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スピリチュアル童話 【クビククリの森】

みじめな自分と向き合うのは懲り懲りだ。そう思って夕刻の森で首を吊る。
縄が喉へ急激に食い込む。もっと一瞬で全てが無になると思っていたのにそんなことは全然ない。痛い。クルシイ。いつまでかかるんだ早くしてくれ! 

首に縄が食い込む苦しみの中、いつか酔いどれが放った言葉が何故か意識のど真ん中になだれこむ。

――人はこの世に生を受けただけで幸福なんだってさー! ははは! こんなのは不幸のどん底に叩き落とされたことのねぇ野郎のたわごとだ!!! 

そして俺は、その酔いどれに絡まれ、八つ当たり気味に殴られた。

ああ、どうしてこんなときにそんな場面を思い出す。

みじめな思いをするのは、生きてる間だけで充分だ!

聞けば、首吊りは死後、とても無惨な姿をさらすらしい。
ひどい形相になったり、体内に残っていたものが漏れ出たり。

でも、こんな森の奥深くで死んでしまえば関係ない。
この世から自分が消えれば、無様な姿も見ずに済む。

それに、みじめな死こそ俺にふさわしい。そう思って首吊りを選んだ。
ブックオフで手に入れた『完全自殺マニュアル』には脳が酸欠になってすぐ意識が落ちるので楽な死に方だと書いてあったはずなのに!

おかしい。いつになったら俺は死ぬんだ。
いい加減、全てが暗闇に沈み、俺という存在が世界から消えてもいい頃だ。
首を吊ってから何秒だ? いい加減、もう二十秒は経過してるだろう。

そのとき、はっと気がついた。

最初こそロープに腕をかけてもがいていた俺の身体が、動きを止めている。
肉体は動かそうと思ってもびくとも動かない。
そう、どうやら俺は確かに死を迎えているらしい。
にもかかわらず意識は、むしろ冴え冴えとしているのだ。

うそだろ、一体これはなんなんだ?

夕日が差し込む森の暗闇で、かぁとカラスの鳴き声が耳に届く。
そして風のざわめきも、森のささやき声のような葉ずれの音も。

なぜだ? なぜ音が聞こえている?
俺は、とっくに死んでしまったはずなのに!
死んだら眠りに落ちるように、全てが消え失せるのではないというのか!?

バサバサバサ!

そのときだ。真っ黒なカラスが舞い降りてきて、俺の肩に止まった。
勢い首吊り死体となった俺の身体が揺れ動く。

そのとき、ズルンっと何かがずれた。
壁に掛けた絵がずれて床へと落下するように。

俺の首吊り死体が地面に落ちたのか?
いや、違った。首吊り死体からずれたのは、俺の視界の方だった。

ど、どういうことだ!?

俺はまさか生きているのか!? 
いや、しかし俺はいつの間にか向かい合っていた。
太い枝から相変わらずぶらさがっている俺の死体と。
ベロと目玉をむき出しにして、目を背けたくなるようなひどい形相だ。

しかし、なぜ?

俺はどうして自分の死に姿を自分で見ている……?

俺は目の前の空間に浮かぶ、そのおぞましい顔面を目の当たりにしながら、気がついた。

まさか、俺は幽霊になってしまったということなのか?

いや、待て。死ねば全部が終わりになるんじゃないのか?

視界が真っ暗になって全てが無になるんじゃなかったのか?

しかし俺の意識は相変わらずの状態で……そうこれは……まさに生きている!

自分から逃れたかったから首を吊ったのだ。
なのに依然、俺の意識はいっそ首吊りする前より明晰だ!
死んで消えてしまいたかったのに、これじゃ何の意味もない!

というか、待て、これはもしかして。

「一緒に大台ケ原六郎さんの死を悼みましょう」

遺体の肩に止まるカラスが俺の名を読んだ。
これは想念による会話なのか? カラスの意思が俺に届いた。

「ちょっとまってくれ。これは一体なんなんだ!?」

思わず尋ねるとカラスが答える。

「お気付きの通りです。あなたが大台ケ原六郎さんの命を絶ちました」

命を絶ちました? 俺が大台ケ原六郎の命を絶った、だと?

