趣味を「娯楽」として捉えること、楽しむこと
いつの間にか、好きでやっている趣味が作業や勉強になり変わっていることがある。
というか、私自身がそもそも趣味の捉え方を間違えて生きてきたような気がしてならない。
本好きの友人と話し込んでいた。
どんな脈絡だったか詳しくは忘れてしまった。
友人が好きなゲーテやヘッセなどのドイツ文学を私が読んでおらず
「やっぱり有名どころだし読んだ方がいいのかなあと思ってる」などと返事した時だった気がする。
ふと相手が呟いた。
「読書は娯楽だからね」
その言葉が頭にこびりついて、一日中離れなかったのを覚えている。
その通りだと思った。
読書は私の大切な娯楽であり、趣味だ。
なぜ謎の義務感や「べき論」に従って行動する必要があろう。
自分が楽しめること、幸せになれることが娯楽・趣味の一番の趣旨ではないか。
趣味に意味を見出して生きてきた節がある。
趣味にも努力を惜しまない姿勢でいる「べき」という風に育ってきた。
幼少期の習い事や余暇の過ごし方で、そのような思考になったのだろう。
そうして趣味と努力の境界線が曖昧になり、「力」を浪費しているような気持ちになる時がある。
どんどんと、幸せよりも「自分のための知識や糧になっているか」の比重が大きくなり、先行していく。
本好きなら、この本は知っているべき。
洋画好きなら、この映画。
建築好きなら、この建築家。
そうした定説とされる意見に流され、気にもならない情報を強引に脳に取り込んだり。
娯楽にはべき論は不要なのに、自分だけの楽しみで完結して良いのに、社会的体裁を気にして努力したりする。
そんな努力は徒労に終わってしまうことが多い気がする。娯楽なのに。
とはいえ、娯楽といえど私の知識欲はとどまることを知らない。
そうした情報は、べき論の外側にある。
ただ、それが作業や過度な努力だと思った瞬間、その欲は娯楽の範疇を超えることを覚えておきたい。
娯楽としてしていることは、娯楽に留めていい。
そんな価値観が、私の人生のバランスを保つ新たな気づきセンサーになる気がしている。
今回もお読みくださりありがとうございます。
そして、ヘッダーに素敵なイラストをお借りしています。ありがとうございます。