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大学を休学した話

私は大学を休学するまで、学校を休むことがほとんどなく(インフルエンザなどに罹ることもなかったし、病気になったことがなかった)、
ザ・健康優良児という感じで、健康面に関していえば、割と順風満帆な人生を送っていた。

そんな私が、ほとんどのことは「根性でなんとかかる!うつは気持ちの問題!」と思っていた私が、自分の意思で休学を決意するに至った経緯を(勝手に)話したい。

今まであまり触れなかったし。

そもそも、私が死にたい!と思い、自殺を考えたのは中学生の頃なので、その頃から多分多少病んでいたりしたのだとは思うが、話が長くなるので割愛。

(ただ、もともと学校の体罰、親の虐待などでメンタルは多少打撃を受けていた状態だったと思う。)


1番大きな異変を感じたのは大学2年目の秋頃。

まず、その年の春頃から不眠や胃痛、気分の落ち込みなどを感じていたが、全て一過性のものだったので、あまり深く考えていなかった。

しかし、夏頃になると、だんだん駅の広場などたくさん人がいる場所でも辛くて大泣きしてしまうことが度々あり、精神的に余裕を失っていたのだと思う。

ただ、まだ大丈夫!まだ大丈夫!!!いける!いける!と言い聞かせて、病院を受診することはなかった。

そして、ちょうど秋真っ盛りのある日、いつも通り朝目を覚ますと身体が全く動かなかった。

本当に、目だけが覚めている状態で、手や足はおもりがついているかのように重たく、本当に動けなかった。

あまりにもいきなりすぎて驚いたし、何より頭の中をものすごいスピードで、「もしかしたら、うつ。」「もしかしたら、うつ。」というワードが駆け巡っていた。

昼頃になり、スマホを触れる元気が出てきて、
「朝 起き上がれない」
で検索をかけると、またしても「うつ」的なワードが出てきて、そんなわけない!そんなわけない!!!!そもそもたいして苦しんでいない私がなるわけがない!!と必死に言い聞かせていた。

けれども、依然として身体は動かず、午後からの実習すら行くことができなかった。
(厳しい大学だったので、実習に行けないと点数的に致命傷になるのだが、それでも身体が動かなかった。)

その日は丸一日休んで、明日からまた頑張ればいい、と思ったのだが、医療系の大学の2年生なので解剖学実習が待ち受けている。

対象はもちろんヒトの御遺体だし、その精神的ストレスはもちろん、実習自体が長時間(1限から昼まで授業があったあと、13時から20時ごろまで拘束される)に及ぶので、体力的な面でもきつく、その上解剖学実習のレポートだけではなく、微生物学や、生化学、座学の方の解剖学、理工学などのレポートがたんまりと待ち受けており、
もう全部辞めちゃいたいなーーーー!!!!!
と思っていた。


それでも、辞める勇気などどこにもなく、次の日から学校生活を再開した。

次に異変を感じたのは食欲。

実習や授業が終わって家に帰ると、もう本当にこの世にあるものを全て食べ尽くしてしまうのではないだろうか、と思うくらいの食欲に苛まれた。

本当に、食べても食べても満足ができない。

当時の生活を具体的に書くと、実習終わり20時ごろに家に帰り、晩御飯を食べる。

その後床で寝落ちしてしまい、午前3時ごろに再び目覚める。

レポートも、お風呂も、何も済んでいないことに気がつき、焦りながらお風呂に入り、髪を乾かしたあと、コンビニに行き、甘いものやおかず類を大量に買い込み、食べ、レポートをする時間がさらになくなり、大焦りをしながらなんとかレポートをこなし、午前7時ごろに再び過食をし、それが終わったら登校という形だった。

この過食は本当にひどく、思い出すのも嫌なのだが、まずお菓子などの甘いもので3000kcalほど摂ったあと、パン屋に行き、パンとクッキーを買い込み、食べ、その後コンビニにいき、
ラーメンを買って食べ、それだけでは済まず、再びチョコなどの甘いものを食べつつ、深夜にかけてコンビニのおにぎりを6個食らうなどといったもう、健康に悪すぎる生活をしていたし、そのせいで体重が1週間で10kg増えたし、アルバイトで稼いだお金は全て過食に流れていった。

私は辛い食べ物が本当に苦手で、普段なら辛ラーメンですらひと口でギブアップしてしまうのだが、その時は全てがバグっていたため、
刺激が欲しくて、辛いものをたくさん摂取するようになったし、なぜか辛味も感じなかった。

朝から激辛のラーメンを食べて学校に通っていた。


そういう生活を続けて、精神的にも肉体的にも追い詰められていた矢先、ものすごく忙しいのに、基礎医(歯?)学のテストが2日連続であり、
1日目の科目をほぼ徹夜でなんとかしたあと、家に帰り、2日目の科目に取り掛かろうとしたのだが、ペンを持つ手がガタガタと震えてしまい、ペンを持つことすら出来なくなった。

