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おとうと

第11話

牛乳を飲んでいた。
何曜日だったか覚えていない。
台所でグラスに移した牛乳を立ったまま飲んでいて
それを母に窘められた。
仕方なく椅子に腰かけ
とても美味しい牛乳を飲む。
特濃が好きだった。最近の牛乳は飲む気がしないが。

「2万円なくなってるの」
不意に母が言った。
牛乳の美味さに集中していた私は
母の話を一瞬聞き逃した。
「聞いてる?2万円なくなってるの」
もう1度母は言った。それで私も我に返った。
「2万円?」
聞き返す。
「なんの?」
全くピンとこない。金額であることは理解するが
なんの、どこの、2万円なのか分からなかった。
「バッグに入れていた財布の中。
10万円入れていたんだけど8万円になってる」
そこまで聞いて何を伝えたいのか分かった。
「なくなってるって何よ?」
疑われているのかと思った。少々気分が悪い。
「そうじゃなくて」
と母は言い「なくなってるって話」と。
お金が財布から跡形もなく消え去るなんてことはまずない。
「勘違いじゃないの?何かに使って忘れてるとか」
あまり本気で向き合いたくなかった。

まだ小学生の頃、醬油を買ってくるよう頼まれ
私は母から千円札を1枚預かった。
当時ガラス瓶に入れられていた醤油一升はとても重く
お使いそのものを好まない私は非常に気分を害し、
しかし母には逆らえずで仕方なく
近所のスーパーまでお使いしにいった。
両手で一升瓶を抱え帰宅し、お釣りを渡す。
640円。金額まで覚えている。
はい、と言って母は受け取り、私はそれまで読んでいた本を手に取り
再び読書に耽った。
何てことはない日常の一コマ。から3週間後。
「醤油のお釣りは?」
と凄まれた。下校してすぐ、お帰りも言わない母に。
母は昔からこういうところがあった。
記憶違いしているとは微塵も思わず
自分がふと思い立った、或いは記憶していると思い込んだ何かを
いきなり訴えてくる。
「あの時のお釣りを返せ!」
年に1度か2度のことなのだが、その時返したものは
もう私の手元にはない。
お小遣いをもらっても使うことはあまりない子だったから、
財布と貯金箱の中身を合算したら常に
7000円くらいは持っていたが。
「あの日返したよ」
何度訴えても聞き入れてもらえない。
「返せ!」「返した!」
やり取りしていると、そのうち母の手が上がる。
頬を思い切り平手打ちされ「返せ!返せ!!」と罵られる。
頬を叩かれ頭を殴られ太腿を蹴飛ばされ
それでも私は「返した!」と言い返す。
ますますヒートアップする母は狂人化してしまい
どうにもならなくなってしまう。
重ねて言うが年に1度か2度のこと。でもそれが堪らなく嫌だった。
640円程度なら所持している。
しかし返したお釣りを更に上乗せして返すなんて
馬鹿げた話があるものか。
散々殴打された頭や頬や腕や太腿や。
あちこちに強い痛みを感じながら
悔し泣きして640円を母に手渡す。
「本当に油断も隙もない」
捨て台詞を吐いて母は台所へと消える。
私は自分の手の平やお腹を思い切りつねって
怒りを必死に堪えるのだ。
「あんたなんか大嫌い」
言えたならどんなにスッキリするだろうと考えながら。

そんな記憶に苛まれるだけなのだ。母とお金の話をするのは。
2万円、財布の中から消えていると言われても
絶対何か誤解しているか忘れているかのいずれかだと思った。
牛乳を飲み干しシンクにグラスを置く。
「なくなってるなら探せば?」
そんな風に言って私は自室に籠った。
母は眉間にしわを寄せて「うーん」と唸っている。
弟は遊びに出かけていて留守だった。
狭い家に母と2人。中々に気づまりするある日の午後。

弟はデパートに出かけていた。
お目当てのゲームソフトを買いに。
財布の中に2万円入れて。


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