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多羽(オオバ)くんへの手紙─34

(1,885字)

いつからか、起きている時間の大半を仕事に費やす生活を送っている。
仕事帰りの飲み会に誘われても、そろそろ会も終わろうかというような時間にようやく顔を出す、というのが普通になっていた。
恋人との付き合いも、隙間で何とか遣り繰りする有様だ。

こんな早い時間に仕事が終わったのはいつ振りだろうか。
帰宅ラッシュ時の電車に乗るのは久し振りだ。
真っ暗な夜更けの街を歩くことに慣れきっていた体はコトホカ軽い。

地元の駅の改札を出ると、階段を降りてすぐのバス乗り場に人が並んでいた。
まだ少し明るさの残る黄昏時。
こちらへ向かってくる人波の中に見覚えのある顔があった。


多羽オオバ多羽オオバちゃうん?」

「おおー!羽田ハタやん。何?仕事帰り?」
「うん。いつもはもっと遅いけど、今日はたまたまはよ上がれてん。」

顔を合わせるのは成人式以来だが、多羽オオバだとすぐに分かった。

「アンタ何かフトったなぁ。」
「お前もな。」
「昔が痩せすぎてただけで今が普通や。っていうかアンタなぁ、一応アタシも女性やねんからもうちょい気ぃ遣ってくれる?」

見た目にも台詞にも加地のような軽さのない多羽オオバに、残念と懐かしさと安心がない混ぜになったような気持ちになる。

多羽オオバは何か用があったようで、ゆっくり話す時間は無さそうだ。
連絡先だけ交換し、その場は別れた。

「ほなな。」
「じゃあね。」
ずっと変わらない「ほなな」がこそばゆく笑い出しそうになる。

こういう時に恋が始まる予感や運命を感じる女の子であったなら
幸せな恋を掴み取ることが出来るのだろう。



多羽オオバと一度だけ電話で話したことを思い出す。
偶然会った日のように、珍しく早く帰ることが出来た日だった。


「アタシからの電話待ってたやろ。ふふ。」
「待ってへんわ。ハハ。」

お互いの恋人のことは話したように思う。

多羽オオバ彼女おるん?どんな人?かわいい?」
「アナウンサーの◯◯に似てるって言われてる。」
アナウンサーの◯◯はその頃人気のあった女子アナだった。

「アンタ、ホンマなん?それ。適当なこと言うてんのちゃうの。知らんと思て。」
「周りがそう言うてるんやって。オマエの彼氏どんなやねん。」
その頃私が付き合っていた男は戸澤《コザワ》のような、可愛げのあるダメな男だった。

「コザっちみたいな感じの子やな。コザっちみたいに可愛らしい見た目やないけど。」
「へぇ。そういやコザっち結婚したらしいで。中学の時付き合ってたアイツと。」
「うわ~そうなん!そうそう、おリンさ、ワーホリ行ってんけど途中から連絡なくて。」


他愛のない話をどれくらいしただろうか。
「じゃ、そろそろ切るわ。じゃあね。」
「おぅ、ほなな。」

きっとこれが最後の「ほなな」だろうと、他人事ヒトゴトのように聞いたことだけは覚えている。

そもそも多羽オオバは私に恋愛感情はなかっただろうし、私も付き合っている男と別れて多羽オオバに猛アタックしようなどという気は起らなかった。
恋の始まりを告げる鐘のを聴き取ることは出来ず、そのチャンスは二度と訪れることは無かった。
恋の始まりに最も重要なのはタイミングと勢いなのだ。

物語の第一章で主役だった多羽オオバは、第二章からは「回想シーンで時々登場する人物」になっていた。



***



リンの消息を知ったのは意外にも母からだった。

「おリンちゃんのとこ、お父さんの会社がアカンようになったらしいよ。会社たたんで、どっか引っ越したんやって。」

リンは帰国していて無事だった。
その一点だけで私は不謹慎にも安堵し、おリンの消息を知るために必死になっていなかった自分を恥じた。
いつ帰国したんだ、水くさいなどと、おリンに対して憤って良い立場ではない。


─大したことじゃないと自分の中で思えるようになるまで、親しい間柄の人間にも話さない─

これは性格の全く似ていない私とおリンの唯一の共通点で、この一点だけは私たちが無意識のうちにやっていたことだった。

必ずまた会える日が来る。
きっとどこかで交わる点がある。
自分を落ち着かせるためではあったが、確信めいたものを感じていた。



***



しばらくして戸澤コザワに似た男とは別れた。
私は二股をかけられていたと思っていたが、今思えば何股だったか知れたものではない。なぜモテていたのか不思議で仕方がないような男だった。

その後、何人かと付き合ったのち私は結婚し、おリンのいない地元を離れた。



35に続く…