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ダンサーになりたかった

大概の人は、何かしらの夢や目標を持ちそれに向かって日々努力していると思う。

学校でも
「しっかりとした目標を持って」とか
「将来どんな仕事に就きたいか考えて」とか
とにかくゴールを設定して努力することが良しとされがち。

私はよく
「小さい頃からちぎり絵がお好きだったんですか?」
とか
「いつからちぎり絵作家になりたいと思ったんですか?」
と聞かれることがあるが、じつのところ、ちぎり絵作家になりたかったわけでもなければちぎり絵作家を目指していたわけでもなかった。

私は幼少期からダンス教室に通っていたこともあり、食事・排泄・睡眠・ダンスくらいの感覚で日々の暮らしの中に「踊ることは生きること」くらい大切なものになっていたため、将来は踊る仕事に就きたいとひそかに考えていた。

そのためには舞踊科のある大学へ進むか、養成所のようなところへいくか、ミュージカルのオーディションを受けるか、いずれにしても舞台の上に立っている自分を想像していた。

そして中学校では新体操部に入り文化祭ではダンスを踊り、高校に行っても部活動は新体操部かダンス部があったらいいなと、当然のように踊る人生を送るものだと疑いもしなかった。

ところが、ここから私の人生は大きく変わる。
高校に入って部活見学に行ったときのこと。
私が進学した学校にはダンス部は無かったが新体操部があったので、もちろん新体操部に入ろうと考えていた。
ところが、見学していてもいつまで経ってもそれらしい練習は始まらず、なんとなく柔軟したり休憩したりおしゃべりしたり柔軟したり…

中学時代はそこそこ厳しい新体操部で部長をしていた私にとって、目の前のゆるい光景に一気に気持ちが萎えてしまっていた。

そんな時、同じ体育館の隅でものすごい気迫でトレーニングをしているショートヘアの集団が目に入った。
陸上部だった。
その緊張感や集中力は当時の私のそれと重なり、部活と言ったらこれだよなーという漠然とした共感がわいて、しばらくその練習の様子を眺めていた。

次の日。
初対面の女子が私に突然声をかけてきた。
「部活決まってないの?昨日、練習見てたよね。見学に来ない?」
私はすぐに陸上部の子だと気付いた。
練習の時もみんなより背が高くて目立っていたので、てっきり先輩だと思っていたら同じ一年生だった。
「見学だけなら…」
そういって放課後一緒に陸上部の練習に向かった。

「見学に来ました」
私がそう言うと部長が顧問に
「見学の一年生がきています!」
と報告していた。
私は隅のほうで邪魔にならないように見学して、きりの良いところで帰らせてもらおうと思っていた。

「よし、みんなと一緒に並べ!」
突然顧問から声がかかり私は面食らった。
そもそも私に陸上競技の素養はないし、ダンスばかりしてきた私にとってはただ走るだけの何が楽しいのかちっとも理解できなかった。
それに、正直なところせっかく誘ってもらったんだからという義理で見学に来ているだけだった私は、面倒なことになったなと困惑していた。

すると、すぐに部長をはじめ他の部員たちが駆け寄ってきて、手を引いて練習に招き入れようと囲まれてしまった。
結局私は、部員の列に吸収されるようにして並ばせられ、訳も分からず腿上げやダッシュを何本もさせられた。

嫌な気分だった。
私の部活を勝手に決められてしまった気分で、どうしてこんな事しなければならないのだろう…早くやめてダンスのレッスンに行きたい…と鬱々としていた。

それなのに。
それなのに、だ。

私はなぜか陸上部に入ってしまう。
放課後毎日迎えに来る陸上部員の情熱に負けたのかもしれない。
あるいは覇気のない新体操部の練習に嫌気がさしたのかもしれない。
それとも何か新しいことにも挑戦してみたかったのかもしれない。

いずれにしても、私は陸上部を選択したのだ。
そして入部とともに髪はショートカットになり、毎日外で暗くなるまでひたすら走るだけの日々。
「色白は七難隠す」と祖母が毎日のように褒めてくれた私の唯一誇れる真っ白な肌もあっという間に焼けて真っ黒になった。

そうして私の人生に陸上部という歴史が新たに追加されるはずだった。
ところが。
入部したその年に悲劇が起きる。
練習中に右足首を大きく捻挫してしまったのだ。
それからというもの思うように走れなくなってしまった。
そして、部活が終わったあと毎日のように稽古場に通い、レッスンのない日も一人で自主練をするほどダンスのレッスンを欠かさずにいた私は、あっという間に踊れなくなってしまった。

あーあ、やっぱり無理だったんだよ。
長年踊るためにしか使ってこなかったしなやかな筋肉と、短距離を走るための筋肉じゃ全然別物なんだから、私に走れるわけがなかったんだ。

なんだか狐につままれたような、いい夢の途中で目が覚めてしまったような、しょんぼりとした気持ちになった。

その当時は軽い捻挫だから一週間で治るといわれたため、一週間後から部活復帰、みんなと一緒に走らなければならなかったが、どう頑張ったって歩くのがやっとで走ろうとすると激痛が走る。
でも当時は、気持ちが弱い!気合いをいれろ!と言われるばかりで、どんどん追い込まれていった。

