できなかった乾杯 ~あこがれの元巨人軍多摩川グラウンド~(エッセイ)
梅雨の合間に、夕方のウオーキングを再開した。
これまでとルートを変え、車も人もあまり行き来しない通りを選んで歩いた。辺りに人がいないか、うしろを振り返ると遠くの方で杖をついて歩いているおばあちゃんしかいなかった。
前を向きなおり、ウオーキングしながらマスクをあごにずらした。直に吸う新鮮な空気は我が身体を生き返らせてくれるには十分だった。
知らぬ間に鼻の下に薄っすら汗をかいていた。ポケットからすこしヨレヨレになったハンカチを取り出し、汗を拭った。
路地からひょいと男が現れた。白いマスクをした男は髪がすこし後退している。男がこちらを二度見した。ぼくはマスクをかけ直し、すれ違おうとした。
「あれっ、うまちゃん?」
くぐもった声で男が聞いてきた。
ぼくは男が誰なのか、判別できないでいた。
「はいっ?」
「俺だよ、俺」
ぼくは路上でオレオレ詐欺に引っ掛からないよう少々身構えた。
男がマスクをはずす。
「俺、たけお。覚えてる?」
脳内回路がはげしく作動する。小学校時代の同級生だと気づいた。
「おおおお、タケちゃん。もちろん覚えてるよ。今何やってんの?」
「警備会社に勤務してて、たまたま今は実家に帰省してるんだ」
東京のお盆は7月だったことを思い出した。
「うまちゃんは、何してんの?」
「ウオーキング」
「そう。なら、もしよかったら駅前の居酒屋で飲まない? 偶然にもこうして出会えたからさあ。小学校以来だよね」
「そうだね。いいよ、飲もうよ。そういえばタケちゃん、中学受験したんだもんな。今どこに住んでんの?」
「新木場」
「東京かあ」
「うん、だから帰省できたんだ」
「なるほど。東京だってその人から見たらふるさとだもんな」
ぼくたちは駅前の居酒屋に入った。
二人用テーブルは大きなシールドで左右を区切られていた。
席に座り、とりあえず生ビールを注文した。
「タケちゃんといえば、あの夏だよな。多摩川の巨人軍グラウンドに行った夏」
「おうおう、覚えてたのか、あの夏を。俺だけ捕まって怒られたんだ」
店員がジョッキを運んできた。
「カンパイ」
さっそくぼくたちはジョッキを上に掲げるだけの静かな乾杯をした。
ぼくは店員に注文する。
「これから注文するものはすべて皿を2つに分けて持ってきてもらえますか」
店員は快く聞き入れてくれた。
「冷ややっことおでんね。季節外れだけど」
「おでんか。いいね、あのときのおでん」
「うんうん」
◇
小学5年のとき、大の巨人ファンだったタケちゃんとキーちゃんとぼくの三人は人工芝の話題で持ちきりだった。プロ野球のグラウンドで将来人工芝が使われるらしい。まだ見ぬ人工芝とはなにものぞ、と興味津々だった。
「あの後楽園球場も人工芝になるのか」
「人工芝はやけどしないらしい」
「いや、大やけどするんじゃないか」
「人工芝も夏は伸びるらしい」
「人工芝も水をまかないとだめなのかな」
みんな言いたいことを言い合っていた。
人工芝が試合で使用可能かどうか、とりあえず、日本で一番先に試してみることになったのが多摩川にある巨人軍グラウンドのブルペンだった。
そこで、われわれ三人は多摩川に行き、人工芝なるものを見て触ってこようということになった。
ブルペンでは二軍の投手2人がブルペン捕手2人に目掛けて投球練習をしている。
捕手たちは投球を受けるたびパシンとキャッチャーミットを鳴らし、「ナイスボール!」と口々に発していた。
マウンド上は土でも、投手と捕手との間は緑まぶしい人工芝だった。
ナップザックを背にしたぼくらは、10本の指を突っ込んで金網をわしづかみしながら人工芝を見入った。
「うわっ、きれいだな、人工芝!」
「すげえ」
見たこともない人工芝は普通の芝より色がすこし濃く、きれいだった。
タケちゃんがぼくの肩を掴んだ。
「うまちゃん、人工芝は気持ちいいのかなあ」
「どうだろう。気持ちいいんじゃないか」
ぼくは早く触りたくなってきた。
まだ人工芝が貼られていないときにファンがブルペン捕手に話しかけている光景を思い出した。
ぼくは意を決して、投手が投げ終わった一番手前の背番号63番の捕手に聞いてみた。
「ところせんしゅー。人工芝って気持ちいいんですかー?」
「おお、きもちいいぞ! ちょっと硬いけどな」
「へー、硬いんだあ。触ってみたいなあ」
「だめ。ぼうずが触るなんて100万年早いわ」
