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「表現の核」

 この私的感想は或る小冊子に掲載した。
 本来は公にはしない冊子であるが、今の心境と符合するし、今後もこの意識状態は私の核とも謂えるので敢えて公表する。

 このような内容は他者にはどうでもよい内容である。単なる、一表現者の戯言、呟きにすぎない。

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「表現の核」

                              
 私にとって、朗読表現は我々人類の生存の意味、意義を根本的に探求した存在達の現した言語表現を今日の同時代人に如何にして、何処まで伝達可能か? の実験的一方法である。「生存の本質」という我々人間存在の日常的問いが、今日においては相対的世界観によって多様化、等価値観化、全てを統合するような世界観は稀薄な珍品と等しくなっている。

 今日、或る戦争映画を観た。そこに描かれているのは生きたいという人間のあらゆる様相である。
 或る極限状態に置かれた存在の「ただ生きる」というこの事にどれだけの諸問題が含まれているかを、考えさせられるかを観客は「自ら問う」ような、実際に生き延びた一個人の事実、手記に基づき作成された内容である。

 コルチャック先生という映画の対極に位置するこの作品は私にも重なり、また今日の情勢、人類史とも重なって何とも言えぬ感情、想いが生じた。

 私の朗読表現も或る意味では、常に聴く人物に対して同じように或る極限の意識状態を追体験するかのように表そうとしているからだ。
 その表現には観客の生き方が問われるようなものが含まれている。ゆえに重たく、攻撃的とも受け手、観客は感じる。

 だが、現実に戦争という殺戮、殺し合いが日常の生活となれば、私は朗読表現などしないであろう。無論、絵画表現も然りである。

 周囲で自分の身近な存在達が問答無用で殺されている光景を前にして、一体「自己表現」というものが可能であろうか。
 私には出来そうもない。かといって何が何でも生き延びたいとも思わない。

 世相では何とかのグルメだとか、お笑いやら派閥争いだとかテロ、事件云々の様々な情報が延々と流されている。さながら万華鏡の如く、明滅して。

 今後も似た状態、光景が繰り返されていくのであろう。

 私は、これらを横目に自分の置かれた状況下で、成し得る事を為す、以外に方法は無い。

2004年12月13日


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鬼神ライブ 渋谷アピアにて
2009年 両眼共網膜剝離になってからライブは一回しただけで止めている。
「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15(4) (youtube.com)

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