会話が噛み合わないのは、異文化だったからだと気づいた話。
施設ではたらくようになって、実はずっともやもやしていたことがありました。
それは、
はなしが通じない。
おなじものを見てもアセスメントがぜんぜんちがう。
たとえば、吐いているひと。
「吐いているけど、これとこれは大事なくすりだから飲ませてきて」と言われて見にいくと、薬飲ませる飲ませないの問題じゃなく、これはあきらかに脳出血とかの脳の病変じゃない?! という病態に出会う、とか。
こうしてほしいとお願いしたことが、伝わらない。
翼状針という針で点滴をするときに、利用者さんが動いてしまうから、持っておいてほしい、とか見守りしておいてほしい、とお願いしても、持つ場所が違うとか(足にする点滴なら、膝を抑えないと動いてしまうけどそこは持たないとか)、ほんとうに見ているだけで、じんわりじんわり動かして結果もれてしまう、とか。
後半のほうは、指示の伝え方の問題もあるかもしれないな、ともおもうのですが、「どうしたらいいでしょうかね?」と相談を受けたので、看護の視点からできることを伝えてみたら、「そうはいってもね・・・」と建設的なはなしあいにつながらない。
おなじ職種のなかでもそう。
意見がちがうのはしかたのないことだけど、意見がよってたつ根拠というか、その意見の根っこの部分が、その根っこはどこに生えているのでしょうか? と感じることも少なくないのです。
病院で働いていたときは、介護士さんの言い分もわかったし、他のリハビリ職の言い分もわかりました。もちろん、看護師どうしでも意見がちがうことはあっても、会話がかみあわない、ということはほとんどなかったんです。
だけど、なぜだか、キャッチボールがぜんぜんできない。投げたボールが別のところから返ってきたり、ちがう色になって飛んできたりする感じなのです。
わたしは、チームではたらくとき、「どうしたらいいでしょう?」と一緒になって、おたがいのできることを探っていくときほど、楽しいことはないと思っています。
だけど、その会話がかみあわなくて、どうしようもなく、ボールを投げるのをやめてしまいたくなるときがあるのです。
なんでなんだろうな。
やっぱり介護と看護はわかりあえないのかな。
とはいえおなじ職種でもそう感じることはあるな、と。
でも、それって、異国の世界の人間どうしが話しているからなんじゃないかな、とおもったのです。
みんな違う文化で、じぶんの世界の常識を前提として話している。じぶんが正しい。じぶんの考えが正しいんだ、とおもっているんですね。
だから、
なんでこのただしさがわからないの?
となって、かみあわなくなってしまうんですね。
*。*。*。
そもそも、福祉の世界の《 常識 》ってなんなんでしょう。
ちがう職種がいっしょになって課題を解決していく場所で、しかも、主人公が《 ひと 》である以上、絶対的な正解なんてない。
利用者さんも、変わるし、家族も、変わる。
そのひとにとって絶対的にいいことであったとしても、集団生活である以上、そのひとだけの幸福を最優先するわけにいかないのも現実。
だからこそ、やっぱり話し合いって必要なんだとおもうんです。
ほんとうなら、それぞれの想いをしっかりと語り合うことができればベストなんだろうとおもうのですが、そうも言ってられませんよね。
だからこそ、まずは、異国のひとたち同士であるということを認識するところからはじめたいなとおもうのです。
わたしが正しい! なんでやってくれないの?!
では、なんの解決にもならないから。
まずは、みんなが外国人。
ワタシ、ナニジン? アナタ、ナニジン?
そこから、わかりあえる場所を探していきたいとおもうのです。
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