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"個人の死"が持つ意味とその個人の持つ要素について。

※この記事に対する引用を禁じます。

つい先日、どこかの誰かの死亡事故のニュースを見た母親の口から、

「かわいそうに。この人の年齢的に、もしかしたら奥さんや娘さんがいるかもしれないのに。そんな状況かもしれないのに亡くなったのはどんなに無念だっただろう。」

という言葉を聞いた。

私はそれは確かに一理あると思いつつ、その類の言葉を聞くたびに私はある種の虚しさを覚える。

この人(母親)は、亡くなった人に〈子どもや家族がいない〉場合や、亡くなった人が〈障害者〉や〈高齢者〉だった場合は「かわいそう」ではないのか、「無念」がないと思うのか。
もっと極端な言い方をすると、そういう人たちは家族を持った健康な人と比べて亡くなっても良いものだと思っているのではないのだろうか。

こういうことを言うと「いや別にそうではないけれどやっぱり家族がいたりしたら辛いじゃない?」と返される。その意見には大いに賛同する。確かに家族がいたら辛い。

でも家族が居なくったって、周りから愛されている人かもしれないし、周りから愛されていなくったって、誰かの、たった1人の大切な人かもしれない、そうじゃなくったって、強い信念を持って生きている人かもしれない、信念もなく適当に生きている人かもしれない。

亡くなった人がどんな人だったかは、その人の周りの人しか知らないだろうが、例えその人がどんな人であっても、その死は平等に弔われるべきだと思う。

これはかなり前の事故で亡くなった方の話だが、これから結婚を控えた、私と同い年の男女が亡くなった時、世間では、「仕事も結婚も、全てがこれからだと言う時に、悲しい。」という意見が多く挙がった。

それを見た私は勝手に悲しみを募らせた。
亡くなった人は同い年だが、私とは違って結婚を控えていた。
もうこの時点で私の人生とははるかに違った人生を歩んでいることが透けて見えた。

(これは私の勝手な想像ですが、やっぱり結婚できる=うまくいっているという解釈をしてしまいます。私は病気のこともあり異性を好きになることができないので、まず異性を好きになれるという点ですら羨んでしまいます。すみません。)

では逆に私が死んだ場合どうだろうか。

私の死因で1番考えられるものはやはり自殺である。
『24歳の女性(私)が自殺した。』
このニュースをどこかで聞いた人はもしかしたら「迷惑かけずにひっそりと死ねよ。」と思うかもしれない。もしくは「友達だったから、生前、もっと話を聞いてあげれば良かった。」と思うかもしれない。もしくは「え〜まだまだこれからなのに、死ぬのは勿体無いな〜。」と思うかもしれない。

このどれをとっても、「これから結婚する予定で、しかも仕事だってこれからだというのに死んでしまったなんて。悲しい。」という気持ちが含まれたものはない。

これは私の死因が自殺だから仕方がないのかもしれない。

一方で私が事故などで悲惨な死に方をしてニュースで大々的に報じられる結果となった場合、
世間からは生前の私の生活や背景をよく知らないまま、
「これから結婚したり、たくさん仕事をして社会に貢献してくれるかもしれないのに、死んじゃって勿体無い。」という意見や、「まだ若い女性なのにかわいそう。」「きっと家族や友達に大切にされていただろうにこんな結果になってしまって...」という意見が挙がってくると思う。

でも残念ながらそれらは私にかける言葉ではない。

そもそも私は彼氏がいないので、結婚できそうな気配すらないし、仕事だって週5フルタイム勤務の人からしたらはるかに少ない仕事量だし、
仕事内容だってしっかりしたものではなく、カフェのバイトと夜職だし、友達には大切にされているかもしれないが、家族には大切にされていないというか、大切に思ってくれる家族自体いないのである。(私の家族は母親だけ。おじいちゃんおばあちゃんは皆もう亡くなっている。)

なので前述のまだまだこれからなのに可哀想な人ではないわけである。

このように、亡くなった個人の性格、生活、周りの環境などは本当にその人に近い人しか知らないので、その個人と全く関係のない第3者が予測して勝手に弔うこと自体が意味のない行為だと思ってしまう。(弔うことは大切だが、個人の背景を勝手に決めつけて弔うことが無意味だと思う。)

これは余談だが、私は中学1年生の時に母親に心中を迫られて死にかけたことがある。
(これについてはこちらの記事を読んでください🙇‍♀️)

もしそれで本当に私が死んでいたら、世間的には「虐待で殺された可哀想な子ども」だっただろう。

一方で、その虐待の記憶や虐待由来の精神疾患に苦しめられている私が自殺したところで、「メンヘラが勝手に死んだ。死ぬなら迷惑をかけるな。ひっそりと死ね。」と思われるだけだと思う。

私はこういう、個人そのものよりも、その個人に付随するもの(要するに付加価値的なもの)でその死の意味を他者が勝手に推測したり、決定したりする行為や、その行為に則って他者を弔うということが嫌いなのである。

一般的にはそういう人の方が多いしその気持ちはすごくわかるけれど、だけど、私はそういう考え方が受け入れられないし、受け入れられない側として、亡くなった個人をその人の付加価値とは関係なく弔い続けたいなぁと思っている。

それとは別に、私はしばしば自殺ではない死に方をしたいなぁと思っている。

それはやっぱり自殺=迷惑という考え方は世に広まっているものであり、苦しい思いをしながら生きていたが最後に心が折れてしまい、助けを求めてもだれにも助けてもらえずに、1人で木に縄をかけて首を吊る、あの時の孤独が人生最期の思い出になったとしても、「迷惑だ!」と言われてしまうのはやっぱり悲しいのである。

だから私は心中をしようとした母親にはあの時ちゃんと殺して欲しかったと思ってしまう。

24歳の私が自殺するよりも、中学1年の時の私が殺されて死んだ方が同じ命なのに弔われ方が全く違うので。


自分に対してはやっぱり大衆に弔われる死に方(自殺ではない死に方)をしたいと思うが、やはり他人に対してはその人がどんな人であれ、その人そのものではなく、その人が持っている要素で判断して弔い方を変える人にはなりたくないので、私はこれからも亡くなった人がどんな人であれちゃんと弔ってゆきたいな、と考えている。

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