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Your neighbor as yourself

なんだか友人からのLINEで心が温まって、言葉が溢れてきたので(チョコみたい)文を書く。ただそれだけ。それで、なんとなくメモにしておくだけだともったいないよなぁとか思っちゃう人間だから、設定は公開。特に意味はない。

「言語化って大事だよねぇ、自分を知るきっかけになる。」

「言葉って大事だよねぇ、相手に伝えるときにどれだけ妥協しないでいられるか」

的なことを大切にしてきたここ3ヶ月くらい。まじで疲れるよなあ、言葉にするって。それでいて、良いことばかりじゃないんだから。「あ、これが今の俺だわ!」って気付いた感覚を味わうと、酔っ払っちゃって自分の思考を停止させるもの。嫌だなあ、全く。困っちゃうよ。それが合ってるか合ってないか分かんないのになぁ。というか「別に言葉にしなくても分かりますー」系な凄い人もいる訳ですね。尊敬、本当に尊敬。

あれ、何言おうとしたんだっけ。忘れたな。ま、良いや。結論忘れて話長くなりがちだけど、うん、別に良いや。忘れちゃうから。あっそ、って思えたら良いのにいいいい。

思えないですね。自分に期待してしまうよ。期待してないとやってられないんだよ。まだ、なのかは分からないけど。とにかく今はそうなの。ん、また結論忘れた。笑える。これが徒然なるままに言葉を連ねるということです、テストに出ます。

うん。ん?


えっと、そうだ。最近、

「自信ってなんだろう?自己肯定感ってなんだろ?ポジティブ思考って本当に自分の心に優しいの?」

と考えてる。いろーんなことの蓄積でやっと考えるタイミングが来たと言った方が正しいのかな。知らんけど。

相手を信じるとか、期待することの曖昧さだったり独りよがりさは少なくとも頭の中では認識して理解していたけど、「自分を信じる」ことも同じように脆く不安定なものかも知れない。(はい、出ました。内省人間です。僕はこういうことばかり考える。)

どちらもまだ「頭で理解して心で染み込ませてっていう段階」で形には変化が訪れていないけど、今回の気付きは結構大事なものな気がする。大事だって、こんなに適当に言葉を選んでるくらい緩い文章。雑だなあ。そう言えば、書き言葉より話し言葉の方がやっぱり言葉選びが雑になりがちだよね。いや、書き言葉にしてもそうか。比較的一方通行だから、違和感を察知出来ないとかそんな理由ですね。でも、かける時間も関係あるな。ん、何だっけ。忘れましたagain。そうだ。あ、そう。なんで僕は自分を信じようとしてるんだろ?猪突猛進マインドが自分のやることじゃなくて、自分自身にも向いてそれが自分を疲れさせてる。

何かを信じるって結局、そのものの一面を全てかのように捉えて拡大解釈すること?なのかな。芦田愛菜さんが「星の子」の舞台挨拶で、こんな感じのことを言ってた。

その時から、ずーっと特別な空気を纏って僕の中に残っていたけど今まで待っててくれてたんだね。ありがと。

その対象が自分以外なときは気付けない。でも、自分が対象のときは気付けるような気がしてしまう。(それは即ち、自分以外の場合にも気付けるような錯覚に陥る危険性があるということ)

自分を信じるしかないときとか。自分の未来とか強さとか変化、感情、言葉。

これらも、本当は自分の色眼鏡で自分を見ているだけでしかない。自分の視野の範囲に存在する表象的なものにしがみついてるだけ。それらだけに焦点を当てて、振り回される。自分から見た自分なんて、ほんの一部でしかないのに。

なぜそれを信じて、期待してしまいのだろう。(おっとこれは長くなりますね。)

信じていたいとき。

信じなきゃやってられないとき。

きっとこの2つだという結論。(あ、結論じゃん。やっほー久しぶり)

