「消えるんだよ、なにもかもきれいさっぱりなくなるんだよ」

藤子・F・不二雄の「21エモン」というマンガの中に、人類の寿命が何千年にもなるという星が出てくる。
その星では、0次元への入り口がある建物というものがあり、生きるのに飽きた人達はその建物の中へ自由に入っていく事ができる。

結局は、地球上で暮らす楽しみなどは、長くとも2000年もあれば十分に味わい尽くせるのではないかと藤子・F・不二雄は考える。

じゃあ、宇宙の果てまでいけるぐらいの(あるいはどこかにいる宇宙人と遭遇するぐらいの)文明に発展するまで(例えばそれを1万年として、それまで)生きていけるか?
やはり途中(せいぜい2000年ぐらい)で生きるのに飽きるのではないだろうか(宇宙の果てなど知ったことか!)。

むしろそこまで来たら(つまり時間や宇宙の果てについて知りたいと思ったら)人間の肉体というものが物理的な枷(かせ)になっている可能性も少なくない(というか多分そうだと思う)。
とっとと取っ払った方がいいという選択肢の方が強くなるかもしれない。



少し脱線したので、「死への恐怖」の話に戻る。

また、次のように考えて見ても、死は一種の幸福であるという希望には有力な理由があることが分かるであろう、けだし死は次の二つのうちのいずれかでなければならない、すなわち死ぬとは全然たる虚無に帰することを意味し、また死者は何ものについても何らの感覚を持たないか。それとも、人の言うが如く、それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転であるか。またもしそれがすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚嘆すべき利得と言えるであろう。というのは、思うに、もし人が夢一つさえ見ないほど熟睡した夜を選び出して、これをその生涯中他の多くの夜や日と比較して見て、そうして熟考後、その生涯の幾日幾夜さをこの一夜よりもさらに好くさらに快く過ごしたかを自白しなければならないとしたら――思うに、単に普通人のみならずペルシャ大王といえども、それは他の日と夜とに比べて容易に数え得るほどしかないことを発見するであろうからである。それで死がはたしてかくの如きものであるならば、私はこれを一つの利得であるといおう。その時永遠はただの一夜よりも長くは見えまいから。これに反して死はこの世からあの世への遍歴の一種であって、また人の言う通りに実際すべての死者がそこに住んでいるのならば、裁判官諸君よ、これより大なる幸福があり得るだろうか。

これはプラトン「ソクラテスの弁明」の一節で、死刑判決を受けた直後のソクラテスのセリフである。

もう一つ別の作品を以下に紹介してみよう。

銀次「それでも……赤木……
 恐かねえか……?
 どんな気分だ……
 これから死ぬ……って
 だって心配じゃねえのかよ赤木……!
 死んじまうんだぞっ……!もうすぐ……」

これは福本伸行の麻雀マンガ「天」からの引用である。
アルツハイマーにかかり数時間後に自ら命を絶とうとしている天才雀士のアカギ(赤木)に、がんになり余命いくばくもないと診断された雀士の銀次が語りかける場面である。

余談だが「天」というマンガは全18巻あり、15巻くらいまではずっと麻雀を打っているので興味のない人には退屈この上ないマンガなのだが、最後の3巻の密度の濃さはすさまじい。プラトンの対話編にも通じるぐらいの傑作であると思う(麻雀に興味のない人でもぜひ最後の3巻だけでも読んでみて欲しい)。

赤木「まあ、
 死んで、もし……全てが消えるのならそれまで……
 まったくゼロなんだから……
 心配するにはあたらない……
 そして、もし……ある種の意識……
 何かが……言うなら魂……?
 あるいは、ある種の意識……
 「生」が残っているとしたら、
 それは、痛い・かゆいという神経……
 あの、しち面倒くさい体や脳とつながってねえんだから、
 どうもこれは生身の今より数段過ごし易そうだ……
 つまり……意識が消えようと残ろうと……OK、
 どっちに転んでも……心配するにはあたらない……」

