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ムシへ

にぎやかな山の家

わたしが生まれ育った家は、
この通り山に面している。
地震があっても、
土砂崩れの影響を最小限に食い止めるようにしているのだろう。
物心ついた時にはもう山肌は灰色のコンクリートでごつごつしていた。
しかし、その人工物を凌駕するように、
残っている山の部分は、
四季や天候のうつろいとともに、
自然の力を大いに見せつけ、
生命を慈しんでいるようだった。
特に夏場は隆盛だ。
雨風の日には大木の枝葉を揺らし、
晴れあがると、
したたり落ちる雫の一滴も残さず、
大地や樹皮に浸透していく。
バランスの良い肥沃な土壌には、
新しい生命の種が植り、生まれ、
尽きるまで止まない湧き上がるリズムで蠢きまわる。
炎天下の日には生い茂った緑が憩いの場を作り、
一葉の陰におびただしい数の生命が結集する。

そんな人知れず、生まれては消えていく虫たちとともに、
わたしは育った。
避けて通る道を行く、15の春までは。

幼少の頃、虫と野生動物は家族のように身近であった。

二足歩行ができるようになってからの遊び場は、
もっぱらこの庭先で、
ジョウロとスコップが欠かせなかった。
その頃はまだ山に上ろうという発想には至らず、
手の届く茂みに生っているアメリカ・ブドウをとってきては、
赤紫色の泥団子を作っていた。
図鑑が読めるようになると、
キイチゴとヘビイチゴを見分ける能力が身につき、
好奇心と空いた小腹を満たすため、
いよいよ山へ上る。
見ての通り急斜面だが、
恐れなどない。
手の届く場所に生っているベリーを自分のものにできないことの方が、
許せないのだ。
その衝動があるゆえに、
這って、上って、キイチゴを採った。
スカートの裾を持ってくぼみを作り、
その中に摘んだイチゴを入れていく。
摘みながら口にも運び、
満足したら下に降りる。
下りる拍子にポロポロこぼれ落ちるから、
いつも多めに採る。
きっと、あの時落としたイチゴは虫たちのお腹に入ったことだろう。

イチゴをたくさん採った日は、
夕飯の食卓に並ぶこともあった。
家族5人でそれを囲むと、ご飯が一層美味しい気がした。

そして、そんな団らんの時間によく現れたのが、、、、

ガサガサガサ

狸である。
人はガサガサとは音を立てない。
だから狸がやってきたと分かるのだ。
大きい音を立てると逃げてしまうから、
小さな声で
「どこ?」
「あそこ、あそこ」
「あ、いた」
「お母さん、狸にご飯あげていい?」
と、兄弟3人と母さんは窓際でみたらし団子のように連なって外を覗いた。
狸と仲良くなれないかと結託して。
そして、そんなわたし達を父はにこにこしながら見ていた。
キイチゴをパクッと食べながら。

キイチゴを採りに山に入らなくなると、
世界が変わったように、
虫の存在を異質に思いはじめた。

計画的家出

中学2年の夏。
干していた布団を片付けようと、ベランダに出て布団を引っ張った。

ポロン

「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
と、情けなく大きな声で自分の中の驚きを取り敢えず外に噴出した。
数十匹のカメムシが布団についていたのだ。
あとから聞いた話だが、その年はカメムシが大量発生していたらしい。
それまで、一度に見かけるにしても、1-2匹程度だったが、
この年のこの日、
真っ白なはずの布団は、
カメムシでまだら模様になるほどお出ましになった。
助けて欲しいが誰もいない。
母はまだ父のところから帰っていないし、
兄も弟もまだ部活から帰ってないようだった。

わたしはこの日、独りでカメムシと戦い、
泣く泣く勝利を治めて誓った。
もう、こんな家出よう。

家を出たい気持ちが募っていただけに、
わたしを本気にさせるには十分すぎる出来事であった。
もう虫と交戦したくないのだ。
この対カメムシ戦より前にも、

  • タランチュラ(大きな蜘蛛をそう命名した)との戦い。

  • 小さな蜘蛛と蜘蛛の巣との戦い。

  • 死んだふりするカメムシ夫婦との戦い。

  • 長すぎるム○デとの戦い。

  • 生き返る○キ○リとの戦い。

  • 終わりなきアリの行列との戦い。

  • 弱ったアシナガバチとの戦い。

  • カーテン越しのアブとの戦い。

など、きりがないほど虫たちと遭遇した。
こちらがふてぶてしくしてても、
あいつらはお構いなくまとわりついてくる。
そんな奴らに嫌気がさしていた。
全ては、きっと、この場所のせい。
山の麓であることが災いしている。

こうして虫嫌いになったわたしは、
家出とバレないような家出の計画を、
ほそぼそと実行にうつしはじめた。

というのも、高校進学と同時に家を出るのだ。
家出先はもう決めている。

県外の奨学金あり、寮ありの私立高校。
行けば親も喜び、何より虫とは無縁な場所。
しかし、誰もが簡単に行けるようなところではない。
ハードルはオリンピック級に高く、
現状の成績ではおそらく判定外に違いなかった。

