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実録・孫福くんを怨む【今とは何か?】

もし孫福くんと街角でばったり会ったら、こう言いたい。

「俺のスポーツカーを盗ったの、やっぱり君だろ?」

孫福なんて七福神みたいな名前なのに、とんでもないことをしてくれたものです。
何十年も経った今でも忘れません。
しかも、やつは2台も奪っていったんです。
僕は、必死に捜索しました。
そしたら、やつが自分のかばんの中身をニコニコしながら覗き込んでいるのが見えたんです。
かばんの中に赤と黒、ポッキーの箱で作った何かの影が!

「ね、それ、僕が作った車とちゃう?」

孫福の顔から、さっと血の気が引きました。

「……こ、これは……僕が作ったカーなんや!!!」

なんて恥知らずなやつ!
臆面もなくそう言い放つと、孫福は通園かばんの鍵をがちゃりと閉じて僕に背中を向けました。

(う、うう、本当にまごふくくんが作ったんか…でも…?)

オタオタしているうちに帰りの会は終わり、再び問い詰めようとしたとき、やつの姿は園内からすっかり消えていました。お迎えに来たママと、急いで逃げ帰ったのです。

「ぐぬぬ、やられた……!」

あの傑作スポーツカーとはそれが今生の別れとなりました。

「あの車、めちゃくちゃよく出来てたんだよ。当時のパパからしたら生涯一の大傑作だったんだ。それを奴は二台も!
 もし次、街角でばったり会ったら問い詰めてやる!」

「そんなによくできてたの?」

「そうだよ。明治アーモンドチョコの内箱の底、はがしたことある? うねうねした茶色っぽい緩衝材が入ってて、それをグルグル巻にしたタイヤがいい感じで、それは見事な出来だったんだ」

「また作ればよかったじゃん」

「そうはいかない。あんな貴重な素材、めったに手に入らないからな。アーモンドチョコを大量に買わなきゃいけないだろ? いや、待てよ……とすると孫福も、もしや車を作りたかったのに、俺がタイヤ8個分も作るほど、あの緩衝材を独占していた腹いせで盗んだとか……?」

「そうだよ、それが原因だったんじゃない?」

「だとしたら街で問い詰めても『ならば、なぜ緩衝材を独占した! 悪いのはお前だろうが!』って反論されちゃったりして。そしたらまた言い返せなくなって、あとから『クソー!!』ってまた地団駄踏むことになったりするかも…」

そしたら家族がワハハって。
そんな土曜の昼下がりを過ごした後に考えました。

あの日あのとき、もし、幼稚園児の僕が同じ組の孫福くんからスポーツカーを取り返せていたら?
よし、とそこで自信を持って、
もっと色んな場面で泣き寝入りをしない人生を送っていたのかもしれない。
だとしたら僕の人生は今頃どうなっていたのだろう?

今この家族たちと、この場にいなかったのかもしれない。
まったく別の人生を送っていたのかもしれない。
そしたら今日の家族のワハハと笑った時間も決して生まれたなかったということだ。
この愉快なわが子とも会えなかったということだ。

だとすると、なんと!
あの日あのときあの場所で
孫福くんにスポーツカーを盗まれてしまった。
だからこそ僕は今ここにたどり着けたのではないか…!?

だとしたら孫福くんに掛ける言葉はこれしかない。

ありがとう!!!

てか孫福、神じゃん!
ナイスすぎるじゃん!!
だてに七福神みたいな名前してないじゃん!!

もしかして本当に孫福くんは神様で、
「ふっふっふ、だからスポーツカーを盗んだのじゃ」
なんて今頃、こっそりつぶやいていたりするのでは??

そんな気づきを得たら、こんなふうにも次から次へと。

同じことの繰り返しのような毎日。
なんだか物足りないな、
このままでいいのかな、
もっと理想の自分であれたらな…
などと思うことをこれまでも何度も繰り返していた。

僕だけではないだろう。
そう思って生きている人の方が
全体からしたら多いんじゃないだろうか?

でも、もしもだ。
仮の話として
僕らの意識が死後も永遠に続いていたならば?

生まれるたびに前世を忘れる。
でも死を迎えることでまたすべてを思い出す。
そういう経験をこれまでも延々と続けてきており、
これからもずっとずっと続けていくのだとしたら?
それが魂の正体だったなら?

そして、
ああ今回の人生はこれだけ成長できた、とか、
また懲りずに同じ失敗をしてしまった、とか
死後に毎回、反省会を開いているのだとしたら?

あの一瞬、あの物足りなさを感じて、ここではないどこかへ行きたいと思っていた灰色の時間とか、

ありふれすぎていて、さほど価値をおいていなかった、たわいない日常の一コマが、

とてつもなく稀有で貴重なものだったと
そのときになって初めて気づいてしまう、

なんてことがあり得るわけだ。

だって、そんな時間たちは、
全宇宙の歴史というおもちゃ箱をひっくり返しても
その一瞬にしかないのだから。

あの人たちと、一瞬ふれあった、
そして楽しかったり、
感情を動かされた、
そんな場面。

その映画の、そんな場面の上映は
永遠とも思われる全宇宙史のなかで、
実は、
なんと、
たったの一回だけの出来事だったのだ!

全宇宙史の中で、たったの一回!