「待て。俺が大台ケ原六郎だ。なのに俺が殺しただなんてのは、どう考えても変だろう」
「じゃ、いま話してるあなたは誰ですか?」
「だから俺が、大台ケ原六郎だ!」
「ちがいます」
「ばか言うな! 生まれてこの方、ずっと俺は大台ケ原六郎として生きてきた! でも、みじめな思いをしすぎて……だから俺は死んだんだ!」
「あなたは最初から死んでいます」

最初から死んでいます? カラスの言ってる意味がまったく分からない。

「いいえ、むしろ、あなたは生まれてすらいなかったんですよ」
「生まれていないわけないじゃないか! 赤ん坊の頃のことはさすがに記憶してないが、3歳くらいならかろうじて残っている記憶も俺は持ってる!」
「そうですね。確かにそれはあなたの記憶です。そして大台ケ原六郎さんの記憶でもあるのです」

一体どういうことなんだ……? 
しかし徐々にカラスの言いたいことが見えてくる。

「あなたは、大台ケ原六郎として生きていくことを決めました。だから、あなたのその意識は母親の受精卵の中へと乗り込み、そこへ意識を固定させたのです」

母親の受精卵の中へ、俺が乗り込み、意識を固定させただと……?

「そうです。それが人間の生というものです。あなたは、この森まで打ち捨てられていた自転車に乗って来たでしょう。それと同じこと。あなたは今生では、大台ケ原六郎の肉体へ乗っていたのです」

「じゃ、さっき言った『あなたが大台ケ原六郎』を殺したというのは…?」

「今の意識をよく観察してください。意識がすっきりしていませんか?」

確かに、そう、動揺こそしているものの、何か、自分が自分ではないような、雲海の上空にいるかのような、そんな心持ちになっている。

「そうです。あなたの意識の中には、あなたが首を吊って肉体としての生命活動が絶えるまで、大台ヶ原六郎の意識も同居していたのです」

「なんだと、同居というのはなんだ? 俺は二重人格なんかじゃないぞ!」

「人間の手は何本ですか? 足は? 目は? 耳は? 脳は? すべて双対で一つの役割を果たします。意識も同じことです。人間は誰でも自分の中に、もうひとりの自分を持っています。いつも頭の中で聞こえていたでしょう。『俺はなんてだめなんだ』『生きていても、意味あるか?』『いや、しかし借金を返さずに死ぬのは卑怯じゃないのか?』『やめろ、首を吊ってはだめだ。生きてさえいればきっとなんとかなる』…つい、さっきまでそんな声が頭の中でしてたでしょう? そう、それこそがあなたと同居していた大台ケ原六郎の意識です」

「しかし、それは俺だろう!」

「そうです。あなたであって、同時にあなたではないもの。あなたをいつも叱咤し、あるいは励まし、あなたが人生から落伍しないように、ずっとあなたの意識に寄り添い続けていた存在、それが大台ケ原六郎の意識です」

「でも、どうして一人の人間の中に二人の意識が?」

「いえ、『二人』ではありません。『ふたつ』の意識でやっと一人前になれるのが人間の意識の構造なのです。誰でもそうです。あなたも死ぬべきか生きるべきか、などと自分の頭の中でこれまで幾度となく自問自答してたでしょう。どうして、そんなことが出来ると思いますか? 頭の中に、もうひとつの意識が住んでいるからです。そうでなかったら人が迷うことはできません。そう、大台ケ原六郎とはつまり、あなたの中の自我でした」

「自我……? じゃ、今の俺には自我がない…?」

「ええ、彼からうつった意識の癖のようなものが今はまだ多少は残っているでしょう。しかし、それも時間が経つにつれて薄れて最後は完全に消え失せます。どうです? いま心のなかに欲求を感じますか? たとえば、もう眠たいから寝ようとか、ご飯を食べたいとか、そんな欲求はありますか?」

確かになかった。これが意識が妙に冴えていると思えた原因だったのか?

