勘違いしていた「朗読」という芸術
8/16~19に公演した劇団昴企画公演夏の朗読会「とりつくしま」が無事終わりました。朗読をやるのは初めてで見たことも1,2回程度しかなかったので
いい機会と思い朗読について調べてみました。
参考文献は東百道の「朗読の理論」です。
朗読である必要性はあるのか?
個人的な意見ですがなんとなく朗読は演劇の下位互換、読み聞かせの上位互換くらいの位置付けのイメージがありました。しかし、しっかりと芸術としての地位を確立していたのです。
芸術としての立ち位置
まず朗読とは「文字言語で表現された戯曲作品を音声言語で再表現する芸術」と定義されます。
これに近い芸術として、楽器の演奏が挙げられます。楽器の演奏は「文字言語(音符)で表現された音楽作品を楽音として再表現する芸術」と定義でき、音楽と文学という系統は違っても似た特性を持っていると言えます。
それでは文学という系統において朗読はどこに位置するのか。それは文学作品と映像作品の中間です。さらに演劇も近い位置に存在し、似た特性を持っています。
文学の芸術性は形象的と直感的、文字と音声という二軸を使うとより分かりやすくなります。
正確にはもっと細かく要素をあげることが出来ますが、大きな違いはここだと思います。文学作品は文字を用いて形象的に伝えられ、一方映像作品は音声を用いて直感的に伝えられます。
文学作品は読み手が文字を読んで想像し、映像作品は音声、動きを見て直感的に物語を見ることができます。
そして、朗読は聞き手が音声を聞いて、物語を想像するというどちらの要素も持っています。
文学作品と映像作品の中間には演劇も含まれます。演劇は照明、音響、舞台装置、小道具、大道具などがある総合芸術。それらを抜いたとして芸術になり得ないことはないのです。つまり役者が表現しているだけで芸術足りうるということです。
そこで大事な要素はセリフです。舞踊に近いといえるパントマイムは特異な演劇と思われますが、芸術の一種。では朗読も役者がセリフのみで表現される芸術の一種と言えます。
シェイクスピアや文楽における義太夫のセリフ部分だけ切り抜いた本があるようですが、セリフ抜きのものはありません。
つまり朗読においてセリフが決定的に重要な要素ということです。
まとめ
ということで朗読は「文字言語で表現された戯曲作品を音声言語で再表現する芸術」と定義されるように、役者がセリフだけで観客に伝え想像させることで芸術作品としての立ち位置を確立しているということです。
確かに言語化されるとその通りだと思いますね。
自分の浅はかさが恥ずかしいです。今回の公演が無ければ朗読を軽んじたままだったかもしれません。こんなこと先輩たちに知られたら怒られちゃうかな。
朗読にはまだまだ魅力があり、日本語の美しさやアクセント、間などの演じる側も観る側も面白いと思える要素があります。でも、それをここで書くのは僕の勉強が足りないですし、裏側を教えてしまっては興ざめですからやめておきます。
いずれ有料にでもして役者として学んだことを言語化してアウトプットするのもいいかもですね。
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