見出し画像

「即興という概念」2008年3月14日

「即興という概念」2008年3月14日

これは別のサイトに書いたものだが、頗る本質的な問いを含んでいる。
それで此処にも再掲載する。
この短文では曰く云い難きものを含んでいる。

さらに書いても、補遺の説明もまた不可欠になろう。

ーーーーーーー

即興という概念は曖昧に用いられています。
言葉を用いる人物の意識に応じて、です。

簡単に言えば「未知なるものの顕現」を意識的に摑み、顕す行為です。
反論は容易です。
「既に身体や記憶に沁み込んでいるものの応用技術に過ぎない、と。」

未知なるものを如何に自然の如く顕すか、です。
この方法には限界などありません。
無意識的には不可能です。(この概念も語るに面倒な概念です。)
透徹した思考で徹底的に考察した意識状態のもとに為される行為です。
不徹底な表現者には耐え難い行為、表現です。

この問いは相手によっては平行線、泥仕合と化すでしょう。

*******

 今日に生きる我々人類の個々人の課題として如何に創造・即興精神を日常化するか、という根源的問いが自覚無自覚を問わず化せられている。
 無論、この問いの自覚の度合いは各自各様の意識のありようによって異なる。

 私は絵画表現を突き詰めている途上にて、この問いの根源的問い、自覚を26歳の時に痛烈な内的体験によって徹底的に味わった。
 古来よりの「汝自身を知れ」の実体験でもあった。

 以来、如何に日常的生にこの課題を溶かし込むかという日々であった。
 一切の分野、人種、教義を問わず古来より綿々と地下水脈の如く流れている人類の問い、課題を日常に顕現表現し得るか。
 これは自分自身をも一素材として、存在するあらゆるものをより高次・精神の段階まで統合し得るかでもある。
 私は時代や意識の諸段階を問わずあらゆる魂の内奥まで踏み込み噛み締めた。

 真の即興・創造精神の日常化は未来への橋渡しであり、今日の浅薄な相対的世界観に呪縛された魂の闇に向かって射る光の矢でもある。

 個々人の才能、能力に準じて為しうる事を成すしかない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?