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吉本興業と松竹芸能

このところ、松竹芸能に言及してきました。関西の芸能事務所と言えば、吉本興業と松竹芸能が二大企業ですね。最近のイメージでは、まったく規模が違うように思われるのですが(実際、そうなんでしょうけど)、昔はそこまで差がなかった気が…。
 
決定的に違いができたのは、1980年のマンザイブームのときだろうと思います。実際、マンザイブームのとき、活躍した芸人はほとんど吉本所属で、松竹所属といえば女性コンビで人気を得た春やすこ・けいこぐらいでしょう。このコンビも一世を風靡したけど。
 
社会学者の太田省一さんは、著書『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』のなかでこう述べています。
 

漫才ブームには、いわゆる「吉本の笑い」の全国区化という側面があった。ツービートは浅草を拠点にしていたが、紳助・竜介、ザ・ぼんち、のりお・よしおらはみな吉本興業所属であったし、B&Bも元は吉本興業に所属していた。

太田省一、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』、2021、ちくま新書、p. 22

このように、マンザイブームは吉本的な仕掛けの部分がいくばくかはあって、吉本と松竹の差がぐんと開いた印象です。でも、それまではある程度拮抗(抗争?)していて、相互交流というか、テレビでの両事務所の芸人の共演などはもってのほか、という厳しい雰囲気もあったんじゃないかな。
 
おそらく唯一の例外は松竹所属の笑福亭鶴瓶で、吉本の芸人とも仲が良かったし、同門系の明石家さんまとの共演もごくまれに行われていましたね。マンザイブーム以降、鶴瓶さんは1980年代以降の松竹芸能の屋台骨を一人で支えた大物芸人でした。
 
松竹芸能の若手漫才師が頭角を現すのは、ようやく1990年代の後半ぐらいからでしょうか。ますだおかだ、よゐこ、オセロ、TKOあたりが育ってきた。松竹芸能養成所も昔からあるようですが、吉本のNSCに後れを取った感は否めなかった。
 
ただ、先に述べたように、松竹と吉本が拮抗する歴史はわりと古くて、松竹の方が優勢だったころもあったはず。そうした経緯から、関西では松竹芸能の漫才師って、実は私たちの記憶のなかに深く刻まれていたんです。
 
それで、ダウンタウンとの関係なんですが、以前にも書いたように、コマ第三支部にはちゃっきり娘をイメージした出囃子があるとか、あるいは、『ダウンタウンのごっつええ感じ』の初期のコントで、松本人志とYOUが「しっつれいしました」というギャグを見せていたが、あれは若井ぼん・はやとの締めのセリフそのまんまと、松竹の漫才と深いつながりがあるように感じられるのです。
 
話は尽きませんが、では、また次回。(梅)


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