なぜ長文が書けるの?

先日、久々に会った友人が「家の中でもできる仕事がしたい」とブログ記事のアフィリエイトを始めたようで、「なぜ梅澤さんはあんな長文が書けるの?」というようなことを聞かれました。

そもそも私が書いている取材記事と、アフィリエイト用のブログ記事とは結構変わってくるので、同じ長文とはひとくくりでは言えないのですが、どちらにしても私はSEO記事の作成もやっているので、ふとこちらについて考えてみたくなり、書いてみます。

まず最初に思ったのが、いや、私も自分でテーマを決めて、そのテーマに基づいて長文を書き続けられない…です。
他の人とかかわって、仕事として原稿料を定めて引き受けているから、できます。

だとしても、なぜライターは長文を書けるのでしょうか?

いや、むしろ、私は文章を削ることばかり考えている状況なのですが…。逆になんで、長文書けないの?とは言えない…。

他人とやるからできる、につながるのですが、自分が言いたいこと、伝えたいことの場合はなかなか書けない。こうしたnoteに書く場合のエッセイのようなものは、時々はできるにしても、毎日はすごく難しいなと個人的に思います。毎日、noteをあげている人、すごい…。

たぶん、長文を書く云々の前に、言いたいこと・伝えたいことがあり、それが結果として長文になっているだけ。そして、それは自分のこと、自分の中にあるものだけではできないなと思います。

もちろん、時にワーッと自分の中にあるものを書きたくなるのですが、それって毎日ではないし、そんなに長文で頻繁に書くほどではない。あるとしたら、自分の中にある数個のテーマを、何度か掘り下げていくくらいなのかなと思います。


じゃあ、どうして長文になってしまう、文章を削らなくてはいけないほどになってしまうかというと、文章を書く、伝えるって、一言では収まりきらなくて、それは抽象的な表現にも具体的な表現にも両方置き換えられるし、その2つを行き来しながら伝えていくからなのかなと思います。

単純に、愛がこもっているものは、いくらでも説明したい、伝えたい
そんな気持ちが長文になるのかなと思います。
逆にそういう気持ちにならないものは、文章という形にできない…。言葉にしただけで終わってしまう。

と考えると、ただ文章にするって、本来はただ文章にするという行為なのではないかなと。
文章を作るために、文章にするのではなくて、文章という形にしているだけなので、それは写真、イラスト、絵、講演、直接会話する、動画にする…いろんな形にできるものが文章になっただけ。
文章にしたいとかではなくて、文章になってしまう、くらいの勢いを持ってやらないと、難しいような気がする。

実際、長文を書くって、結構フロー状態のような気がするんです。
かなり集中して、かなりの気持ちや心、ときには魂のようなものを投下していること、あります。
それくらいメッセージ性があって、伝えたくて、打ち込めるものがそこにあるって重要だなと思います。

文章を書くって、読むより結構大変な労力であることは、冒頭の友人の言葉にあるようにだけど、実際どれだけ労力をかけたところで、そういう気持ちがあるかどうか、って見た人にはすぐに伝わってしまうのだと思います。
これが離脱とか、PVとかって言われるものにもつながってくるのでしょう。いくらGoogle検索したときに上位に上がってきていても、愛のないものは画面への引き付けがまずない。

あんなに一生懸命、誤字脱字についてもないか、確認したのにね、ただやっただけの文章、作業的な文章は、やっぱり人間の目には、わかってしまうものですよね。

私自身も、ただの作業的なライティングはなるべく避けて、伝えるべきことのあるコンテンツにかかわっていきたいです。

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