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再生ボタンと卯月コウ

(VTuber…?初音ミクの親戚か何かか?)
これが、私が初めてVTuberに出会った時に抱いた感想である。

私の住む街は海に面しており、徒歩圏内に個人経営の商店がいくつかあって、スーパーや日用品を取り扱うホームセンター、大型の商業施設に行く時は車が必須である。全国チェーンのカラオケも、オタクあるあるによく登場するアニメイトも無い。ちなみにコンビニに行くにしても車で約30分かかる。田舎である。

新刊の発売は当然の如く紙面に記載された日付よりも後ろに倒れているし、通勤・通学で利用する範囲の公共交通機関は全て手動(切符や乗車賃はカゴを持った駅員さんが回収する仕組み)なので、東京にいった際初めて利用するSuicaの自動精算に感銘を受けた。そんな辺鄙な田舎に住んでいても、インターネットは平等に我々に知識を届けてくれる。卯月コウと出会ったのは本当に偶然だった。

私はとにかく集団行動に向いていなかった。
幼稚園の頃は比較的友達と仲良く遊べていた…と思う。多分。

小学校では、高学年のころ一緒に行動していたグループからある日突然無視され、1週間ほど小学校を休んだ。不登校が関係を修復してくれるわけもなく、やはり私はグループの人たちから無視されていた。その日以降、お昼休みは図書室に入り浸るようになった。

中学校では入部した部活の2年生の先輩3人にいじめられ、そのうち1年生の会話にも入れないようになっていった。
部活は1年生の秋に退部した。

高校では1年生の中でも特に陽気な人が集まるクラスに入った。ギャルを彷彿とさせる女子の雰囲気に馴染めず、落ち着いた雰囲気の女子と一緒に行動していたが、いわゆるカースト上位のグループに属する女子から個人的な嫌がらせを受けるようになり、次第にクラスの中でも孤立していった。
部活でも私がクラスで孤立している様子は知れ渡っているようで、次第に関係がギクシャクしたものとなっていった。
部活は1年生の夏に退部した。

上記の通り、学校生活において居場所がほとんど無かった私は、休み時間に図書室に入り浸り、放課後は借りてきた本を黙々と読み、ラジオとネットで情報収集する日々を送っていた。
小学生の時に経験した、「昨日まで仲の良かった友達に突然無視される」という出来事は無意識に私の心に大きな傷を負わせたようで、中学校に上がる頃には感情の起伏が乏しく、表情の変化が極端に少ない人間になっていた。
いつもぼんやりしていて、何を考えているか全然分からない生徒だった私は、図書室の先生曰く「最初に出会った時、ハリーポッターのルーナみたいな子だと思った」そうだ。

友達も、学校行事での思い出も皆無に等しい私は「エモい」という感情とは生涯無縁だろうと思っていたが、卯月コウの「エモグランプリ」を視聴した際に、(これはエモなのか?)と驚いたことを覚えている。私が想像するところの、昨今の若者が使用する「エモい」とは少し毛色が違うように感じられたからだ。
視聴者の、天井を仰ぎながら、或いは喉の奥を震わせながら発した言葉をそのまま書き記したような、剥き出しの感情を少年がひとつひとつ真摯に答えている光景を初めて見た。異様だと思った。
鬱屈とした、未解決の思いを抱えながら「大人」として生きることを強制されている大きな子どもたちに、薄く頼りない身体に強烈な意志を宿した少年が「生」と向き合うことの緊張感をリアルタイムで声高に叫んでいる。

この配信画面における登場人物は、誰一人として人間の体温を感じさせない。
しかし、インターネットは生身の人間だったら大勢の人間の前では到底吐露できないような感情をいとも容易く吐き出させた。無機質な文字は、その画面の向こうにいる人間の姿をありありと我々に想起させた。投稿者全員が、自分自身の声と真摯に向き合ったからこその、正真正銘の「エモ」であった。

では、私は?
これ以上心が傷つかないように、人の好意や悪意が自分を苦しめないように、他人からぶつけられる感情を脳内で機械的に処理し続けた結果、感受性が乏しくなった。自分自身のからだの奥底で発せられている声と向き合わなくなった。
自分の置かれている状況や感情の変化について思考を放棄することのほうが、鏡の向こうにいる自分自身と真正面で向き合って現状に対する打開策を打ち立てることよりも遥かに楽だった。「エモグランプリ」投稿者たちのような剥き出しの感情をお便りとして送ることはできなかった。

本当は知っていた。
小学校の時に属していたグループの人たちとは趣味嗜好がまるで違っていた。会話のノリやテンションも私一人だけ異なっていた。お呼ばれした誕生日会では、私が持ち寄ったお菓子だけが綺麗に未開封だった。違和感はそこらじゅうにあった。

本当は知っていた。
仮面をつけっぱなしで過ごす学校が終わって家に帰ると、本を読みながら、お風呂に入りながら、布団に入りながら、嗚咽が止まらなかった。
気のせいだと、さっき読み終わった小説のせいだと自分に言い聞かせて誤魔化していたけれど、未熟な精神と肉体は限界だった。

