ひとりでにある(2020/04/15)

昔から心のどこかに、自分はどこまでいってもひとりだという感覚が強くあった。

辿った記憶がぼんやりと形を帯びる。

日頃は弱いくせに、ここぞとばかりに休日の朝は早くから父親を叩き起こした10数年前、よく晴れた空の下、バットを振り回したり、または自転車にまたがって、心ゆくまで勝手気ままに遊び回った。照った日差しは影と光のコントラストを目に刺さりそうな程に強くしていた。このまま足元がすくわれて、ひっくり返った身体が静かに吸い込まれてしまいそうなくらいに抜けた青空が、頭の上にどこまでも延びている。

けれどわたしはどこまでもひとりだ。

冬場は風邪をひいてほとんど通えなくなるからと、4年でやめたスイミングスクールでは、毎週飴を持っていっては友達に配って歩いた。初めは毎週泣きながら通ったけれど、次第に友達ができて、もはやその飴を配る時間が楽しくて通い続けていたところはある。
泳ぎ始めて1時間ほど経つと、次第に設置されている照明に、ぼやけて白いかさがかかったように見え始める。今日もたくさん泳いだなあ、と心地よい倦怠感を背負いながら、ぼちぼちとざらついたプールサイドを踏みしめる。

けれどわたしはどこまでもひとりだ。

仲のいい友達とどこまでも語り尽しながら、あたたかいご飯を母親に作ってもらいながら、面白い本にどこまでも没頭しながら、言葉では表せない感覚を味わう夢から目覚めながら、どこまでも自己満足な作品を生み出しながら、涙を流す程の好きな音楽に出会って目をみはりながら、音の重なり合いや息遣い、好きな人の表情のうつろいの機微、それらすべてを知りながら、抱えながら、認めながら、見詰めながら、味わいながら、手放したり求めたり、閉じ込めようと躍起になったり、あるいは他者を思って自分から身を引きながら、わたしはどこまでもどこまでもひとりだ。

わたしはひとりだ、し、それはこの世の何がどうなって、わたしに干渉したり、わたしを貫いたり、取り巻いたり、包み込んだり、濡らしたり、痛めたり、引き裂いたり、繕ったり、転がしたとしても、この世の何をもってしても、まったくもって変わらない。

わたしがひとりだということは、わたしを強くも弱くもしないし、わたしを縛りも解き放ちもしない。わたしがどこまでもひとりだとして、何も変わらないし、その中にはわたしも含まれている。

わたしはどこまでもひとりのまま、この世界を縦横無尽に歩き回り続けて、いつかつめたくなるその日を待っている。

死んだ後も、できたらひとりのままでいたい。