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遺書を書きたいな、と思った

別に今のところ自殺する予定はない。

これから先のことは分からないけど、自殺する予定になるつもりはない。

私は現在38歳で、突発的な出来事が起きない限り、近々に死ぬことは予定されていない。それでも、私は今日も、今この1分1秒もゆるやかに死に近づいているはずで、死ぬ予定はある。


私は、私が死んだ時に、周囲の人が悲しんだり騒いだり「いい人だったね」とか「亡くすには惜しい人でした」とか言う予定がある。それと、私の葬式はキンキラキンの装飾にして、ぜひ盛大にたくさんの人が来てほしいという願望がある。だから、その盛り上がりの演出のために、遺書を残しておきたい。”QRを読み込むと私の遺書が読めるよ!”としておけば、私はますます「いい人だったね」と言わせられる。文才が求められるけど。

だから、私の遺書は長くしたい。ストーリー性を持ったものにしたい。っていうか、私の人生を小説にしたみたいなレベルにしたい、理想的にはね。

だから、ここ(note)に、私の日々の記録を残していって、それが積み重なって、私が死んだ時に結果的に遺書になればいいなって思ってる。遺書って言わないかもしれないけど、私にとっては「遺書」の響きが魅力的。


私は、芸能人が死んだニュースに、実感が伴わない。だから、みんなが何故あんなにも悲しんだりわざわざ「ご冥福をお祈りします」とかいうtweetをするのかも分からない。ファンだったら何らかの喪失感が伴うんだと思うんだけど、そうではなくて例えばそれまで特別に応援したわけでもなく課金もしてない対象に対して、死んだ瞬間にファンになって感情的になりたがるのはなんでかなぁと思う。私もご冥福をお祈りしないわけではないけど、そこまで感情的にはなれないのだ。

実物を見たことも会ったこともない芸能人が死んだということは、その人の新しい作品がもう生まれないんだなということは分かる。でも過去の出演作が消えたり、存在自体が消されたりするわけではない。死んだというニュースがなければ、概念的には永遠に生きていることになる。

私だけが世界から盛大なドッキリを仕掛けられている可能性を考えることがある。本当は数十年前に死んだ人の作品を見せられていて、今日死んだというニュースを聞いたとすれば、私の中では今日死んだテイで悲しむわけである。もしくは、世の中は本当は私が思うよりずっとテクノロジーが進んでいる場合のドッキリも考えられる。つまり、テレビで見る芸能人が、実体としては存在していないけれど、視覚的には存在しているように見えるような仕掛けがされているかもしれない。合成技術で十分可能なような気はする。


そんなわけで、私も生物学的には現時点でそのうち死ぬことが確定しているのだけど、概念的には生き続けることが可能なんじゃないかと思う。例えば、明日私が誰にも知られず極秘に死んだと仮定するけど、2030年7月4日(私の誕生日)に「また歳をとりました~」という予約投稿をしていたら(物理的に可能かは別として)、2030年7月4日にそれを読んだ人は「48歳おめでとう~」と祝えるだろう。誰かの記憶の中で歳を重ねることですら可能だ。2100年7月4日の予約投稿ができたら、118歳おめでと~すら可能だ。


もちろん、私は人が死ぬことが悪いことだとは思っていない。概念的に死ぬこと、つまりどの時点の誰からも存在を消された状態になるのも、全然悪いことだとは思っていない。むしろ必然かなと思う。

だからこそ、私の遺書は誰にも読まれなかったら、それはそれで別にいい。


「遺書」というのは、自分の意思を誰かに伝えたいがために書かれる私的文書なんだそうだ。私的文書というのが、なんだか素敵。しかも「伝えたい」前提はあるけれども、伝わるかどうかは規定されていない。遺言書はもっとちゃんとしてるから、敷居が高いし、私が好むエンターテインメント性からは離れる。要するに、私の遺書は、遺書という名の日記です。

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