さらに頭も回らなかったため、何をどの順番で覚えて、片付けたらいいのか(普段はわかるのに)全くわからなくなってしまい、パニックに陥り、机の前でただただ泣き続けていた。

結局、その日は1時間も勉強することなく泣き続けていたため、テストはもちろんボロボロで、自尊心もボロボロに堕ちていった。


そのまま年末を迎え、大晦日の夜、流石にこのままの精神状態では大学を続けることはできないかもしれない、と危惧し始めて、私を歯学部に無理やり入学させた母親に対して初めて「辞めたい。」と打ち明けた。

何があったのかあまり記憶していないが、「大学2年目で辞めて就職などできるわけがない、この先何がしたいか決まってもいないのに辞めていいわけがない。」みたいなことを捲し立てられて(正しい意見だとは思うが、当時の自分にとってはしんどい意見だった。)、言い返せるわけもなく、泣き続けていた。

もう耐えられなくて、1月1日の午前1時頃、母親が寝たことを確認して、コンビニに向かい食べ物を買い込み、家で過食をしたことがバレると母親に怒られるので、家の外で地面に座って泣きながら食べ物を口に運んでいた。

そして、そのまま家に帰ったのだが、朝になっても過食欲は治らず、結局朝も過食してしまい再び暴言を吐かれる、そんな生活だった。


年が明けると成人式が待っており、私は、
レポートもあるし、地元に思い入れなどなかったし、1ミリも出席したくなかったのだが、祖母があまり長生きできそうになかったので、祖母孝行(?)のためになんとか出席した。

成人式が終わってすぐ飛行機で大学県へとんぼ返りし、再び解剖学実習に臨んだ記憶がある。


2月頃になり、後期の試験が始まるとともに、初めての進級試験がやってきた。

この試験は、今までに大学で習ったこと全てが範囲で、なおかつ全教科の平均が65%を下回っていると、前期後期の試験の結果関係なく即決で留年してしまうもので、(私以外のみんなにとっても)とても苦しいものだった。

後期試験が終わって2日後に進級試験があるため、後期試験が終わったあとすぐに勉強に取り掛からなければならなかったのだが、本当にストレスがひどくて、大切な1日を過食に費やしてしまった。
(とはいえ試験の成績は後期は2番、総合では3番だったので踏ん張ってよかったと思う。)

試験が終わる頃、精神状態が本当に悪かったため、流石に精神科の受診を決意し、
病院に行くと適応障害と診断され、よくわからずにネットで調べると『ストレスが原因。ストレス因がなくなれば治る。』的なことが書かれていたので、
「ふーん!もう実習終わって春休みが来るから治るんじゃん!じゃあいいや(バカ)!」と思い、
処方箋を家で処分して、通院もすることをせず終わった。

適応障害は勝手に治るものだと思い込み、そのまま春休みを迎えたのだが、予想に反して事態はさらに悪化していった。

まずお風呂に入れなくなった。
1日だけとかではなく、普通に5日間くらい入れなかった。

さらにゴミを片付けることができなくなり、部屋はすぐにゴミ屋敷になっていった。

また、食器も1ヶ月以上洗えず、作り置きも1ヶ月以上常温で放置していた。(今思い出しても無理、鳥肌が立つ。)

またトイレも失敗することが増えた。

夜も眠れないし起きたら過食をして、ゴミはそのまま、風呂も入らない、歯磨きももちろんしない、着替えない、食器も洗えない、バイトにも行けない、ひどい有様だった。

そして、ちょうどコロナ禍に入ってしまったため、この生活はしばらく持続することとなった。

流石に見かねた母親が、家で面倒を見るから帰ってきたら?と言ってくれたので、それを信用して
家に帰ると、帰った当日から怒鳴り散らされ、泣いていると「悲劇のヒロインぶるな」と言われ、「そんなつもりはなくただただ悲しくて泣いているだけなのに、何故?」と思い、さらに涙が止まらなくなり、精神的にも追い込まれていった。

この時、初めて自殺の具体的な手段を考えるようになった。

朝に寝て、夜に起きて、夜中に過食をし(この頃は冷凍庫にあるのもを凍ったまま食べたり、調味料やホットケーキの粉をそのまま食べていたりした。)、明け方に死に方を検索して、さまざまな手段を比較検討するようになった。

もうお風呂も身支度も遥か遠い概念になり果てていたし、自死の未来が近づいてきているということを実感していた。

(↑が確か3月末くらいでここから5月末頃までは記憶が消失しているのでスキップします。すみません。)

再び記憶が再開したのが5月末頃。
いつものように過食を続けていたら、お腹がズキズキして、いきなり血を吐いた。最初は黒く、固まった血で、2回目は鮮血。

吐血に驚いたのだが、ヨーグルトでも食べたら治るだろう、と思い病院に駆け込むことはしなかった。

しかし、次の日になってもお腹の痛みが持続していたので親に「病院に行きたい」というと「死にたいのに病院に行くの、おかしくない?」と言われた。

確かにそうだったのだが、死ねそうにないのに、痛みだけは一人前にありしんどかったので、病院に行くことにした。
(結果、食道が裂けていただけで大したことはなかった。)


