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「フルイ」にハマる

山本周五郎の小説に『壺』という短編があります。当方はこれが大変好きでござる('ω')。

この文庫の、最初に載ってるお話です(探すのに1時間くらいかかった(笑))

要約すると、

剣豪・荒木又右エ門のもとに百姓ながら腕が立ち、剣で身を立てたい七郎次という若者が「道の極意をお教えください」と弟子入りをする。又右エ門は「お前はなかなかできるので教えることはない」といって庭の荒れ地に七郎次を連れ出し、「ここに秘伝の書を封じたを埋めてある。掘り出したら極意はおまえのものだ」という。
七郎次は来る日も来る日も鍬で庭をぼっこり返すがなかなか壺は出てこない。夏のこととてげっそり痩せてくたばる寸前。そのとき又右エ門が聞く。
「おまえ、なんで草やら石やらゴミやらを脇になげるんだ」(大意)
壺を見つけるのに掘っているんだから別段ゴミまでよける必要はないではないか、と。振り向けば庭は作付け前の畑のようにキレイになっている。
対して七郎次はいやなにも、自然とそうしておりましたと答える。
すると又右エ門「壺は見つかった」という。

山本周五郎『壺』当方によるあらすじ。

当方はこのお話が大変好きだ('ω')。
極意とはワタクシなく自然とそうなるほどに身についたもの、と又右エ門はいうのですな。一意専心の尊さは剣でも鍬でもおんなじである。七郎次は「みんな悪い夢でございました」と鍬を形見にもらって故郷に帰るのですが、当方この話が大変好きだ('ω')(三回言ったw)。

…非常に前置きが長くなりましたが(笑)、当方このごろ庭の土を「フルイ」にかけるのにハマっております。フルイというのはこういうものである。

料理用のフルイで代用してますw

そろそろなんか植えたいウチの庭。小石やゴミをとりたいのです。まさに令和の七郎次状態

これがまた、やり始めると終わりのないものでなんとなれば1時間くらいすぐ溶ける。フルイにかけると、なるほど土はきれいになって作物がいかにもよく増えそうです('ω')。しゃがんでの作業で太ももの裏が痛くなるまでつい熱中してしまうのである。…どうでもいいけど週に2回は山で鍛えておる当方の足にもしゃがみ作業はこたえるものであります。休み休みやらねばならぬ。とはいえ地味に少しづつきれいになっていく土を見るにどうもこれは、墨をスリスリ豆をミルミル同じ中毒性のある

ユーダイ系ムーブ(心が雄大になる動き)

であるらしく、やはり止めるのが難しいのでありました。又右エ門の言う「無私」「無我」ではなく、単にオノレを見失っている状態である。

…しかしなんですな。「篩(フルイ)にかける」という言葉はどうも聞こえがよろしくない。

受験とか就職試験とか、なにか人為的に選別するとき使う言葉である。
まあ土から小石やゴミを取り除くのもまさに人為的な選別であり意味は全く同じだ。目的は生産性を高める(いっぱい食い物がとれるように)ことで、これまた世の権力者と思うところは同じようでもある。うーむ、昨今の政治を憂い、権力者や金持ちを嫌う当方にもまたそのようなココロがあったのか(-"-)…あ、でも権力者は自分で土の世話なんかしないか(笑)しかしまあ、ここでひとつ冷静に思い返してみると、

去年テキトウに植えたトマトですら食べ切るのに大苦戦した


介護コラムにも上げた、昨年の惨状。

ことでもあるし、自分の胃袋以上欲しがるものではないとフルイをふる手を止め、気づけば今日も太ももの裏がイタイのでありました('ω')。

お粗末様でした(*- -)(*_ _)ペコリ




たくさんのサポートを戴いており、イラストももう一通り送ったような気がするので…どんなお礼がいいですかねえ?考え中(._.)