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『なにを』学ぶか、よりたいせつなこと。

こんなに世界がちがうのかぁ・・・。

正直、唖然としてしまいました。
2012年、秋に、婚活がうまくいかないのはじぶんのなかになにかあるからかもしれない、ということに気がつき、心理の勉強をはじめたのです。

そのとき、そうおもうに至ったのは、テレビである人物を見たことがきっかけだったのですが、どうせ学ぶのならいつかそれを仕事にできるくらいしっかり学びたい、とおもったのです。
それで、すこし探してタイミングのあったあるセラピストさんの開催する心理セラピーの講座を受けることに決めたのでした。

別に、そのテレビに出ていた人物があやしいとおもったわけではなく、実際に講演会に行ったり、お弟子さんのカウンセリングを受けたりしてみたのですが、合いそうだなとおもったのが、講座を受けたセラピストさんだったのです。

そのセラピストさんのもとで、講座を受け、どんなふうに感じているのかなぁ、とか、思い当たるふしがあるなぁ、とか、こういうことが原因でじぶんのなかの生きづらさが出てきていたんだなぁということがわかったんですね。それはもう、今までおもってもみなかったことだらけで、でも、納得がいくこともたくさんあって、どれほどじぶんのなかに、怖いおもいやさみしいおもいを抱え込んでいたのかを知った時間でした。

まぁ、どんどん変化して自由奔放になっていく生徒さんは、セラピストさんいとって『いい生徒』なわけですから、『いい子』でいたいわたしはまんまとセラピストさんに母親を投影して、「もっと変わりたい。いい子だと思われたい。評価されたい」と心の奥底で思ってました。

セッションでもおなじ。
セッションで『いい子』となるためには、セラピストさんのシナリオどおりに動く必要がある。だから、ここは泣くべきところなのではないか・・・?と感じたときには泣くふりを・・・。
もう、なんのためにセッションを受けてるんだかわからない状態です。お金払っていい子になっている。

でもそのときにはそんなこと、気づきもしないんですが。

そうして3年ちかくそこへ通って、セラピストコースを卒業し、しばらくは心理の世界から離れていました。

そこで学んだことは、じぶんが楽になるためには必要なこともたくさんあったし、こころが楽になったこともたくさんありました。親から与えられた常識という鎖からだいぶ解放されて、らくになったのも事実です。

だけど、そこでは『毒親』というワードにフォーカスがあたっていて、親を悪者にするような視点が常につきまとっていたような気がします。

正直、わたしはアダルトチルドレンだとおもいます。

アダルトチルドレンとは、(Wikipediaより)
・親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人[1][2]。Adult Children of Alcoholics(ACOA、ACA)の略語で、こちらがもともとの意味である。アメリカでアルコール依存症治療との関わりの中で生まれた言葉である[1]。
・親や社会による虐待や家族の不仲、感情抑圧などの見られる機能不全家族で育ち、生きづらさを抱えた人。Adult Children of Dysfunctional family(ACOD)[3]。「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなおトラウマ(外傷体験)を持つ」という考え方、現象、または人のこと。

親はアルコール依存症ではありませんが、父親は仕事でほとんど家にいなかったし、両親が仲良く話している記憶があまりありません。だから、機能不全家族で育ったことで、こどもの頃に《 ちゃんと 》こどもをやれていなかった、という感じです。

その影響で、うまく甘えることができないし、ちゃんとしなくちゃ、いい子でいなきゃ、期待に応えなきゃいけない、という掟をこころの奥底にもっています。

心理の世界では、
①一生懸命頑張らなくてはいけない。
②期待に応えなくてはいけない。
③完璧でなければいけない。
④強くなければいけない。
⑤急がなくてはいけない。
という5つのドライバーに駆り立てられることによって、ありのままの自分であってはいけない、と無意識のなかに刷り込まれていると言われています。

これらのドライバーが生きづらさの原因のひとつではあるのですが、わたしたちはここまで育ててもらってきていて、親の愛情もしっかり感じています。親のせいでドライバーが刷り込まれてしまった、という反面、親の愛も感じてはいるのです。

だから、親のせい、親が悪い、とすべてを親の責任にしてしまうことにどこかで罪悪感を感じていました。

でも、もともと感じていた恋愛面の課題がなかなかうまくいかないことや、じぶんを楽しませることに罪悪感を感じることがあったりしていて、やっぱり根底にはなんらかの心理的な問題が隠れているんじゃないかな、と考えるようになったのです。

そこで、いろいろ調べているうちに、《 罪悪感 》というキーワードにたどり着き、あっという間にであったのがこの本でした。

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そこに、こう書いてあったのです。

罪悪感は、愛の量に比例するのです。
愛が強ければ強いほど、罪悪感も強くなるもの。
罪悪感ではなく、その奥にある愛にフォーカスすることで、自分をゆるし、しあわせになることを許可できるようになります。

なんだかちょっと、背中が軽くなったようなおもいがしました。
期待に応えたい、親を喜ばせたい、親の笑っている顔が見たい。そうしてがんばってきたのは、親のことをとっても愛しているから。
親だって、わたしたちのことを愛しているからこそ、いろいろなことばで教育してきたわけなのです。

いじめようと思って言ってきたわけではありません。

とはいえ、言われて悲しかったことばもあったのは事実で、それは否定しなくてぜんぜんいいんです。「悲しい」も「寂しい」も、そのとき感じた感情はじぶんのもので、抑圧しないでそのまま感じていいんです。

だけど、その裏に愛があったことも事実。
そこにフォーカスしていくことで、世界の見えかたは180度変わってきます。

同じ《 心理 》でも、師によってこんなに見える世界がちがうんだ、というのが本を読んでいちばん強く感じた感想でした。

『なにを』学ぶか、よりもたいせつなのは、『誰から』まなぶか。

最初の師を否定するつもりはないけれど、どうせ見るなら色のついた明るい世界を見にいきたい。
ひさしぶりに、『心理』の世界がおもしろく感じるようになりました。

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