6月ごろになると、大学がオンライン授業を開始したので、大学を辞めたかったのだけれども、
もしかしたら今年は楽かもしれないし、楽しいことがあるかもしれないし、今辞めてしまったら全てが無駄になるという思いで続けた。

この頃も不眠で、朝日が昇る頃に寝て、2時間後くらいに起きて授業を受けるという生活だった。

過食は吐血で懲りたため少し治り、体重も徐々に減っていった。
ただ、太ってしまった分をはやく元に戻したく、夜の22時から毎日12〜13km歩くなどという奇行を繰り返していた。

また勉強もなぜか集中できず、授業もまともに聞くことができなかった。

他にも歯軋りがひどくて、歯が割れてしまったり、顎関節症が悪化し、口が全く開かなくなるなどのトラブルもあった。


その状態のまま、再び試験を迎えてとんでもなくひどい成績をとり、より精神的に落ち込んでいった。
(堕ちたらあとは這い上がるだけと言いますが、まるで堕ちることは終わりがあるかのように言いますが、地獄は沼のようでずっとズブズブと堕ち続けるものなのだとおもいます。)

病んでからは、バスなどの公共交通機関に乗っているときは気持ちが緩んで号泣してしまうことは割と多かったのだが、テストの結果が出たあとからは、書店や服屋にいる時も涙を流してしまうようになり、通りすがりの女子高校生を驚かせてしまうなど、社会的により危ない状況に陥ってしまった。

また、実習が再開したのだが、もういく気力も残されておらず、でも行かないわけには行けなくて、なんとか自分を鼓舞して大学に通っていたのだが、実習が終わり家に帰るとそのまま玄関に倒れ込み、泣き続け、なんとかベッドまで移動してさらに泣き続け、寝落ちし、夜に起きて、何もしていない!!と大焦りする日々だった。

朝起きると、今まではなんとか開けられていたカーテンを開けることができなくなり、起きた瞬間から自殺を考えるようになった。

学校に行くも、頭が回っていないが故に、
忘れ物がひどく、実習で使う色鉛筆を合計で4箱も買ったり、実習器具をまるごと忘れたりなどと今までになかったようなミスまで見られるようになった。

また身体は高熱が出ているかのようなしんどさで、腕を、指を動かすことですらしんどくて、実習を乗り切るのに必死だった。
(発熱によるしんどさと間違えて熱を測ることも多かった。)


それ以外でも、朝、何を着たらいいのかがわからなくなった。
これはコーディネート的なものではなく、その時の気温に適した服を着るということができなくなった。

例えば、春は昼間は暖かくて夜は寒いから、念のためにカーディガンを持っておく、夏は暑いから半袖で靴も通気性がいいものを選ぶ、秋は夜の温度低下に耐えられるような服を、冬はコートやダウンを着て、靴も露出が少ないものを履く、といった基本的なことがわからなかった。

当時の私は半袖にムートンのブーツを合わせてしまうくらいわけがわからなくなっていたため、他の人から見たらものすごく奇妙な人間だったと思う。

流石にここまでひどくなると周りの人が気がつくようで、自分的には普通な感じに振る舞っていても、「大丈夫?」「なんかおかしいよ?」と声をかけられるようになった。


それでも病院に行くという発想には至らず、自分でなんとかしようと思ったのだが、周りにも迷惑や心配をかけることが増え、最初に異変に気がついた大学2年の秋から、1年以上経った大学3年目の1月にようやく病院を受診し、治療がスタートすることとなった。


受診した初日から抗うつ薬と抗不安薬を処方され、色々と察したこと、それから薬によって頭が少しまともになり、休養という選択肢が見えたこと、それから吐き気、めまい、不眠、倦怠感などの身体的な症状がひどくて大学を続けられないと判断したため、大学を休学することを決意した。


ここまで書きながら振り返ると、早く病院に行っておけばもっと途中でなんとかなったのではないか、とか、もっと自分の気持ちに素直になっていればこう(今現在も精神科通院しているし、なんなら入院している)ならなかったのだろうな、と思うし、悔いても仕方がないけど、悔しいなぁと思ってしまう。

この世のありとあらゆる問題は全て自分で解決するものだと思っていたし、それがいわゆる自立した思考なのだと信じ込んでいたため、受診も遅れたし、病んでいることすらも気が付かなかったんだと思う。

本当に自立した思考や生活というものは適切に他者や社会の力を借りつつ生きていくことなのだと今になってわかった。


今、きっと我慢して肉体や精神に鞭を打ち続けていたつけがまわってきていて、何もうまくいかないし、ひとりで生きていくことすらできない身になった。
なので、当時の自分に声をかけるなら、
「もう頑張らなくていいよ、一緒に休もう。
そしてそのあとゆっくりと未来を考えよう。」
と言ってあげたいなぁと思うし、そして、身の回りにしんどそうな人がいたら、かつての自分にかけてあげたかった言葉をかけてあげたいと思っている。

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