「ソクラテスの弁明」に出てくるソクラテスと、「天」に出てくるアカギの言っている内容の要点は以下の通りである。

・もし魂(もしくはあの世)が無い場合、
結局は何も無くなるんだから、「怖い」とか「苦しい」とかいう気持ちもないから心配ない。

・もし魂(あるいはあの世)があるのなら、それはとても素晴らしいことである。

・だから、どちらに転んだとしても我々にとっては得である。

魂・あの世があるのかどうかの話は後に述べる事として、
まずは、「感情」の問題として、魂・あの世が無い場合を想定してみる。

「『何もない』から心配いらない」

もうだいぶ前だが、「ソクラテスの弁明」と「天」を初めて読んだとき、これが私にはピンとこなかった。

当時の私は、
「『何も無くなる』(=全部がパーになる)事が怖いんじゃないか!」
と思ったのである。

だが、それからかなりの時間が経ち、私の考えは少し変わった。

ヒントは、ソクラテスの言っている、

「夢を見ない眠りほど幸せなものはない」

という所にある。

これもずいぶん前だが、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)のある掲示板の書き込み(落書き)で、以下のようなものがあった。

今日布団の中で眠りについて、そのまま死んでしまったとしても、それはそれでいいかな

2ちゃんねるというのは得てしてシニカルな書き込みが多く、「どうせ俺たちなんて何をやっても無駄さ」だの「世界なんてくだらない」だのネガティブ思考で一杯である。

上記の書き込みも、単純に「仕事も面白くないし、これから生きてても面白い事があるとも思えない。このまま死んじゃってもいいや」という気持ちを単に軽く変化させて書いただけのようなもののように思う。

しかし、名もなき1ユーザーが書いたこの書き込みがなんとなく私の頭の中にひっかかっていて、折に触れて思い出すようになっていたのだが、
今回、死について考えているとき、改めてこの言葉を思い出していた。

つまり、
「今夜眠りについてそのまま知らずに死んでしまっても、私は恐怖も苦しみも痛みも全く感じる事はない」
という事である。

少し分かりにくいので、もう一つ、死とはちょっと違うが、以下に別の例を挙げてみる。

私は昔からタイムリープ(タイムループ)ものが好きで、
要は同じ一日(あるいは一週間とかもあるが)を何度も何度も繰り返すというネタであるが、
古くは藤子・F・不二雄の「未来の想い出」から始まり、
ゲームだと、この世の果てで恋を歌う少女YU-NO、ゼルダの伝説:ムジュラの仮面、CROSS†CHANNEL、シュタインズ・ゲート、
映画ではタイムアクセル、恋はデジャヴ、うる星やつらビューティフルドリーマー、オールユーニードイズキル、
(一番最近見たのではMONDAYSというのも面白かった)
細かいのまで挙げだすと枚挙にいとまがない。

この時、例えばタイムループものの映画のストーリーが怖いのは、一日が終わったらまたその日の始まりまで戻るが、主人公の記憶はそのまま残っているというところにある。

だからこそ、いつまで経っても明日にはならないこの状況に恐怖を感じ、なんとかループから抜け出そうとする主人公が多い。

だが、もし主人公の記憶も戻っているとしたらどうか。

これは一種の思考実験で、私は中学生の頃ぐらいからこういうのを考えるのが好きなのだが、
例えば、実は今日という日は、もう何億回も同じ日を繰り返しているのだが、
今日が終わって一日が戻った時、自分の記憶も同じくまた戻っているので、それに気づいていないだけである、
というものである。

ループが終わらない限り、永遠に明日は来ないわけだが、自分の記憶も戻っているのでそれに気がつかない。

この状況をループの中から知覚する方法はない。
実は今日は何億回目の同じ日だったとしても、
(私がこの文章を書いてるのが何億回目だとしても)、
私が知覚しているのは今が最初の一回目なので、
そこに違和感を感じる事は無い。
だから当然のことながら、
時間がループしている事に対する「恐怖」も無い。

「眠りながら死に落ちている」
「自分でも気づかずにループの中に入っている」
この二つの例は似てはいないが、
「今の『自分』が知覚できていない状態である」
という点においては共通していると思う。

つまり、
「知覚していない」から、恐怖や苦しみも感じる事は無いわけだ。

翻って「死」についてもう一度考えてみよう。

「死んだら苦しみや辛さ、恐怖感もなくなる」
「そうは言っても死んだら全部消えるってのが怖いだろ!」
以前の私が陥ってたようなこの繰り返しについて、
もう一歩進んで考えてみる。

「怖い」のは、
「死への恐怖」あるいは「死に対する恐怖」であって、
「死そのもの」に恐怖がある訳ではない。

死んでいる状態は、自分が何も知覚できないので、
恐怖も苦しみも(痛みも辛さも)ない。

「死ぬのが怖い」という、その恐怖はどこから来ているのかというと、
自分が自分を知覚しており、迫りくる「死」を知覚しているところから発生する、自分の「感情」から来ている。