信じていたいときは、どんなときだろう。あ、やめた。多分これは後に持っていった方がエモい文章になるわ。変えます。

信じなきゃやってられないときってどんなときだろう。僕の場合は、結構いつも。自分のやってることは正しいと思いたいタイプ。正しくあって欲しいタイプ。いや、正しいとかじゃなくて自分の望んでいる方向に持っていくものであると考えたいタイプ。じゃないと、なんでやってるんだろ?って思ってしまう。あらゆる言動や変化は、後に自ら意味づけするもの。すれば良いんだよって分かるし、誰かこんなことを言っていたらきっとそう言って励ます。無理しないんで良いんだよ、的な。これは、また別の方向で非常に押し付けがましい。こともある。が、一旦置いておく。え、てかさ心の動きって難しいよな。僕の場合、日常的に心がめちゃくちゃFlamingoしてるからどんなことからでも刺激を受ける。そんな中で1つを選ぶのって至難の技だ。きっと考えるタイミングにもよるなぁ。

うん、で、そう。つまり、それ自己防衛本能として自分を信じているということ。しかし、これは一方で(本当に本能はおバカちゃんで。。)自分への期待値を上げているので結果的に疲れる。と分かっていても、僕は自分を信じる。

そして、これがよりグラデーションにおける感情の色が強くなったとき「信じていたいとき」になる。ほとんど一緒だけどね。根本は。ただ、ちょっと違うのは、なんだろ。うーん、えっと、あれです。あれ、そう「今はこれに支配されている方が自分ええっすわ」と理解した上で、選択をするということ。例えば、プロジェクトが成功して実現する未来。

想像して、自分に期待して、理想に取り憑かれる。

こうしている方が推進力があるし、楽しいし、ワクワクするし、最高じゃない?笑

疲れるかもだけどさ!!!

みたいな。そして、あらゆることに対応はさせられる。

「自分を信じるのは、信じたいときだけにしよう。ただ信じるときは、全力で。」

こう僕は言ってた。ポエマーですね、相変わらず。結局、本質はどちらも信じるしかないんだけど考えようでは信じたいから信じるに変換も出来るってこと。で、自分を信じることが出来ないときも絶対にあってそれで良いってこと。

というか、相手に期待しないマインドを形成したいなら自分に期待しないという選択肢も持っておかないと。ありのままを愛するとか、自己肯定感・ポジティブ思考的な言葉を意識的に使っていてそういう自分が好きでいたけどこれって結構疲れる。本当に素敵な価値観持ってる人間だな、僕。と思う一方でこうでもしてないと保てない弱さを内包しているんだよな、僕。とも気付いてしまった。

ありのままの自分を別に愛せなくて良いよね。ありのままの自分が結構嫌いなときあるけど良いよね。結構嫌いだし、もっと上手くやりたいよって思うけど可愛いやつだなぁとも思える。じゃあ、それだけで良いや。


僕は、自分のことを愛せなくても。ありのままの自分が何を言ってきても、「へえ、あっそ。」


まあ、それで良いかもなぁと思う今日この頃。逆に自分を愛したいときは愛せば良い。


午前1時。

ああ、もう寝たいのになぁ。くわばらくわばら。

おやすみーー。


僕は自分を納得させるために、文章を書いてるのかもと今感じた。それで良いんだよっていう自己暗示をきっと今してます笑

【追加】

Your neighbor as yourself(聖書より引用)

隣人を自分のように愛しなさい。

そう言うけれど、自分を愛せない僕は隣人を愛せないのか。

それならば、それで良い。愛せる瞬間だけ自分を愛し、隣人を愛せば良い。

ただ、自分を認めることはこれからチャレンジしたい。そうすれば、隣人をより真の意味で認めることが出来るようになれるかも知れない。

自分のために生きる、とか大それた考えは一旦置いておいて、単純に自分を認めることから始めてみることにする。周りから見える変化はないだろう。

それで良い、

それで良いって敢えて言いたい。自分に対してかける言葉も大切にしよう。周りを大切にするためにも。

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