見出し画像

「阿部勉氏との出会い」(自伝より抜粋)

「阿部勉氏との出会い」(自伝より抜粋)

今日、10月11日は阿部勉氏の命日である。

、、21年経た。

ーーーーー


私の人生の中で最も大きな人物と出会うことになる。
一九九三年の暮れに友川かずき氏と文学者立松和平氏が共同制作した「青空」という絵本の出版記念パーティ会場であった。会場は新宿の中華大飯店で五百人以上が来場していた。そのパーティ最後の一本締めに指名されて壇上に上がった人物からは只ならぬ静けさが漂っていた。
私は三上寛氏に檀上に上がった人物を紹介してくれと言った。だが、彼は「あの男は右翼某氏の十倍の毒をもっているぞ」と言ったが、壇上に立った人物を紹介してくれた。お互いに名刺交換をした。
私はその人物の噂を聞いた事はあったが、彼が噂の阿部勉氏本人であった。
 
 私は連日彼に是非会いたいと電話した。当初は多忙で会えないと断られていた。彼はさすがに根負けしたのか会う約束をした。目白にある秋田料理の店である。当時私は目白に住んでいた。約束の三十分後程経ってから彼は自称舎弟と称する人物を連れて来た。店では殆ど無言に近い状態で一時間程居た。彼は酒しか飲まなかった。私に秋田名物のきりたんぽを薦めた。舎弟と称する人物は口数が多かった。
阿部氏は「場所を変えましょう」と言った。通りに出てタクシーを拾い向かったのは彼の住まいであった。私の目白の自宅から近い中井という所であった。
モルタル作りのアパートの二階で六畳と台所の間取りであった。
私は下戸であると告げると彼は冷蔵庫から好きなものを取って下さいと言った。私はヤクルトで彼と近づきの杯を交わした。此の事は直ぐに知れ渡ったらしい。「あの阿部とヤクルトで乾杯した男が居るらしい」と。彼は私と会いたくない理由があった。朝日新聞社内で拳銃自殺した野村秋介氏の事件後だったからである。
 
 私が画廊に居る時に阿部氏から電話が来る。
「梅崎さん、超特急で」と。彼は私に様々な人物を紹介した。紹介と言ってもお互いの遣り取りを観るのである。裏表社会、文化人、各新聞記者等、深夜でも全国から阿部氏に会いに来ていた。初対面の相手には酒をとことん飲ませる。殆どの人物は酩酊すると本音を吐きだす。
私は阿部氏が酒を飲む時には酒乱となり必ず暴れるという事を聞いていた。だが、それには彼を怒らせる理由があったからだ。私が居る時に彼が理不尽な事や暴れた事など一度も無かった。彼には常に公安が張り付いていた。彼は故三島由紀夫氏の楯の会の一期生であった。
私が親しい友人を阿部氏に紹介して新宿のゴールデン街に行った事がある。翌日に公安の人物が友人の職場に訪ねてきて言ったそうである。「貴方と阿部さんとはどういう関係ですか?」と。その友人が私に電話してきて、自分が何か悪い事でもしたのかと思ったそうである。「公安の人が来て私との関係を聞いて言ったけど、あの人は一体何者なの?」と私に聞いたが、私は「私の最も信頼している友人ですよ」とだけ答えた。

 私は画廊と阿部氏の自宅を毎日のように往来していた。阿部氏の周囲には「その一言が命取り」という緊張感が常にあり、私にとっては非常に呼吸のしやすい空間であった。阿部氏と交流している人物の事は実名を挙げて詳細に書く事は出来ない。
 
私の中では画廊と言う場での「創造的人間関係」は、もう限界であると感じていた。表面上では会話はしても似た価値観、想いを共有する各グループに分かれていた。無論、数人の頑固で意志力の強い人物は何処にも属しない。それと私が阿部氏と親しくなった事で距離を置き始たり全く近付かぬ人物が増えていった。
私は阿部氏と出会う前に友川かずき氏と三上寛氏を中心としたコンサートイヴェントを日本青年館大ホールで開催しようと決意した。恐らく誰も実現不可能のメンバーを揃えていた。これを私の画廊最後の打ち上げ花火にしようと。ど素人の私の企画に大半は反対した。私は周囲の反対を強引に押し切った。
私が阿部氏に私の企画しているイヴェントの事を話すと彼は「私もサブでいいから参加させてほしい」と言った。
 私は阿部氏も共同プロデューサーという事で一緒にやりましょうという事になった。

 開催日時は1994年5月7日「日本青年館」である。
タイトルは「最初で最後。嗚呼、絶望のコンサート」

出演者
Guitar, Vocals三上寛。友川かずき。Drums, Percussion石塚俊明。Bass吉沢元治
Accordion, Piano永畑雅人。Piano, Ocarina–明田川荘之。Tenor Saxophone 梅津和時
Producer阿部勉。 梅崎幸吉。


 本来はこの参加者には灰野敬二氏の名前も入っていた。私は一年前から出演依頼をして当人は承諾していたが灰野氏のマネージャーがアメリカの演奏ツァーを優先したのである。
私と阿部氏は二人でコンサートの命名をした。私は「最初で最後」の言葉で阿部氏は「嗚呼、絶望のコンサート」と。
だが、このタイトルは三上寛氏によって「御縁」と変更され、或るインディーズ系のレーベル会社からCDとビデオが発売された。その版権は知人でもあったオーナーのI氏に阿部勉氏の名前を記載するという条件付きで無料で譲渡した。


下記:三上寛、友川カズキジョイントコンサートのポスター写真。

http://stat.ameba.jp/user_images/70/c1/10100008851.jpg

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?