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文体を持つ男

三島由紀夫の「小説家の休暇」にある短編、「私の小説の方法」で文体について触れていたので、少し考えた。

たまたま並行して、村上春樹と糸井重里のショート・ショート集である「夢で会いましょう」を読んでいた。

短編とすらいえないほどの、長くて7ページ程度の作品が、あいうえお順のテーマに沿って、村上春樹と糸井重里がランダムに書き連ねる(例:「パン」「アイドル」)

僕は村上春樹が好きだが、長編よりも短編集が好きだ。長編は最新作が出れば出るほど、長くなり、よくわからなくなっていっている気がするのは、僕だけだろうか。

「夢で会いましょう」を読み始めてすぐに、最初の数行で「これは村上と糸井、どちらの作品だろう」と推測して読むようになった。

村上春樹の文かどうかの見極めで一番簡単なのは、少し長めのカタカナに「・」を入れることで、洒落てる風というか、春樹臭が強烈に香ってくるようになる。

村上春樹はなんかいけ好かない感がありながらも、直接的な表現はせず、婉曲的だったり暗喩を用いていくことで、文章の最低限の品を保っている。

村上春樹好きな読者は多いはずだが(僕も含めて)、極端にいうと内容なんてどうでもよくて、文体が好き。という人の割合が多い気がする。

彼は明確に、文体を持つ男である。

一方の糸井重里の文章は、村上春樹との対比で品のなさが浮かび上がる。

コピーライティングはお上手な記憶があるのだが、コピーの上手さと短編の品格は別物のようだ。逆も然りで、優れた小説家が、優れたコピーライターというわけでもない。


物書きは、極論を言うと、何を書くかというコンテンツよりも、文体を持てるかどうかの方が大事かもしれない。

文体は言い換えると、作者が名無しの権兵衛でも、「これはあの人が書きそうな文章だな」と想起させることができる文章を意味する。

どうすれば文体を獲得できるのか。

あっさり獲得できる人も居なくはなさそうだが、大前提としてはそれなりの量の文章を書いた経験に思える。

文体は性格みたいなものであり、どんな人が文章を書いても、ある程度の癖みたいなものは滲み出る。

文章、ひいては文体から、性格を想像することもできる。

文体がすごくユニークな人は、頭の中がどうなってるのかな。と気になってしまう。

文体がある人の文章をたくさん読むと、自分の中にその文体が少し移る。ある種の、ウィルス的な性質を帯びる。

全然そうは思わないよ、と言われそうでもあるが、僕は浪人生や大学生の頃に村上春樹を読んでいたので、ハルキストであり、僕の文体の1%くらいはハルキイズムが染み込んでいる気がする。

情緒的な文章を書くときは、無駄に「・」を入れたりするし、三拍子を試みたりする。

「・」を入れる。みたいな話は、元恋人がよく話していた方言の一つが移ってしまった。みたいな感覚に思えなくもない(僕には特に方言が強烈だった元恋人がいた記憶はないけど)

どんな書き手にもおそらくは文体があるだろうが、文体が強い(言い換えると、キャラの強さとも言えるかもしれない)人の方が、個性が強いので、好かれもするし嫌われもする気がする。

誰の印象にも残らない文章を書いても、あまり意味がない。

好かれるか、嫌われるか。

いや、そのどちらでもないけど、「ああ、あの人の文章だね。文体でわかるよ」と思わせることができれば、物書きとしてはある程度成立した。と言えそうな気がする。


文体を持ちたければ、文体を持つ人の文章を写経してみると、多くの気づきがあって面白いので、お勧め。

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