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おとうと

第2話

育てやすい子だと母は言った。
私が生まれた頃父には別に家庭があって
母の妊娠を知るや否や
「堕ろせ」
の一言を残して一時連絡が途絶える程度には
責任感のない男だったといっていい。
どうにか諦めがついたのか、それとも現実を受け入れられたのか
生後7か月の私を漸く認知するに至り
以降は生活費の工面などきちんとしてくれていたようだ。
幼少期とても体が弱かった私は常に病院通いしていたそうで
ただでさえ苦しい家計を圧迫させていたらしい。
風邪を引けばすぐ拗らせ、必ず中耳炎も併発する。
母乳を吸う体力がなくてミルクを与えても
2・3口吸っただけで哺乳瓶から口を外し息も絶え絶えになる。
「お願い、ミルク飲んで!」
母は時間をかけて私にミルクを飲ませる。
けれど育児書に記載されている量ほどは全く飲めなかったそうだ。
初めての子育て、今でいうシングルマザーだった母は
家中の小銭を掻き集めるようにして金を工面し
育児書を買いあさったらしい。
あれもこれもと一通り読み倒し出した結果が
「育児書通りの子育てをしたらこの子を死なせてしまう」
というものだったという。
母は私が生後6か月の頃から毎日のように散歩に連れて行き
日光にあて、ひとつくしゃみをしたら即病院!と
ある程度のルールを決めていたそうだ。
耐性を付けるため、と言っていた。
ミルクが飲めなかった私も母手作りの離乳食は口にしたそうで
散歩→病院→手製の離乳食というルーティンで
虚弱だった私をどうにか成長させた。
5歳まではかなり弱く風邪をひきやすく
ちょっと走っただけでもすぐにもどしてしまうような子だったそうだが
小学校に入学した辺りからメキメキ健康になった。

上の子がその調子だったので弟についても
ある程度覚悟はしていたそうだが
弟はそれこそ育児書に掲載されるているような
「ごく普通の」成長を遂げていった。
ミルクは3時間おき、いつも母に「ミルクは200ミリ」と
作る量を教わっていた記憶がある。
調べると生後4か月頃からその量飲むようになるようだ。
弟がその月齢の頃からミルク係になったのだろう、私は。
昼間の睡眠も大体3時間ほどとり、空腹を覚えたりなどして目覚め、泣く。
ミルクをあげたり抱っこしてあやしたり、背中トントンしたり。
都度変わるが1時間もすれば再び眠気に誘われ、寝息を立てる。
そっと布団に寝かせるとビクッと体を震わせまた泣き出すこともあるし
そのままスヤスヤ眠ることもある。日によって様々。
祖母と同居していたので私が学校に行っている間は祖母が面倒をみていたが
それ以外の眠るまでの時間は私が弟の世話をしていた。
母が風呂に入れてもそう泣くこともなく
風呂上り、バスタオルを広げて弟をキャッチして
畳に寝かせ体を拭いてやるのが私の役目。
「あー、いい湯だった」
と今にも言い出しそうな表情に吹き出すこともしばしばあった。
母曰く育てやすい子だった弟は、すくすくと成長していく。


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