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おとうと

第32話

気の優しいお兄さんに弟はすぐ心を開いた。
実に楽しそうに勉強を教わっていて
一緒に夕飯を囲みつつ、母に

「どうですか?勉強ついていけていますか?」

と尋ねられても彼は

「理解すれば問題を解くことはできるので
大丈夫だと思います」

と答えてくれ、私はこのまま一気に
「ごく一般的な学力を持つ中学生」と
弟が進化を遂げるような誤解をしてしまった。
私自身中学時代の学習なんてほぼ手付かずで卒業しているため、
受験生の苦労など知らずにいる。
優秀な大学生があっという間に2年強の学習能力を
付与してくれるような錯覚に、陥ったのだ。

週2回家庭教師は来訪し2時間みっちりお勉強を教えてくれる。
弟は彼との会話も楽しみながら学習することを
楽しみにしている様子だった。
嘗て現役だった頃、机を並べていた「THE・受験生」だった同級生らの
姿を思い出し、

「確か3年の夏とかみんな塾で、特講受けてた気がする」

と母に伝えた。
母に「特講」と言っても理解しえないのだが、
そんなもんかと塾への問い合わせを始めた。
というのが、楽しく学べる時間を大切にするのはいいのだが、
肝心の成績が上がる様子が全くなかったのだ。

「大丈夫ですよ」

という彼の言葉に嘘があったわけではない。
現時点の弟の学力を母も私も承知した上で
自分に家庭教師を依頼してきたのだと、彼は理解していた。
そりゃそうだ。

「全く勉強できないし、特に数学は壊滅的なんですけど
どうにかそこ数ヶ月で同級生と遜色ない程度の学力を
身につけてやってもらえませんか?」

なんて依頼、それこそ特講を請け負う家庭教師に
エブリディエブリタイム家にいてもらって、
学校で過ごす以外の時間は全てその人から教えを授かるくらいの
気構えでいて当たり前だ。
週2回2時間ずつの授業に何を夢見ていたのだ。
折角来てもらっているのだからと、母は
入塾することを家庭教師に伝えないよう弟に厳命した。
その辺り弟も理解していて口を滑らせることはなかった(と思う)

彼が就活に忙しくなったことをきっかけに
家庭教師とはお別れすることになった。
けどこちらは双方にとり、とてもいいタイミングだったと思っている。
いくら優秀な国立大学の学生さんとはいえ
頼んでいいことと悪いことがある。
母も私もその点すっかり見逃していた。

弟が、その辺の落第生とは一線を画した落第生なのだと
思い知らされたのはその年の10月。
夏に入って「夏期講習」をと望んでもどこもいっぱいで
うっかり夏をフルで楽しんでしまう「受験生」となった弟は
「秋からなら受け容れられます」という塾を
やっと母が見つけて、そちらに預けることとなった。
結構厳しいと有名なそこに私はまた、お門違いな希望を託した。

ある日、たまたまひとりで自宅にいたところ
電話のベルが鳴り受話器を取った。
弟が通う塾の講師を名乗る男性は私を弟の姉と確認すると、
とても申し訳なさそうに口を開いた。

「先日クラス分けのためにテストを行ったのですが
弟さんはうちではちょっと・・・」

またかと思った。そうくるかとも。
一頻り詫びて弟の現状を聞かせてほしいと申し出た。
通知表の数字が低空飛行を続けていることは言うまでもないが、
あまりに点数が低すぎるからか
採点され返却されたテストを1枚も、母にも私にも見せようとしなかった。
現時点で、かなり成績が悪いことは通知表から窺えるとはいえ、
実際どの程度の学力なのか今ひとつ図れずにいたのだ。
その人はとてもいい人で、私も弟へもかなり配慮したお話しぶりだったが
つまりは

「小学校からやり直さないと高校受験は難しい」

という回答だった。
「おおよそ中三レベルの学力を有さない」
と言われたので
「中一くらいからやり直せってことですか?」
とアホな質問をカマした私に対し言い難そうに

「いや、その。もっと前・・・ですかね」

そこでやっと理解した。申し訳ないと平謝りした。
「お役に立てず申し訳ありませんでした」
講師の言葉が虚しい。

電話を終え私は弟、若しくは母の帰宅を待った。
弟の小学校時代を思い出してみる。
かなりバカではあった。確かに子供の頃から勉強はできなかった。
ただ前にも書いたがパズルゲームなどはするする解いた。
テレビを視聴していて所謂「引っ掛け問題」というものに
遭遇したら、私は早速引っ掛かるのだが
弟は見事回避してみせたりなどしていた。
だから「言うてそんな物凄いバカではない」と
実にふんわりとした理解でいたのだが、
そこをひっくり返された。

弟が進学を希望していたのは私の母校。
進学も就職も望める環境が整ったいい学校だった。
どんなバカでも入れるともっぱら評判で
確かに私のようなバカでも入学できたわけだが、
ただ私は一応「中三レベル」にいた。
その中の劣等生だった。
弟はそこにかすりもしない。この違いはかなり大きい。

(どうするよ・・・)

高校まではせめて出したいという親の気持ち。
進学先を私の母校と定める弟の気持ち。
「中学出たら働け」と軽口を叩いている場合ではない。
志望校に手が届く状態にいないと
弟に分からせるためにはどうすれば。
私のようなアホでも入れる学校なら自分でも余裕と
考えているに違いない弟に、
その決定的開きを伝えるための「魔法の言葉」

いくら考えても思いつかなかった。
そのうち2人が帰宅した。

「塾から電話があったよ」

一瞬で顔を強張らせる母。
がっくり項垂れる弟。

(ああ、聞いてはいたんだな)

その様子から察する。
「何の用?」
母の短い言葉に敢えてダラダラと説明を重ねた。
弟の理解を引き出すために。
でも無意味だった。
愕然とする母を尻目にそれでも弟は
「あの高校ならいける」と思い込んでいるようだった。

(現実にぶち当たって思い知る他ないのかな)

深まる秋。迫る受験。
この時期になって今更、何をどうしろと。



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