曖昧について考えた

ぬるま湯の「ま」についてあなたは説明できますか?ぬる湯じゃだめなんですか?

と言ったのはホコサキさんだったか。
人生において衝撃を受けたベスト10に入る内容だった。なぜそこに気がつくのか。それを笑いにできるセンスに驚愕した。ラーメンズにはまった瞬間だった。

しばらく、子守唄代わりにラーメンズを聞く日々が続く。

しかし、月日の流れとは残酷なもので、いつしか子守唄はサンドイッチマンになっていた。

お飲み物バナナシェイクでよろしかったですか?

バーガーショップのネタの中で、注文を聞く時の聞き方だ。

相手の今の考えではなく、注文を言った時の過去の発言を確認している。
もう変えませんよねという圧力も感じる。

不思議なもので、注文をとるときは過去なのに、注文を持って来るときは未来を暗示する。

こちらバナナシェイクになります。

今はバナナシェイクではなく、注文した人がが見て確認したあとにバナナシェイクになるようだ。

昔バイト敬語と呼ばれていたものだが、ある本によると間違いではないらしい。曖昧さで責任回避を意図していると書いてあったような気がする。曖昧でも伝わるのが日本語。

日本人の身上は察しと思いやりだから。

と言ったのは誰だったか。

そもそも日本語は省略しすぎだ。曖昧な部分は察するべきなのだろう。


ある吹奏楽が主題の映画を見た。言葉が足りない人達の物語。たまに心の中の声をうっかり声に出してしまう主人公。
数年前に人気で、1期はコンプリートしたが、2期は途中でリタイアしてしまった。

今回映画を見て、人間関係などわからなかったので、復習をしてしまったところ、はまってしてしまった。原作まで買って完結まで読んでしまった。

私は上手くなりたい
私が聞きたい。
私が全国大会に出たい。

曖昧さからのすれ違いを打破する為、主語を明確にした思いを伝え人の心を掴む。
いや違う、自分の心を明確にすることによる気付きと、自分の行動に対する責任は自分にあることの明確化。そして納得する。
その姿に感銘したのである。

お茶が入りましたという日本語は誰が入れたのか曖昧だが、謙遜を美徳とした美しい日本語であるとある本に書いてあった。

しかし、最近は自分好みにカスタマイズされた情報が多くなり、共通の認識が薄くなってきていると思う。
察しがうまく働かないことも増えてきており、同じコミュニティでしか通用しない察しも増えてきたように思う。

小説を読んでいても誰の発言なのかわからない事もある。画像化されて思っていたのと違う人だったことも。
曖昧さが加速しているのか、自分がコミュニティから外れてしまったので察することができなくなったのか。

ぬるま湯につかり、伝わっていないと気づくことも少なくなってきた今日この頃。
思いやりからの曖昧の美しさと、曖昧にしない事による伝えることの大切さ。
きちんと使い分けていけるようになりたいものである。








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