見出し画像

さくらももこの偉大さを思い知った中3の夏

 実際にやってみると思っていた以上に難しいことってたくさんある。サッカーのリフティング、縦列駐車、木の葉型に整ったオムレツを作ること。
 私はエッセイを中心に投稿しているnoteユーザーだが、初めてエッセイを書いたときもそうだった。それは中学3年の夏休み。夏休みの宿題で書いたエッセイが私のエッセイデビューだった。

 私の通っていた中学の夏休みの宿題には作文があった。それは読書感想文や公募のエッセイなどいくつかの課題の中から自分でどれかひとつを選ぶというものだった。
 それまで私は毎年読書感想文を選んでいた。本を読むことが好きだったからだ。しかし作文が得意というわけではなくて、書いた読書感想文もあらすじとありきたりな感想を並べた平凡なものだった。
 しかし中学3年の夏休みは「私の身近な環境問題」をテーマとした公募のエッセイを選んだ。テーマに惹かれたわけではない。私はただエッセイが書いてみたかったのだ。
 なぜかというと私はその当時、さくらももこのエッセイにハマっていた。好きなバンドに憧れてギターを始める人のように、さくらももこに憧れた私はただ単純に自分もエッセイというものを書いてみたいと思ったのだ。中学生らしい単純な理由だった。
 他にも理由はあった。エッセイなら読書感想文より簡単なんじゃないかと思ったのだ。今考えると思い上がりも甚だしい理由だと思う。しかし当時の私はエッセイはただ自分の感じたことをかけばいいだけ、と甘く考えていた。それに私は毎日さくらももこのエッセイを読んでいるのだから、という中学生にありがちな根拠のない自信がプラスされ自分ならできると信じて疑わなかった。

 傲慢な自信に満ち溢れた私は国語の先生のもとへエッセイの募集要項をもらいに行った。
 国語の先生は私のクラスの副担任だった。私がエッセイコンテストに応募したい旨を伝えると、先生は嬉しそうに目を細めて応援の言葉をかけてくれた。

「あなたはさくらももこのエッセイをよく読んでいるものね。頑張ってね」

 余談だが私の通っていた中学は、毎朝のホームルームの後に10分間読書をする時間があった。雑誌や漫画はダメだったけれど、好きな本を持ってきて読んでもいい時間だった。毎朝読書をする習慣をつけて、活字に触れたり集中力を伸ばしたりすることがねらいだったように思う。
 そんな朝読書の時間があったので、副担任の先生は私がさくらももこのエッセイを好んで読んでいることを知っていたのだ。
 先生はよく見てくれているんだなと驚くと同時にとても嬉しかった。そして絶対によいエッセイを書こうと決意した。
 募集要項を受け取り、先生の応援に後押しされて私はますますできる気になっていた。

 夏休みに入り、さっそくエッセイの宿題にとりかかった。
 エッセイのテーマだった「私の身近な環境問題」については当時全く関心のないトピックだったため、全く筆が進まない。薄っぺらい考えをどうにかひねり出して文章にするものの、原稿用紙の空白はいつまでたっても埋まらなかった。加えて思考を深堀りして表現する力もなく、おまけに語彙力も乏しかった。意気揚々と書き始めたものの早々に詰んでしまったのだ。
 これも今なら思いつくことなのだが、先生に相談してアドバイスを乞えばよかったと思う。しかし当時の私は変なプライドを持っていて、何が何でも自分の力で書き上げたいと思っており、誰かに相談するなど考えもしなかった。
 かといって諦めて読書感想文に逃げるのも嫌だった。エッセイを書きたいと決意した自分に対しても、応援してくれた先生に対しても、裏切るような気がしたからだ。
 悩んで悩んで、どうにか書き上げたものの、できあがったエッセイは散々なものだった。薄っぺらい考えを文字数を埋めるためだけの意味のない言葉でさらに薄めた中身のまったくない文章だった。そのくせ恰好ばかりはさくらももこの真似をして軽快な文章っぽく書いていた。
 中身はないのに格好つけって一番ダサい。勘違い中学生の私にもそれは理解できた。傲慢だった私は、自分の実力不足を思い知った。
 それと同時にさくらももこの凄さと、人の心を動かす文章を書くということがどれだけ難しいことかを理解した。

 さくらももこのエッセイは中学生の私でも理解できるくらい読みやすい。そのうえ、その場面がありありと思い描けるほど情景描写や心理描写が巧みだ。さらに真骨頂と言えるのが、文章のテンポの良さ、言葉選びや比喩の絶妙さだ。それらを何でもないことのようにサラリと軽快に書き上げて、大勢の人に笑いと感動を届けている。それがさくらももこの凄さだ。
 読みやすい文章ゆえに、私はさくらももこがいかに凄いかをまったく理解していなかった。傲慢にも「もしかしたら自分でも書けるのでは」とすら思っていた。そしてそれは大間違いであることを、自分でエッセイを書いて初めて思い知ったのだ。「打ちのめされた」という言葉がぴったりだった。自分の至らなさを知った私はこれでやっとスタートラインに立てたような気がした。

 中学3年でエッセイを書くことの難しさを知った私は、今もこうしてエッセイを書いている。途中で文章を書くことから離れた期間も長くあり、小説に挑戦したこともあった。ただやはり、エッセイは読むことも書くことも格別に面白くて、マイペースながらも続けられている。
 エッセイの面白さをより一層深く理解できるようになったのは、拙いながらも自分でエッセイを書いた経験があったからこそだと思っている。
 日常のひとコマでも構成を工夫することでそれが物語になること。
 語彙力と表現力が優れていると解像度が高い情報を発信できること。
 文体に筆者の個性が表れて、それが読者の心を掴むこと。
 どれも自分で書くことを経験し、自分を知ったことで見えてきたものだ。

 中学3年の夏、エッセイを書こうと思い立ったこと。そして出来が散々でも最後まで書ききったこと。
 その選択をしたからこそ、エッセイを書く前よりも解像度が上がった状態でエッセイを楽しめているのだと思う。結果がどうあれ、経験する前と後では物事の見方が違って見えてきた。
 私にとって「読むこと、書くこと」はライフワークといっても過言ではない。そのライフワークをより面白いものにした、あの中学3年の夏の選択は大正解だった。
 「実際にやってみる」という選択が私の人生をより面白いものに変えてくれたのだ。
 

 
 



いただいたサポートは文章力向上のためのテキストや資料などの書籍費として使わせていただきます。楽しめる記事を書くことで皆さまに還元できたらいいなと考えています!