その日からは必勝のはちまきを巻くような気持ちで、
机に向かい勉強に勤しんだ。
内申点を稼ぐため、学校行事にも積極的に精を出し、
先生に歯向かうのは効率が悪いからやめた。
今やわたしの敵は虫のみだ。
あの日のカメムシの大群を思いだす度に、
やる気は増した。

だが、
ここで一つ大きな問題があった。
一家の大黒柱は今、
いつ退院するかわからぬ状況。
母さんは働いていない。
つまり、
この家は貧しているに違いなかった。

親は子にお金のことを気にさせないように努めるものかもしれないが、
中学生くらいになると、
うちがお金持ちか貧乏かその間くらいなのかの判断はつく。
わたしの家にはきっと、
私立高校に見合うような稼ぎはない。

合格してもいないのに、
数学の宿題をしているとどうしてもあれこれ計算してしまう。

しかし、受験本番が近づくにつれ、
精神は研ぎ澄まされていった。

そんなことは、合格通知を手にしてから考えればいいのだ。

もっと腹を決めるため、
受験はこの私立高校の推薦一本に絞り、
滑り止めの地元の高校は受けないことにした。
とどめに「打倒、カメムシ」の文字を小さく切った半紙に書き、
あの時のことをいつでも思い返せるように、
そして、
この秘めた家出計画の真実の目的を
誰にもバレないようにするため、
いつも開ける勉強机の引き出しに忍ばせた。

合格すれば天国。
しない場合、虫との未来が待っている。

今以上に追い込んで、必ずやり遂げるしかない。
わたしは決意したその日から、
勉強の虫になった。

今日も、
耳元で蚊がブンブンとはためき、わたしの血を狙っている。
台所の勝手口付近でアリが行列をなして侵入を試みている。
洗濯干しの竿と同じ色をしたでっかい雨蛙が喉を膨らませている。
お風呂場に顔が二つあるサワガニがいる。

もう少しの辛抱。

1月某日。
合格発表の日。
職員室近くの公衆電話から家に電話をした。
1コールで出た母の声が少し弾んでいる。
「早めの桜が咲いたよ」
わたしははじめて腰が抜ける経験をした。

こうして家出計画は成功し、
虫とは無縁の生活を送ることになる。

はずだった。

隠れた胴体の正体

15歳で家を出て、はじめて知ったのは
虫とこんなに触れ合わなくてもいい世界だ。
この寮は快適すぎる。

一瞬たりとも羽音が聞こえないのだ。
暗闇に蠢く物陰もない。
そんな寮生活に甘んじていたが、
毎年お盆とお正月は寮が閉まってしまう。
だから、帰省を余儀なくされた。
実家に帰る日は、それはそれは、
家族に会える喜びとともに、
虫との戦を想定した複雑な気持ちであった。

しかし、わたしのその身構えた気持ちに気づいたのか、
ここ2年、カメムシ戦以上の戦いは起きていない。

高校3年の年末。

わたしは家に帰る高速のバスで頭を抱えていた。
おでこのあたりが痛いのだ。
何かが生えてきそうな痛みだ。
その痛みをチョコレートで緩和させながら、
なんとかやり過ごしていた。

バスは降雪で白くなった路面に、
線を引くように走り、
最寄りのバス停に近づいていく。

家に着いたら、薬を飲んで寝よう。

到着を告げる、アナウンスが響くと
うとうとしていた眼を開け、
家路を急いだ。

「ただいま」
玄関を開け、中に声をかけたが返事がない。
居間をのぞき込むと母はまた模様替えをしたようだった。
変わっていないのは父の写真の場所くらいで、
ソファ、机、テレビ、タンスの場所はお盆の時とはまるで違う場所にある。

「母さん、いるの?」
居間を開けると、窓が開いている。
母さんは外で洗濯物を干していた。
近づいて、
「帰ったよ」
というと、
「おかえり」
が、やっと聞こえてきた。

「母さん、お土産あるよ。みんな大好きな豚まん。」
「お、ありがとう。二人が帰ってきたら食べよう。」
母さんは考え事をしていたようだが、
好きな豚まんに耳がピクりとなった。
「お兄ちゃんとけんちゃんどこにおるん?」
「お兄ちゃんはお遣い、けんちゃんは友達んとこ。昼には帰るって」
ということは、お昼ご飯に豚ちゃんを囲むことになる。
 本当は今にでも手を伸ばして食べたいのだが、
ここは我慢。
豚まんのことを考えていたら、
さっきまでの痛みが遠のいていった。

わたしも現金なやつだ。と、ほくそ笑んで、
外にいる母の方をもう一度見向かおうとしたが、
目の動線上に蠢くものをわたしは見逃さなかった。

窓の近くに移動したタンスの引き出しが1つが開いていて、
そのわずかな隙間から、
触覚が2本伸びている。
人差し指くらいあるだろうか。
結構長い。

「えーーーーーー」
わたしはあのカメムシ以来の驚きとともに、
その触覚の下にどんな胴体が隠れているのか気になった。
場合によっては、
ここで戦闘開始になるかもしれない。