本当は知っていた。
自分を拒絶しない本の世界以外に、ありのままの自分を受け入れてくれる理解者と居場所が欲しかった。
唯一の味方になってくれるはずだった「私」を拒んだのは他でもない自分自身だった。

「成長したと感じる瞬間」は人それぞれだろう。
苦手分野を克服した、留学を経験した…身近なことから大きなことまで、内面的なこと、見た目でわかること、さまざまである。

私は、これまで自分に不要だ、必要ないと言って夜の海風に散らしてきた感情の残滓をかき集められるようになった。
機械的に処理をして、膨大な数の薬棚のどこにしまったか分からないような過去の出来事を、少しずつ、本当に少しずつだが頭の中で現像できるようになった。
過去のいじめられた日々が脳裏に呼び起こされ、閉じ込めていた辛くて苦しい思い出がフラッシュバックする。でも、嬉しかったことや楽しかったことも一緒に閉じ込めてしまう必要はなかったのだ。

登下校のルートを変えたらかわいい猫が寝ている家の前を通るようになって、嬉しかった。
毎日おはようと声をかけてくれたたばこ屋のおばあちゃんがお店を畳んでしまって、悲しかった。
東京ドームの広さは全然分からないし、山手線ゲームの駅名はちっともピンとこないけれど、ラジオの向こうにいる人が楽しそうに話すエピソードを聞いていつか行ってみたいなと想像する時間は楽しかった。

過去の自分を救ってあげることはできないし、多分きっと私は、今後社会生活を営む上で似たような壁にぶち当たると思っている。
集団行動を送る上での立ち回りが下手くそで、良い関係性を築ける人を見抜く嗅覚の性能が抜群に悪いのだ。
でも、このまま自分の声を無視して生き続ければいつか精神と肉体の乖離が起きてしまっていただろう。すでにその片鱗はあった。

自分の魂を体に繋ぎ止めるためには時々心の声と対話することが必要不可欠で、多分タイミングはどこでも良かった。
だけど、きっかけは間違いなく卯月コウだった。

少年は常に我々の目を真っすぐに見て、辿々しくも懸命に言葉を紡いでくれる。
小さな体躯に詰まった彼のエネルギーは一体どこから来るのだろうと常々不思議に思っている。
切ないくらいに生意気な少年は、誰よりも自分自身に真摯で誠実なのだ。自分の心の声と一生懸命に向き合うことができているからこそ、思ったことをそのまま変換した純度100%の言葉は人々の心に深く突き刺さるのではないだろうか。

自分の心の声を徐々に聞くことができるようになった私は、自分が今どんな顔をしているか鏡を見なくても分かるようになった。表情と感情を無意識のうちにリンクさせることができるようになったのだ。

夜、原因がわからずに泣くことが減った。
笑った顔を初めて見たと言われた。

遅すぎるかもしれないが、やっと自分の人生が始まった気がした。
もしかしたら、もともと自分の人生は複数のノートが用意されていて、2冊目に入っただけなのかもしれない。

「卯月コウの雑談は、放課後友達とダベっているような感覚がする」という感想をTwitter(X)でよく見かける。少年の正面に用意された席には、何かに悩んだり何かにみっともなく縋り付いたり、壁にぶち当たっている人間が時々座る。
10代の頃に答えを出しながら人生を送ることができた人間はごく少数ではなかろうか。正解の定義が不明瞭で、答えが複数用意されている現代社会なら尚更。
少年の配信の中では、モラトリアムにいることを許されている。というか、精神が不可抗力によって学生時代に引き戻されてしまう。
時間を何に使うのも自由で、何を考えていてもいい。大人のふりをした子供たちの、放課後である。

ずっと行けなかったけれど、母校の小学校に行ってみた。深刻な少子化の影響で近々統合され、無くなるとのことだった。
夕焼けに照らされた校舎は、記憶の中にある姿よりも小さく見えた。窓ガラスの向こうには、壁に貼られた習字やロッカーの上に図工の作品が並べられているのが見えた。
世間一般では一括りに表現される「学生」という単語はその実、日々の中で少しずつ中身が入れ替わっているんだということを実感して、なんだか少し可笑しくなった。

歪な心のまま大人になった私は、卯月コウの配信をきっかけに、口の中にある苦さを自覚した瞬間から皮肉にも青春のやり直しが始まってしまった。
あと多分、「青春」という言葉は大人が名前をつけたに違いない。当事者たちは、自分たちの春が青いものだなんて気付けない。

自分の弱さを自覚しながら、己と向き合いながら生きていくのは本当に難しい。でも、「お前の人生つまらん」とケリを入れることができるようになった。
悩みや苦しみは、磨けば輝くものに転じることを知った。

あの時、卯月コウの配信の再生ボタンを押して本当によかった。
最近の人生、最高に楽しいのである。














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