これを貴重と言わずしてなんと言おう。

一度過ぎた現在は、
僕らの記憶の中にしまわれて、
たまに思い返したりすることは出来るけど、

しかしながら、

もう二度とそのときと同じ観客席から
同じように体験することは決して出来ない。

どうあがいても一回こっきり
自分だけの体験。

そんな貴重な体験が、

今も、

この次の一瞬も、

その次も
その次も

命が絶える瞬間まで
ずっと溢れでるように生じ続ける。

それが今この瞬間の正体です。

なんだか理想が叶っていないな、などと思うその感情。
今に生きていないな、などと自省したその瞬間。
それらの時間。
それすらも実はすでに宝だったのです。

人間でいられる。
今この人間関係の中にいる。
今この慣れ親しんだ自分の名前と肉体、
それらを持った自分でいること。

それは宇宙が存在する限り
永遠に続く自分史上
本当に今だけ一瞬の出来事です。

僕が僕であれるのは
137億年にたった一回の出来事でした。

ここでひとつ疑問が浮かぶ方もいるでしょう。
私という意識が永遠に続くのだとすれば、
たわいない日常は
何億回も経験済の、
それこそありふれたものとなるのでは?と。

いいえ、きっとその逆です。
永遠が存在するからこそ、
一瞬一瞬が尊いものになるのです。

永遠に続く宇宙の歴史の、ほんの極小の一瞬、
しかし、どこを探しても2つと同じ瞬間はありません。
だからこそ全宇宙をしのぐほどの価値なのです。

おめでとうございます。
すべてが尊く、完璧でした。

でも、僕はここで慌てて言い添えます。

これは、誰もがそう思うべきだって話じゃありません。
そう思えなきゃいけないってことでもありません。
そう思うのが優れているとか、
思えないのは低次元だとかいう話でもありません。

つまらない日常はつまらない日常に過ぎない、
ただの日常が貴重だなんて思えなくてもいい。
意味不明なことを言ってるなと思ってもいい。
そんな生真面目な考えは受け入れられないと思ってもいい。同時に、
そういう視点もあるかと思ってもいい。
本当にそれが宝といえるか?と考えてみてもいい。
何も思わなくてもいい。
心に引っかかってもいい。
つまらん記事と忘れてもいいし、役に立つと思ってもいい。

なぜなら誰がどっちに転んでも、
そこには豊かさが存在しています。

自分はこう思った、という豊かさが。

自分が思ったように思える、という豊かさがあります。
僕たちはどのように思うこともできるのです。
意識は何をどのように思うこともできるのです。

宇宙とは、なんて懐の深い場所なのでしょうか。

この世は四方八方、贈り物だらけでした。
ぼくらは自身が意識するしないかにかかわらず
実のところ贈り物の海に溺れるようにして生きていました。

僕の記事を読みに来てくださる方にとっては
ほうぼうで耳にする話でしょうけど、
「現在」のことを英語では「Plesent」っていいますね。

「贈り物」を意味するプレゼント(Plesent)とスペルは同じなんですね。

語源を探っても理由はよくわからないそうです。

とすると、やはりこう思うしかなくなります。

「現在」とはやはり神からの贈り物だからプレゼントと呼ばれているのではないか?

ほら、人間よ、はやく気づきなさい、
という神からのヒントではないか?

だから「現在」を意味する言葉に贈り物をも意味する「Plesent」なる言葉があてられているのではないか?

そうに違いないと思うのが、スピってる人。
エビデンスがないから偶然とみなすのが、科学的な人。
(どうも科学的な人は偶然が大好きなようです。科学的なのに偶然が大好きだなんて、なんだか転倒したような話です)

けっきょく、ここで語っているのは全部もしもの話です。
誰もが否定も証明もできない話です。
だから最高です。
神による完全犯罪、あるいは最高の贈り物ではないですか!

でも、もしこれが宇宙の真相なのだとしたら、
それはもう「現在」にPlesentと命名したくなるでしょう。
もし僕が神様だったら、きっとそうする。
子供になぞなぞを出すとき、ヒントを出して楽しむように。

だからこそ「今」はPlesentなのかもしれません。

うちの子、いわゆる霊感を持っているようで、昔は今よりもっと色々なものが見えていました(ショッキングなものも含まれるので、あまり詳細にはふれませんけど、ちまたで聞くような話です)
しかし、近ごろは光の玉を見る回数も減ってきたようです。
いずれまったく見なくなるのかもしれません。

そしたら何か魂としての格が低くなるのでしょうか?

いいえ、高くも低くもなりません。
最初からすべてが等しく尊いだけです。

人間は生まれるとき、すべてを分かっていて、
しかし成長に伴ってそれらをすっかり忘れてしまって、
なんなら時代に即したいびつな信念を常識だとしてとりこんで、
しかし、あるとき
そこからV字にカーブを切るようにして、
また昔知っていたはずの真実の片鱗を思い出し始め、
やがて天に召されたとき、
元通り、すべてを思い出す。

そう考えたら、とても理にかなっていますね。

くどいようですけど、
宇宙の前にあっては
どれかが素晴らしくて、
どれかが劣っているわけではありません。

しかし、そういう中で
あれこそが素晴らしいんだと信じて、
今の自分は劣っているんだと思って、
それで全力で走り続けて高みを目指してもいい。
何もせず、空を眺めるだけでもいい。
ありがとうと言ってもいいし、言わなくてもいい。

それが宇宙が生み出す今一瞬の豊かさです。

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