つまり、もう少し具体的に時間的(期間的)なものを書くと、
「死は怖い怖い」と言いながら、それはごく限定的なもので、
実は「余命宣告を受けてから死ぬ直前まで」の間だけ怖いのである。

大した期間じゃない。

「死ぬと全部が無くなる、全部が消える、全部がパーになるから怖いんだ!!」
という怖さも、死んだらそれすら無くなる。

くり返して書くが、
「死」そのものには恐怖は存在しない。
「怖い」と思うのは、死に対する自分の「感情」である。

だから、いくら「怖い怖い」と言っても、
死んだらその怖さから解放される(と思われる。魂やあの世が無い限り)。

これを読んでいる人で、寒中水泳を経験した人はいるだろうか。
私は子供の頃にやったことがあるが、
寒中水泳で、一番怖いのは水に入る前だ。
水着一枚で屋外で風に当たって、
「寒い寒い!」
「水の中はもっと冷たいだろう、怖い怖い!」
「嫌だ嫌だ、入りたくない!」
という苦しさ(寒さ)と不安と恐怖で頭の中が一杯だが、
一度水の中に入ってしまったら、意外と平気な事が分かる。

死もそれに似ているのではないだろうか。
死という状態に入るまでは、
「痛い苦しい!助けてくれ!」
「死は何もなくなる、怖い怖い!」
「嫌だ嫌だ、死にたくない!」
という思いで頭の中が一杯だが、
一度死の入り口を通ってしまうと、
(繰り返して言うが、魂やあの世が無いのなら)
苦しみや痛みを知覚する存在が無いのだから、
思考をするための脳も無く、故にその脳が意識する恐怖も無くなる。

地獄に落ちて永遠の恐怖と苦しみを味わうよりよっぽどマシじゃないか?

というような事を思うのである。



以上、魂やあの世が無いと仮定した時、
「恐怖」は「死そのもの」ではなく「死に向かう際の感情に過ぎない」という話をしてきたが、
では次に、本当に魂やあの世が無いのかどうかを少し考えてみたい。

魂・あの世があるという事を最初に教えてくれるのは宗教である。

仏教における天国と地獄。
キリスト教・イスラム教におけるHEAVENとHELL。あるいはLIMBO。
世界には数多の宗教があるが、
そのほとんど全てが、魂とあの世について(アニミズムなどの原始宗教も含めて)説明している。

私は宗教(特に三大宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は嫌いなのだが(理由は他の記事でも書いたので省略する)、
もし「死んだら何もかもが無くなってしまう」という類の「死への恐怖」を薄めたいのなら、冗談抜きで、本気で何かの宗教を信じる事もいいのではないかと思っている。

例えば、死の床にある病人の隣に、一人の宗教家と、一人の哲学者(科学者でもいいが)がいたとして、
宗教家(何の宗教でもいい)が、
「大丈夫です。安心しなさい。あなたは死んだあと、(このようになります)~~~~……」
と言ってくれたのに対して、
哲学者(科学者)が何を言えるか。
どれだけ普段から「宗教なぞ信じない」と言っても、死の淵に臨んだときに隣にいる宗教家からそのような言葉を聞いたら、それに縋ってしまうのではないか。そして、少しでもそれを信じてしまい、安心できるのではないか。
そんな気がする。
(特に魂・あの世を全く信じていない)哲学者・科学者は、その死の床の病人に対して、何も言える事はない(超人を説くニーチェなどくそくらえだ)。

私は宗教は嫌いだが、この一点に限って言えば、哲学も科学も、宗教には勝てはしないと思っている(また余談だが、それ故に、人間から死というものが無くならない限り、宗教というものは無くならないだろうと思っている)。

だが宗教にはいくつか弱点がある。

一つは、様々な宗教があるが、それらのほとんどが別の宗教と相いれない事だ(戦争や虐殺もよく起こす。これこそが私が宗教を嫌いな理由だ)。
故に、今から何でもいいから宗教を信じたいという人にとって、どれを選べばいいのか分からない(ちなみに私は、身近にあって手軽に入れそうな宗教こそ危険性を孕んでいると思っている)。

もう一つは、言うまでもない事だが、それ(宗教がうたっている)魂やあの世の存在を証明できない、という事だ。
そもそも宗教というのは科学のように証明するものではなく「信じる」「信じない」の世界である。
だからどこまで言っても、信者の中には「本当にこの人のいう事は正しいのだろうか?」という疑念が残る。
その宗教を信じるコツ(というか本質)は、自分の中に発生しているその疑念をどこまで押さえつけて無くしていく事ができるか、という事だ(と、エホバの証人に入っている私の叔父がその昔言っていた。今はどうか知らんが)。