「命ある身体を健やかに保つには、一秒たりとも休むことなく心臓を動かしたり、あなたがキケンな方向に進もうとしていたら、それを引き止めるような警告を出さなくてはなりません。それらを一手に引き受けていたのが、あなたの自我――つまり、大台ケ原六郎の意識だったのです」

「じゃ、俺は……? 俺は一体、誰なんだ?」

「あなたはあなたです。今世では大台ケ原六郎の肉体を選んだ、そんな意識としての存在です。ちなみに前世では、また別の肉体を選んでいたのです。しかし、あなたは今世でも、人間の意識構造の仕組みを理解していなかったばっかりに『我こそが大台ケ原六郎だ』と認識し、もう片割れとしての大台ケ原六郎も同居していることにまったく気づかなかったというわけです」

そんな、ばかな……幽霊なんて、そんなものはオカルト好きの幼稚な盲信に過ぎないとばかり思っていたのに。

確かに臨死体験とはなんだろう、と考えたことは少しはあった。でも、そんなことを深く考えてみるほど俺の人生に余裕はなかった。

いつでも時間と金と見えないプレッシャーに追い立てられて、気がついたらこんなことに。

しかし、今にして思えば……幽霊が、ただ幼稚な妄想なら、古代から現代に至るまで、これほど全世界で語られず、とっくの昔に淘汰されていただろう。

「確かに、あなたのような考えを持つ人が今も多数派です。幽霊なんてものを語るのは、まっとうな科学感を持たない愚か者のすることだというのが今の世の常識ですから。せっかく『無知の知』という言葉が、ソクラテスの時代からあるというのに、愚者は過去にしかおらず、現在の世界観に誤りはないと錯誤してしまうのは、いつの世も変わらない人間の悪癖です」

俺は、目の前にぶら下がる自分の、いや、大台ケ原六郎の首吊り遺体を見た。

かつて俺自身だったその顔、俺の自己同一性のもとであったその顔が、情けなく口からベロを垂らして、歪めた顔面のままで硬直している。

もはや身体を失い、意識体になったはずだが、俺は身震いするような怖気を覚えた。

なんということだ……俺は、俺を殺してしまった……。

いや、俺が大台ケ原六郎の命を絶やしてしまった。

もっと生きたかっただろうに、死にたくなかったろうに、最後まで抵抗の意識を示していた大台ケ原六郎を殺めたのは、まさに他でもないこの俺だ。

「だから自殺は最大の禁忌だと言われているのです」

今や光を失って暗闇に死んだ森の底でカラスが言った。

「俺は地獄で罰を受けるのか?」

「いいえ、こちらの世界に人間界のような仕組みはありません。しかし、無辜の人間を殺めたという罪の意識をあなたは永遠に抱き続けることになるでしょう。少なくとも運良くまた人間界へと生まれいづる機会を獲得できるその日が来るまで」

絶望の二文字が俺を襲った。
いっそ刑務所に入れられる方がどれだけ楽なことだろう。
いくら罪に苦しんでも命を断つこともできない。
生き地獄……永遠の牢獄にぶちこまれてしまったも同然だ。
これが自業自得というものか。

「俺にも前世があったと言ったな? じゃあ、いつか俺はまた人間として生まれ変わりをできるのか?」

「もしご希望なら。しかし枠には限りがあります。そして、その列にはすでに数え切れないほどの魂が自分の順番が来る日を今も待ちわびています」

――人はこの世に生を受けただけで幸福。

そんな偽善めいた言葉の真意を俺は初めて理解した。

「待ちます。いつかもう一度この世に出直すその日が来ることを。その日まで自分が犯した罪と向き合い、生きるということの意味を考えます」

そして首吊り遺体がぶら下がる森は深い闇に包まれた。
カラスが羽音を立てて飛び立った。
夜空の遠く、銀河の彼方で小さな星が息を潜めるようにまたたき始めた。

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