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おとうと

第28話

掃除の時間、みんなが机や椅子を教室後方に引き
弟もそれに倣って自分の机やらを引く。
にも拘らず「その音がしない」ことに気付くのに
少し時間がかかってしまったのは
聞こえなくなったのが右耳だけだったからだ。
騒がしい昼休み。ざらついた音が耳に障るのはいつものことで、
それらは弟の左耳にのみ届いていたのだけれど
本人はそれと気付かなかった。

「最近悪口を言われなくなった」

喜んでいたのだが、そうではなくて。
弟の右後ろから、いつも弟に罵詈雑言吐く連中は
それらを言わなくなったのではなくて
弟がそれらを聞くことができなくなっていただけだった。
ぬか喜びというやつだ。
そいつらは必ず弟の背後、右側に固まって
「オカマ」「死ね」「消えろ」
など、逆にその精神状態を心配してしまうような
未熟な感性はから剥き出された凄絶な悪意を、
容赦なく弟に吐き散らかしていた。
気が優しく大人しく、争いごとが嫌いな弟は
そいつらがそれを言わなくなるまで
黙って堪えていたらしい。

母に連れられ耳鼻科で診察を受け
突発性難聴と診断された弟は打ちひしがれていた。

悪口を言われなくなったわけじゃなかった

現実は弟の胸をこれ以上ないくらい
的確な角度で抉り取った。
支柱とか、他者に対する信頼感とか。
それでも人として
いじめ加害者を信じたいという心理は
いじめ被害者特有のものなのかも知れない。

どうにかこうにか踏ん張って
登校していた弟は
とうとうそれができなくなった。
母も「学校に行け」とは言わなくなった。
私はそもそも言わなかった。
父は静観していたように思う。
夏休みに1枚の葉書が自宅に届いた。
青や緑の蛍光ペンで書かれた、悪口雑言。
汚い字だ。体だけはデカくなったクソみたいなガキの。

どうしてこれほど残酷になれるの?

自分の中学時代を思い出す。
男子のそれは知らないが私もここまではやられていない。

無視
私物を捨てられる
聞えよがしの悪口

はあっても。
弟はそれらに物理攻撃も加わる。

「オカマは死ね」
「消えろ」
「学校に来るな」
「この世から消えてくださいお願いします」

14歳の心にどれほどの影響を与えたか。
計り知れない衝撃が50円の一枚にあった。

時を同じくしてある日、1本の電話がかかってきた。
とったのは私。かけてきた相手の声に聞き覚えはない。
「〇〇さんのお宅ですかー」
「はい、そうですが」
答えながら(子供だなぁ)と薄く思う。

「こちら××警察署ですがお宅の息子さんの△△くんが
チカンとのぞきで逮捕されていま刑務所にいます」

光の速さで叩き切った。恐らく相手の耳元で
景気のいい音が鳴ったことだろう。
ただ事でない様子に息をのむ弟。
狭い家はこれだからいけない。
家族の不穏な空気を瞬時に察してしまう。

「誰?」

恐る恐るといった様子の弟。

「知らん」

答えて、暫し考える。
のぞきでもチカンでも逮捕されたら
連行されるのは警察署にある留置所だ。
留置所から拘置所と場所を移し、実刑となったら刑務所入りとなる。
という知識というか常識というか、そういうものを携えない
幼稚な生物が放つ詭激さに、言葉を失ったのだ。

他人に「死ね」など言える人間性。
中学生だからと許される発言ではない。
少なくとも私はそんなこと、誰にだって発したことはない。

(一体どういう・・・?)

その思考回路が理解できない。
弟は間違いなく自分あてにかかってきた電話だと察し、
やたら彼是聞きたがった。
更なる不安に突き落とされると分かっていても
こういうとき、事実を知りたがるのも
いじめ被害者あるあるなのかも知れない。

簡単に事情を話し、
「何なのコイツら?」
と吐き出した。親の顔が見てみたいという感覚を
リアルに味わう日がくるとは、思ってもみなかった。
弟は今にも泣きだしそうな顔を
必死にすっとぼけさせて、頻りに首を傾げて見せた。

「もういい。ダメだコイツら。学校なんか絶対行くなよ」

「うん」

弱弱しい返事が聞こえる。
いじめに遭ったとき
私は転校したから分かっていなかった。
行かなくていい場所でも
その場に関連付けられている間、抱えなければならない
不安の大きさ。深さ。
学校に行かなければ救われるというわけではない。
いじめ加害者の存在は心に棲みついて
「もう離れた」と頭では分かっていても
心はいつまでも蝕まれる。

折角の夏休みも台無しになった中学2年の2学期。
弟の担任が家庭訪問したいと申し出てきた。
学年主任と一緒に。
母は安堵していた。

「よかった。やっと話を聞いてもらえる」

現実はそう容易くないと思い知らされるのは
その2週間後。
あいつらは今も元気でいるのだろうか。
もうとっくに死んでるかな。


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