では宗教を信じていない人には、魂やあの世を信じる資格はないのだろうか。

私は決してそうは思わない。

そもそもが今の科学なんてものは、世界(宇宙や多次元も含めた広義の)全体のほんの一部分(というのもおこがましいほど少量の)しか分かってはいない。

宇宙のほとんど(95%)を占める暗黒物質(約27%)や暗黒エネルギー(約68%)に関しても、ここ数十年でようやく分かった(というか存在を証明できていないので、存在しているような気がするだけだ)。しかも「あるかもしれない」だけで、その正体は何なのかがまったく分かっていない。
この宇宙内の空間だけでもこれだけ分からないのに、超ひも理論で言われるような十次元(時間も含めて)の世界や、マルチバースまで仮説を辿っていくと、この世界の中で人間が知っている事などけし粒一つにもならない。

死後の世界も、そんな、人類が分かっていない事の一つに過ぎないのだ。

なのになぜ、「死後の世界」に関してだけ、
「死後の世界なんて何も無い。魂なんかも無い」なんて断言できる人がいるのだろうか?

簡単だ。それは言うのが簡単だから適当に言っているだけだ。

私からしたら、「死後の世界なんて無い」と断言している人は、分からないものを断じている点で、宗教を信じている人と同じである(なのに「魂や死後の世界なんて無い」という人が変人あるいは宗教家扱いされないのは非常に不思議に思う)。

繰り返すが、私が言いたいのは、「魂や死後の世界があるかどうか分からないので、『無い』と断言するのもまたナンセンスだ」という事である。





という訳で、以上が私の言いたかったことであり、
以下の内容は完全な余談なのでそのつもりで読んで欲しい。

私は、もちろん断言する訳ではないが、「肉体(身体)の死」の前後(あえて「後」とは言わない)には何かがあるんじゃないかと思っている。

それが何なのかは分からないが、色んなノンフィクションを読んでいると、どうもそんな気がしてならない。

例えば、「魂の重さは21グラム」(死ぬ直前と死んだ直後の体重を計ったら死後の方が数グラム~数十グラム軽かったというダンカン・マクドゥーガルの実験から「魂の重さは21グラムである」という説が広まった)というのはまあ置いておいたとしても、70年代に話題になったプシー粒子(プサイ粒子:原子より小さく記憶を持っている粒子で、これが集まったのが幽霊である)にしたって、ニュートリノやらヒッグス粒子やらの素粒子が次々に発見されている事を考えると、ミクロの世界でもまだまだ新たな発見が続いていく可能性は少なくない。
そもそもが脳の働きは神経細胞(ニューロン)の発火だけではなく既に量子力学的世界まで拡大しないと理解できないんじゃないかと言われているぐらいで、こういった新しい発見のニュースを聞いていると、素粒子や超ひもが記憶の構築に一役買っていると言われても全く驚かない。

そもそもが、「死後の世界が無い」のなら、なぜ人はポンポン生まれて来るのか。
宇宙の終わりの果てには何もないのなら、なぜ何もないところからビッグバンが起こったのか。

つまり、ビッグバンがなぜ起きたのかを証明できないのであれば、宇宙の終わりの果てには何もないというのも信じられない。
同じように、生の前に何があったかを証明できないのであれば、死の後に何もないというのが信じられないのだ。

銀次「赤木……
 その「魂」……「意識」みたいなものは……
 あるのかな?」
赤木「まるでねぇ……とは言い切れねえんじゃねぇか……
 俺たちが元々……無生物だったことを考えれば……
 人はみな昔……砂つぶ……
 海に溶けた塵だの砂利だのの淀みみたいなものだったんだろ。
 そこから原始的な生命が生まれ、
 進化に進化を重ね、人間になった……
 だとすれば、つまり……
 無生物の中に生き物の素、種があったってことになる。
 その種ってのは……なんというか……
 まぁ乱暴に言っちまえば、ある「意志」……
 ある「意識」のようなものだったんじゃないか……
 つまり、
 無生物の中にある……
 生命になろう……っていう気持ちとでもいうか、
 その気持ちがあったから、無生物は生き物に変わりえた。
 その方向性がなかったら、淀みは永遠に淀みのままさ……
 あるいはこんな風に考えたりもする。
 要するに砂や石や水… 通常俺たちが生命などないと思ってるものも、
 永遠と言っていい長い時間のサイクルの中で、
 変化し続けていて、それはイコール俺たちの計りを超えた……
 生命なんじゃないかと……
 死ぬことは、
 その命に戻ることだ……!

