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写真で空間を埋めること

「私は空間を埋めたいんです」
 
写真家・クスミエリカ氏の個展を尋ねた時に本人からそんな言葉を聞いた。普段、私たちは写真を立体物として考えることはあまりないし、実際、美術史上写真は平面作品に分類されてきた。一体、写真で空間を埋めるとはどういうことだろうか。
私はかつて何人かの写真作家の展示に立ち会ったことがある。いま思えば、彼らのほとんどが空間に関心を持っていた。彼らには「写真は平面作品である」という固定観念はもはや無いし、インスタレーションに用いるメディアの一つがたまたま写真である、という美術家も今日の展示文化では珍しくない。
例えば2017年に開催された「札幌美術展 旅は目的地につくまでがおもしろい。」(札幌芸術の森美術館)では、ウリュウユウキ氏が透明なフィルムに映したたくさんの写真を透明な糸に取り付けて、個々の写真が空間に迫り出す作品を制作していた。それぞれの写真は見る角度によって重なり合い、レイヤーとなって立体視される。
2024年に開催された「共振―本郷新+北海道の現代アーティスト」(本郷新記念札幌彫刻美術館)では、鈴木涼子氏が、目の見えない父が「手」で家族とコミュニケーションを取っていた様子を映した写真を展示した。展示室は非常に暗くなっていて、最初は写真がよく見えない。目が慣れてくるとだんだんと見えてくる。つまりこの作品は、写真そのものは平面だけれど、空間に展開している。暗い空間というその場所の特性を利用し、目が見えない状態を鑑賞者に体感させることで作品の主題への感情移入を巧みに誘導しているのである。
クスミ氏は今回の個展で新作《彼方の記憶》を展示。家族が撮影してきた昔の記念写真と、自分が撮影した現在の写真を組み合わせたコラージュをアクリル板に転写し、複数枚重ね合わせたものである。作品自体が立体的だし、映し出された写真もレイヤーになっている。古い記憶・新しい記憶がそれぞれ断片となって重なり合い、撮影者すらも曖昧な状態で交差して新しいビジョンを構成する。それは自分という人間は自分一人だけで出来上がっているわけではない、ということを何となく想起させる。

クスミエリカ《彼方の記憶》2024年


それぞれの作家によってアプローチも様々であるが、写真に立体感を持たせたり、空間に展開したりする志向がみられる。その理由についてクスミ氏は「写真は元々三次元だから」と語る。確かに写真は、三次元の現実を切り取って、二次元の枠に落とし込んでいるものだ。この二次元をまた三次元へ展開しようとしても、元の現実が現れることはないのだけれど、だからこそこの過程には創造の余地があるのかもしれない。そして三次元化の方法も、ただ作品を物理的に肥大させるだけでなくて、その場所の空間的特質や人間の生理現象や時間性などを駆使して行われるのである。
この広い意味での空間への展開は、鑑賞者が作品の世界観に没入していくのに大きな役割を果たす。制作者側の展示のセオリーとして、「鑑賞者になるべく五感をフルに使ってもらう」というのがあるのもそのためである。鑑賞者のアンテナに刺さるきっかけが多ければ多いほど、鑑賞者は作品を「私事」ととらえて見てしまう。私はそれが本当の作品の「大衆化」なのだと考える。大衆化とは、一時的なトレンドに乗っかることでは決してない。ここで彫刻家・本郷新(1905~80)の言葉が今もなお重く響いてくる。
 
「大衆的であるということはあまくて低いということではありません。逆に非常に高いものを求めているのです。大衆的―それは作品が幅広い底辺を持っていること、土台がしっかりしていることだと思うのですよ」


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