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ずっとわからないまま
「私、理解があるほうだから」
去年だっただろうか。ドラマで見たのか、はたまたマンガで見たのか忘れたけれど、この発言に対して大きな違和感を感じたことはずっと忘れていない。
性的マイノリティーの立場にいる人に対して誰かが放ったこの発言。
自分に対してカミングアウトをしてくれた人の気持ちを受け止めようと考えた末での発言だったのだろう。
でも、どうだろう。
誰があなたを「理解があるほう」と決めたのだろう。
それはきっと、あなたのなかのものさしだけで測ったものじゃないだろうか。
カミングアウトに対して、どう返せばいいのか、どんなことを言えば相手を傷つけずにすむのか悩んだのかもしれない。
自分に話してくれたことに「信用されている」と感じて、つい、カッコつけちゃったのかもしれない。
だけど、自分は理解があると言ってしまえば、もうそれで終わってしまう。気がする。
当事者がどんなときに、どんなことに苦しさを感じているのか。それを想像することはすごくすごく大切だ。だけど、想像するだけでは限界がある。学ばなければ、新たな知識を得なければ。
自分が当事者でない限り、当事者の気持ちを100%知り尽くすことはできないと思う。
だからこそ、理解しようとし続ける、知ろう、学ぼう、分かろうとし続ける姿勢がなにより大切だと思う。
どこかの誰かを、そして、自分の大切な人を傷つけないために。
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多数派、いわゆる普通とか言われてる世界に居たとしても、一歩違う世界に行けば、少数派の立場にいることもある。
日常が、普通が、突然変わる。そんなぐらぐらした世の中に私たちはいる。
誰かを理解しようとすることは、未来の自分を理解しようとすることと同じなのではないだろうか。
うみ。
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