上に引き続き、「天」に登場したアカギと銀次の対話である。
このアカギってのは、マジでヤクザにしか見えない外見を持ちながら(「天」に登場する人物はみんなヤクザ的だが)、この死生観の深さ。これを読んだ時、こんなヤクザなマンガの中に複雑系とも思われる考察がいきなり現れた事にめちゃくちゃ興奮したのを覚えている。

以前の記事でも書いたように思うが、一説には、宇宙がまだ何も無かった時、「濃い」何も無い部分と「薄い」何も無い部分があり(この時点で既によく分からないが)、それがうねって混ざり合っているうちに、自転する星がどんどんまわりの塵を集めて大きくなっていくように、「濃い」何も無い部分が大きくなっていき、それが極限にまで収束していった果てに、ビッグバンが起こったという(やはりよく分からない)。

人はみな元気に生まれ、元気の海へ還る

これは五木寛之の著書「元気」のキャッチコピーだ。

突拍子もない話ではあるが、
私は暗黒物質と暗黒エネルギーは、上で言う「元気の海」のようなものだと思っている。
人間の根幹を成しているもの(魂でも何でも良いが)は、
現在人間が認識している素粒子群(ダウンクォークやらアップクォークやらニュートリノやら)の遥かに小さな粒子であり、
それが普段は身体もしくは脳の中に入っているが、
死ぬとそれが拡散して、
暗黒物質・暗黒エネルギーという存在に還元される。

ちなみに「暗黒」というのは、宇宙が暗く見えていて、この物質・エネルギーが見えないために便宜上つけられた冠詞に過ぎない。

もしかしたら、人間が知覚できない波長のものを発しているだけで、
もしかしたらその存在は、別の知覚能力を持った存在から見ると、光輝いているものなのかもしれない。

チベットでは「人は死ぬと光となる」と言われている(「チベット死者の書」NHKスペシャル出版)。
立花隆の著書「臨死体験」でも、
人は死ぬ間際に光に包まれる体験をする人が少なくない。

映画「2001年宇宙の旅」で、消息を絶ったデビッド・ボウマン船長が最後に発した信号は、「すごい、星で一杯だ!」だった。

その火曜日の昼下がり、ジョブズは、子どもたちの目ばかりを見つめていた。そしてあるとき、パティ(妹)に目をとめ、子どもたちをじっと見つめ、そしてローリーン(妻)に視線を移したあと、どこか遠くを見る目になった。
「うわぁ」
つぶやきが漏れる。
「うわぁ、うわぁ」
最後の言葉だった。意識がなくなる。午後2時ごろのことだ。

これは、ウォルター・アイザックソンの著書「スティーブ・ジョブズ」の終章の一節だ(ちなみに本書は世の中で私が2番目に好きなノンフィクション本に位置している)

スティーブ・ジョブズの最後の言葉、

「うわぁ、うわぁ」

というセリフは非常に興味深い。

ジョブズは死ぬ間際、その最期の瞬間に、
何を見て(あるいは感じて)「うわぁ」とつぶやいたのだろうか。

私は、光に包まれたのではないかと思うのだ。
その驚きから、思わず「うわぁ」というつぶやきをもらした。

その瞬間、ジョブズは幸せに満ち溢れていたと思いたい。

(追記)

書き終わった今、私が考えているのは、
今回の記事は、私の書きたかった事のごく一部にしかすぎないという事だ。

読み返してみると1万8千文字ほど書いており、なかなかの量ではあるとは思うが、
私の頭の中を振り返ってみると、正直、全く書き足りていない事が非常に多いように思える。

色々な理由があって書けなかったことや、
あえて書かなかったこともたくさんある。

上手く言葉にできなかった事も多い。

今回の記事は、うだうだと書いたように見えて、正直、大したことは書いていない。

なので、自分でもまだまだ未完成な内容だとは思っているが、
それでも全然何も書かないよりは、マシかと思い、
このまま投稿することにした。

何もないよりは、少しは死に対する自分の気持ち考え方を吐き出す事が出来たのではないかと思っている。

とりあえず今回は一旦ここで締めるとしても、
例えば何年後かに、その時の気持ちが乗っていたら、また最新版の記事を書きたい、という気はする。

新しく文字にできるものが私の中で増えていれば、だが。


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