「自分探し」を探してみる(6)昔は、悩まなかった?

昔に比べ、自分探しの助けになるツールや情報は、飛躍的に増えたと
思われる。ではそししたものが無かった昔の人は、私たちよりももっとこうした問題に悩んだのだろうか?  
   職業に限定すれば、狩猟採取の時代においては、専門職というとシャーマンぐらいで、あとは皆同じようなことをやっていた。もちろん力が強い、勇気がある、視力がよいなどの特徴によって、役割どころは違っていただろうが。
   農耕の時代になって、支配者や軍人、宗教関係者、物作りや芸術関係者など職能分担が進んだ。しかし仮に自分がそのどれかになりたいと思っても、選べる立場に立てる人はごく少数だっただろう。自分の意志よりも家族や自分が属す集団の意志次第という面が大きいからだ。
   つい最近(日本では戦後、しばらくの間)までは親や親戚など、自分以外の意志で自分の将来が決まったり、自分の意志で決めるにしても、そうした人達の意向を尊重した上での決定となるのが普通だった。
   つまり自分の将来を自分だけが決めることができるということ自体がごく最近のことなのである。
   また、生き方といった心の持ち方についても、「自分が望むように生きる」などという発想は一般的ではなかった。少なくても建前として、人はこうあるべきだ、というものがあった。
   私が子供時代に直接耳にしたものとしては「ご近所に顔向けできないことはやってはいけない(ひんしゅくを買う行為はダメ)」というものがあった。
  また誰かと揉めることががあると「あなたの親の顔がみたい」と皮肉られた。この表現の意味が理解できない人がいると思うので解説すると、「そんなことで、私に文句いうような躾けを親がしたのですか?  きっとあなたの親は欠陥があったり、社会的に劣っている人でしょうね」という意味や「もし親がここに居合わせたら、そんないい方で私に文句をいうはずはないよね。そんないい方は親の躾けができない証明になって、結果的に親に羞じをかかせることになるから」という意味である。(最近はこうした表現を耳にしたことがない)。
   つまり、職業選択、生き方についての考え方が、自分の手に委ねられるようになったために生まれた、悩みなのだ。






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