それでも私は一向に治まらない痛みを我慢しながら部活も、そしてダンスも必死で頑張った。

そうしてただひたすら体を酷使していった結果、私の右足は取り返しの付かないところまで悪化していった。

あとから気がついたことだが、私の場合、足にケガをするときは進むべき道を間違えている時が多い。
つまりは、物理的にそれができなくなるということ。

きっともっと早い段階で
「違う方向に進んでるよー」
というサインのような知らせのような何かが出ているはずなのに、いつもその声を無視して進もうとしているんだと思う。
だから最終手段として体で気付かされるのだ。
ち・が・う・よ!…と。

結局、ケガする前のようには踊れなくなっていき、ダンサーになりたいという夢も舞踊科への進学も諦めて、母親の職業でもあった保育や福祉の資格取得のため、保育科へ進学した。
そして、どうせなら卒業までにその学校で履修可能な全資格を取得しようと、保育士、幼稚園教諭、そして専攻科へ進学し介護福祉士の資格も取得し、運良く地元の県立養護学校の寄宿舎指導員採用試験に合格。

はれて社会人としてスタートをきった矢先に、私の足はとうとう使い物にならなくなった。
ケガから6年以上もの年月が経っていた。

子どもたちと一緒に散歩に行けば砂利道など整地されていない道で、歩くたびに足首をカクンカクンと捻ってしまう。
正座しなければならない場面では右足首が伸びずにまともに座れない。
右足をかばっているうちに左足の股関節に負荷がかかり痛みが出る…と、とにかく日常生活のあらゆる場面で支障が出てきてしまった。

この機会にしっかり治しておかなくてはと思い、改めて何カ所も病院を回り診察をし直したがどこに行っても打つ手はなく痛み止めの軟膏が出るだけだった。

そして最後に診察を受けた病院で初めて違う診断が出た。

「これ、靱帯切れてるね」と。

そして「もう何年も前に切れてるから退化して靱帯は無くなってるね」と。

そりゃあ足首もカクカクなるわ。
靱帯切れたままよく一週間後に走ったわ。
なんならそんな足でよく踊ってたわ。
知らないってすごいなと自分で自分に突っ込みいれながら、主治医の話を聞いていた。

「このまま放置しておくとだんだん歩くのにも支障が出るかもね」

そう言われて急に怖くなった。
当時はまだ20代前半で、ダンスのレッスンも続けていて、足首の痛みをだましだまし踊っていた頃だったので、歩けなくなるなんて言われたら踊ることなんかできるわけなし、踊れなくなるなんて考えられない、それはもはや余命宣告だ…と目の前が真っ暗になった。
これが絶望のどん底なのね…と実感できるくらいには絶望していた。

「再建手術をしてリハビリすれば今よりはよくなりますよ」

主治医の言葉が雲間から指す一筋の光のように思えた。

「そしたらガンガン踊れるようになりますか?!」

前のめりになって聞く私に苦笑いしながら

「ガンガンがどのくらいかは分かりませんが
趣味で踊るくらいには大丈夫だと思いますよ。」

足に爆弾を抱えた状態でプロになることはもう諦めていたものの、このまま何もしないで歩けなくなるくらいなら、手術をしてこれまでのように踊っていきたいと強く思った。

もう一度踊れるようになるかもしれない!という期待が、踊ることを半ば諦めていた私の中からムクムクと沸き起こった。

まだこんなに踊りたかったのかと自分でも驚くほどだった。

それほどまでに私は踊らなければならなかった。
ある意味脅迫的に、踊ることに執着していた。
それは自分の中にある、言葉にならない想いを表現するための、とても大事なツールだったからだと今にして思う。

だからこそ、それを奪われることに恐怖と絶望を感じていたのだろう。

踊ることで、私は救われていたのだ。

さて。

再建手術はというと、実際に足首を開いてみたら、レントゲンで切れていると思っていた箇所とは違う靱帯だったらしく、予定より大幅に手術時間がかかってしまった結果、途中で麻酔が切れて、足の痛みで意識が戻った私。

朦朧とする中「あの…痛いんですけど…」と声を発し

看護師「先生!麻酔切れてます!」
執刀医「えっ!あっ!局部麻酔追加!」

というバタバタがあったものの無事に終了。

リハビリの末に踊れるようになったかというと、現実はそううまくはいかず、切った皮膚の表面にはしびれが残り、大きく縫った痕は赤くビクのように盛り上がってツレていた。

そんな時期に、仕事では異動辞令が出て、通える場所ではなくなったため引っ越すことになり、レッスンにも通えなくなるとみるみるうちに踊れなくなり、あっという間に溌剌さを失っていった。

踊ること、体で表現することで自分を保っていた私が、そのすべを失い苦しんでいたときに救いになったのが文字を書くことだった。

心の中の思いをノートに書いて書いて吐き出して、詩にしたりエッセイにしたり日記に綴ったり、まるで修行のように文字ばかり書いていた。

そしていつの間にか、私は紙の上で踊っているかのような、なんとも気持ちの良い爽快感を得るようになっていた。

「私の足が動かなくても私の心は踊っている」

そう思えた瞬間があって、その時私は改めて、歌うことも踊ることも文章を書くことも絵を描くことも、どれもこれも全ては同じことなんだと実感した。

私は踊ることが困難になったけれど、それはひとつの方法が閉ざされただけで、表現の方法はいくらでもあると気付かされた。

そして、私のやりたいことが一つ明確になった。
それは自分にしかできない表現をしたいということ。

ダンサーになれなかった私がその後どんな表現活動をしていくのかは、言わずもがなである。





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