わたしはそばにあった新聞紙を筒状に丸めて剣にし、
タンスに近づいた。
真上から覗き込むのはリスクがある。
羽をはためかせこちらに飛んでくるかもしれない。
斜め横から覗き込む作戦でいこう。

覗き込んでみると、
その正体はわたしの親指くらいの、
カミキリムシであった。

昨今の積もる雪の中で、
きっと暖かい場所を求めて家の中に飛び込んできたのだろう。
「なんだ、カミキリムシか」
と安堵した。

「母さん、カミキリムシがタンスの中にいるよ」
と、カミキリムシを捕まえて、外に放り出そうとすると、
母さんがわたしを制止しようとこっちに大きく一歩近づいた。
「やめなさい。あんたより長く住んどるんよ」

「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

叫んだ拍子にカミキリムシは、
わたしの手から飛んでいって、
またタンスに舞い戻った。

母さんはどうやら知っていて、
夏くらいからカミキリムシを放飼いのようにしていたらしい。

出入り自由。
カミキリムシにとっては絶好の場だったに違いない。

この日から、
いや夏くらいから、
母はカミキリムシの母にもなっていた。
多分、わたしより兄弟たちよりももっと自由を許している。

また、頭が痛くなってきた。
もしかしたら、
母さんはカミキリムシなのかもしれないと思うと、
この痛い部分から触覚が生えてきやしないか思った。

滞在中、きっとカミキリムシだけではない。
他のものにも遭遇する可能性は大いにあると思ったが、
寝て起きてタンスを見ると、
カミキリムシはいなくなっていた。

ともに生きる

家にいる間、
虫との再戦はなかったが、
虫に甘い母を思った。
おそらく母は命に敏感になっている。

あの年末のカミキリムシの一件以来、
やたらと寮でも虫を見かけることがあった。

  • 洗濯干場でコガネムシのパレード。

  • お風呂場のシャワーホースに同化を試みるナメクジ。

  • 玄関でうずくまったダンゴムシ。

  • 枕元にム○デ。

入寮してからこれまで姿を見せなかったのに、
なぜ今その本性を現そうとしたのだろうか。

卒業まで、
あと1週間。

母に春からの一人暮らしについて、
相談しようと電話したが、
それよりもあの時のカミキリムシが気になっていた。

「母さん、そういえばあのカミキリムシ、もういないよね。」
そろそろあたたかくなってきた頃合いだ。
カミキリムシはもういないだろうと思っていた。
「あんたが帰ったあと、またタンスに戻ってきたで。」
口が塞がらない。
母さんはまだカミキリムシとともに生活しているようだった。
「なんでそんなに虫に甘いの?」
と聞くと、
「あんたらも、ちっちゃい頃よく連れて帰って、放飼いにしとったからよ」
と、記憶にない応えが返ってきた。
どうやらわたしたち三兄弟は、
虫採りに出かけたら、
気に入った虫だけ籠に入れず、
放飼いにする習慣があったらしい。
今となっては母さんしか知らない昔話だったが、
当時、父さんも母さんも、
わたしたちと虫との交流を自由にさせていたらしい。
「そんなのうそでしょ?」
と、何度疑ったかわからないが、
本当らしい。
とても信じがたく、
今のわたしは信じたくない。
しかし、今でも母さんはその頃を思い出すらしい。
虫と5人で当たり前のごとく過ごしたあの時間を。

「あんた、そういえば、春からバイトするって言っとったけど、
変な虫がつかんように気をつけんさいよ。」
「それ、母さんが言う?」

母さんの笑い声が聞こえてきた。

「あ、鹿!」
そう言って、母さんは急に電話を切ってしまった。

最近は、狸ではなく、狐や鹿や猪や熊が出るらしい。

不通音の鳴る受話器を持ったわたしの目の前で、
天井から糸を垂らした小さな蜘蛛が、
手足を小刻みに動かしている。

もう、年貢の納め時なのかもしれない。

受話器を置くと、
蜘蛛の糸のなるべく上側を切るように、
指を横に振った。
糸が切れたことを察した蜘蛛は、
今来た道をたぐり、
上へよじのぼっていこうとする。

玄関を開け、
わたしの手元まで近づいた蜘蛛を
間一髪のところで地面にふるい落とした。

地べたを這っていくその後ろ姿が、
気丈を装う母さんの姿と重なる。

父さんがいて、
わたしたちと一緒に狸を追いかけたあの日のように、
今も母さんは笑ってくれているだろうか。

あの日のムシたちよ、
もうないがしろにはしないから、
どうか、
母さんを笑わせ続けてほしい。

そして、もう一つは、
春から一人で住む家には、
なるべく、
出てこないでほしい。

鹿


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