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たまにはこんな私の話 ~竜とそばかすの姫を観て~


初めまして、お久しぶりです。くま子です。

本日は細田守監督の【竜とそばかすの姫】をみた感想を書きたくなり、筆をとり、いやいやパソコンに向かっている。

話のネタバレはしませんので、安心して読み進めてください。

今回の“竜とそばかすの姫”は、“本当の自分”がテーマになっている。

親と自分、友達と自分、社会と自分、SNSと自分。

誰かとどこかで関わる数だけ、自分がある。

それでも、自分はひとり。本当の自分はどこにいるのだろう。

そんな、さまざまな人と簡単に繋がれる時代だからこそ、違う自分を見つけてしまい、そんな自分に翻弄されてしまう。

主人公の鈴がそんな新たな自分と向き合い、翻弄される姿が、壮大な音楽と世界感で描かれている。

私は昔から家族を大事にするとか、親の無償の愛を受け入れる事が出来ないままでいる。

それは今でも同じで、どうしても無償にある親の愛を受け入れている自分を受け入れることが出来ない。

両親は嫌いではない。けど、無償の愛をささげられるか、自分の人生を捧げられるかと言われると、うなずくことが出来ない。

両親はもちろん大事に育ててくれたが、それでも出来ないものは出来ないのだ。

何も肩書きや形容詞の無い自分を愛してくれる人を、素直に受け入れることが出来ないでいる。

もちろん、両親には幸せになって欲しいし、穏やかに過ごしていて欲しいと願っている。しかし、自分がその輪に入る事には違和感があるのだ。

しかし、不思議なことに、医療職で対人援助職として働いていると、自分のことのように利用者や利用者の家族の心配をするし、喜んだり、悲しくもなるし、憤りも感じる。

自分がその輪に入って、一緒に悩みたいと、どうにか出来ないかを考えたいとさえ思っているのだ。

もちろん、仕事でありお金が絡んでいる違いもあるかも知れないが、そこに医療職という形容詞がつくだけで、自分の家族への対応とまるっ切り違っている。

まるで、肩書きや形容詞が自分を守って自信をつけてくれているみたいに、相手と交流に自信を持たせて、力を分けてくれる。

医療職としての自分、読者が好きな自分、アニメをみる自分、歌が好きな自分、好きな歌手のライブに参加する自分、SNSで発信している自分。

様々な形容詞を持った自分がいる。どれも本当の自分であるが、見せている部分が違うだけ。

そこで繋がったそれぞれの人に対して、それぞれの自分がいる。

形容詞が増えれば増えるほど、自分に自信がついてくる気がする。

しかし、それとは反対に形容詞がつかない身近な家族や友達に対して、どう接したら良いのかわからなくなる。

友達の自分、娘の自分、妹の自分、姉の自分、30代女性の自分。

それは曖昧すぎてどんな姿を見せる事が正解かわからなくなる。

そして、一般的な正解に近づけようとすればするほど、自分がその自分を受け入れられなくなってくる。

一番身近な関係って実は一番難しいのかも知れない。


仮想世界で奮闘する鈴、ベルを見ていると、これから自分はどんな自分を見つけ、どんな自分に出会う事が出来るのだろうととわくわくし、前向きな気持ちになれる。

そして、どんな形容詞の自分も、形容詞のない自分も同じように大事にしようと感じることができた。

きっと、この映画はそうやって見た人の背中を押してくれるに違いない。





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