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世界とは全て「私とあなた」である

この記事を読みに来てくださったということは、
ここに「私」と「あなた」の関係があります。

どうやら世界は全て、この「私」と「あなた」の無限反復であるようです。

そして「私」という存在は、どうあがいても
この広大な世界に「私」ひとりしか存在しないようです。

私は私の意識の外に飛び出すことができません。
私はいつでも私として存在しています。
私以外の意識になりかわることはできません。

たとえVRゴーグルをかぶって有名人の一日を味わったとしても、幽体離脱して誰かに憑依したとしても、それは「私の意識」が、その人物の体感を後追いで体感しているだけですから、やはりそれは私としての体験に他なりません。

ここに天秤があるとしましょう。
左側に私が乗ります。
右側には私以外の全部を乗せます。

家にある家具も本も
家族も
街を歩く通行人も建物も
地球も月も太陽も銀河も
すべてを右側に乗せて、そっと手を離してみます。

すると、この秤は釣り合ってしまいます。
そのくらい「私」というものは大きい存在でした。

まず「私」という意識がここに存在する。
だからこそ、その後追いとして、世界の体感が存在していました。

でも、この記事を読み来てくださったあなたは「私」ではありません。
なので、この記事を書いているテッコという人物には、あなたの心の内がわかりません。

そしてあなたも、テッコという人物の心の内が分かりません。
この人が何を思って、こんな奇矯な記事を書いているのかよく理解できないことでしょう。

しかし、あなたは、テッコとは異なる「私」です。

つまり、この世界には無限の多様な「私」が存在しています。

そして私自身は、今すでに私ならざる生体恒常性の働きによって勝手に心臓が動くからこそ、生きています。

私という存在は、私ならざる働き、つまり「あなた」によって生かされていました。

肉体あるいは細胞の働きという「あなた」によって生かされていました。

我が家の百日草に遂につぼみが成りました。
あと数日で開花するかもしれません。

これは僕が毎日、せっせと水を上げたからですね。

もし水をあげなかったら百日草は、とうに枯れていたでしょう。
百日草にとって、テッコなる人物は天から雨を降らせる神さまみたいな存在でした。

百日草という「私」は、テッコなるあなたの力によって生を与えられていました。

そして僕らの頭上からも雨が降ってきます。
僕という「私」は、雨という「あなた」によって生かされています。

雨という「私」もまた別のあなたによって雨として存在することが出来ていました。
それは例えば月の引力が生み出す潮力だったりします。

そして月という「私」もまた別の「あなた」によって支えられています。
それは太陽系のバランスだったり、銀河のバランスだったりするのでしょう。

これを最後までたどっていくと、一体どこに到達するのでしょうか。

よもや、今ここにいる私という意識の存在は、宇宙の全てと繋がっているのではありませんか?

とすると、私は宇宙の子供と呼べるかもしれませんね。
そして誰もが宇宙の子供であり、これから生まれてくる存在にとっての父であり、母ですね。
(更にもしこの宇宙の時間と空間が円環状に構成されているなら、私たちは宇宙の子供であると同時に、宇宙の親です)

力持ちの人は、力の弱い人がいることによって自分の力を実感することが出来ました。

心の優しい人は、ひどく傍若無人な人がいることによって自分が優しい心の持ち主だと気づくことが出来ました。

ひどく傍若無人な人は、もっと傍若無人な人にタコ殴りにされたとき、自分を見つめ直すきっかけを得ました。

どうやら「私」とは、私以外のあなたとの関わりによって、私たりえているようです。

つまり私とは私だけでは私たりえない。
あなたと私がいて、初めて私が存在できる。

であるならば今「あなた」と呼んでいるものを「私」と呼んでみたっていいかもしれません。

(げんに、あなたは今すでに、あなたの大切な家族やペットを「私」同然の重みで捉えているでしょう。その感情と、そういった感情を宇宙レベルに拡大してみることの間には何も本質的な違いはありません。)

もしこの世に「私」しかいなかったら?

それは、もう「私」とすら呼べない何かでしょう。

「無」とすら呼べない何かでしょう。

「あなた」がいるから、その双極として「私」も存在できるのです。

「有」があるからこそ、初めて「無」が存在できます。
「無」が「無」のみで存在することはできません。

この世界は有と無の共同作業で成り立っていました。

この世界は「あなた」と「あなた以外の何か」で成り立っていました。

あなたは今すでに、ただあなただけではありませんでした。

「あなた」が存在しなかったら、
この「私」も存在しなかったのです。

世界のすべてが「私」を支え合っていました。
世界のすべてが私でもあり、あなたでもありました。
同時に
私もあなたも
2つと同じ存在のないオリジナルな個体でした。
矛盾とは矛盾であると同時に矛盾ではありませんでした。

私は世界のすべてであり、同時に私は唯一の私でした。

私は有であり、同時に無でした。
あなたは有であり、同時に無でした。

世界には愛が溢れている、とよく言われますが、

「存在」そのものが愛と言っても過言ではないでしょう。

いがみあったり、戦争をしたり、日常の変化の乏しさにため息をついたり、憤怒したり、絶望したり、小さな花が咲くのを心待ちにする。

それらすべてが宇宙の愛という土台の上で成立している尊くて奇跡的な出来事でした。

すべてが宇宙の豊かさであり、宇宙の愛でした。
愛を支えているのは、このような思考であり、
思考を支えているのは、存在という名前の愛でした。

スピリチュアルなんてものがなぜ存在しているのかよく分からない、SFだかファンタジーだかが好きな、ちょっと幼稚で世間知らずな人たちの現実逃避の道具かな?というイメージしかない、かつての僕のような方もいるかもしれませんが、
「あー、なんか生きづらい」と思うことがもしあるならば、
このような人生観ないし考え方をこっそり内心に取りいれてみるのも悪くはないでしょう。

(これは「事実かどうかや科学的か否か」とは異なる尺度です。まず自分が楽しく豊かに、あるいは普通に生きるための方便です。方便という呼び方では寂しすぎるというならば知恵と呼び換えてもよいでしょう)

宇宙の愛の存在を知らずに戦争をするのと、
宇宙の愛という土俵の上で戦争をするのでは
同じ戦争でもまったく意味合いが異なります。

(もっとも宇宙の愛を知ったとき、戦争をしたくなるのか、それは分かりませんけど。
クレイジーな宇宙人だったら遠い銀河の果てでReクリエイションとして戦争をしていたりするのでしょうか)

存在とは有であり、無であることでした。

そして「私」や「あなた」が今、ここに存在していること。
その存在こそがどうやら宇宙の愛であるようです。

感謝🙏

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