選手たちに笑いがおきた。
となりの投手の球を受けている52番の捕手も笑っていた。
キーちゃんがナップザックからポケットサイズの選手名鑑を取り出すと、タケちゃんがそれをひったくるようにして、ページを開いた。
「あったー。背番号63、ところせんしゅだ。52番はさかなせんしゅ?」
「ハハハ。それは、うおせんしゅ」
ぼくがタケちゃんとキーちゃんに教えた。
「うおかあ」
「巨人の捕手は名前がおもしろいんだ。一軍の捕手はだれだかわかるよな?」
「キャッチャー森だろ」
「そう。『森』と『所』と『魚』って、みんな漢字一文字なんだ」
二人は頭を寄せ合いながら一冊の選手名鑑を眺めた。
「おお、ほんとだ! すげえ」
二軍の選手たちの練習が終わった。選手たちが三々五々、グラウンドをあとにする。
グラウンド・キーパーの人たちが「トンボ」で土をならしている。トンボというのはふさふさの糸のまったくない大きな木製のモップのようなものだ。
ぼくらは練習が終わった選手たちが土手の階段をのぼった向こう側にあるおでん屋に入るのを知っていた。
そこへ行くまえに、ぼくらは頭を寄せ合った。
選手たちがみな帰ったあとに金網を乗り越えて、人工芝の上でキャッチボールをしようとずっと前から企てていた作戦を確認する。それぞれナップザックにはボールとグラブを忍ばせていた。成功したら、あのおでん屋さんに行きラムネで乾杯することにした。
ぼくらは選手が帰ったのか見届けるため、土手の階段をのぼり、おでん屋さんの前に来た。
おでん屋さんからちくわぶを持った大きな選手が現れた。身長2m弱あるショートの上田選手だ。上田選手は大きな身長を猫背にしてちくわぶにかじりついていた。
おでん屋さんからもうひとり、目のぎょろッとした選手が現れた。こんにゃくとはんぺんを両手に持った柳田選手だ。どうやら上田選手と柳田選手が残っている最後の選手のようだった。
柳田選手がこんにゃくを噛みながらぼくらに近寄ってきた。
「ぼうず、おいしそうだろ? 俺たちはなあ、このおでん屋にあるおでんはどんなに喰ってもタダなんだ。いいだろう?」
「へー。いいなあ」
本気で巨人軍に入りたいと思った。
タケちゃんもキーちゃんも目を輝かせている。
上田選手と柳田選手はぼくらに一口たりともくれることなく、食べ終わった。
二人は土手沿いの道路をカツッカツッ、カツッカツッ、とスパイクの音を残しながら駐車場の方へ歩いていった。
ぼくら三人は目を合わせ、土手の階段を戻った。だれもいないグラウンドは活気があったこれまでと打って変わって静かで、整備されたグラウンドはまるで緑の海に浮かぶ京都の枯山水の庭園のようだった。
ぼくはそっと金網に手をかけ、よじ登った。
二人も続く。
てっぺんまで登ると、ジャンプしてグラウンド内に侵入した。ぼくは走って人工芝なるものを手で触った。
「うわっ、硬え」
みんなもうなずく。
ぼくはナップザックを背中からおろし、放り投げた。寝転んで、ごろごろ身体を回した。ふかふかのベッドを想像していたけれど、身体は結構痛かった。
ナップザックの中からグラブとボールを取り出し、グラブを手にはめた。
みんなもグラブを手にはめる。
同心円状に波目が描かれている土のマウンドに立った。
ホームを見るとタケちゃんが、その中間にはキーちゃんがグラブをはめて立っている。
ぼくはマウンドからタケちゃんにボールを投げた。それをタケちゃんが受け、キーちゃんに返す。キーちゃんからぼくにボールが戻ってきた。
それを何度も繰り返していた。ボールを投げた。
「コラー!」
おでん屋さんのほうから怒鳴り声がした。
見ると、まるでカマキリが威嚇するようにトンボを振りかざしてグラウンド・キーパーのひとりが階段をおりてきた。
「やばい、逃げろ!」
ぼくらはグラブをナップザックにしまって、それぞれ背負った。
速攻で金網をよじ登り、ジャンプして下りた。
そこから一目散に走った。グラウンド・キーパーはトンボを置いて全速力で追いかけてきた。
タケちゃんが遅れだし、グラウンド・キーパーに捕まった。ぼくとキーちゃんは逃げ切って、河原の木の陰に隠れた。
タケちゃんはグラウンド・キーパーに腕をつかまれながらグラウンドに戻っていった。トンボを持たされたタケちゃんは、ブルペンのマウンドの砂をならしていた。
ぼくとキーちゃんは木の陰からただそれを見ているだけだった。
そういえば、小学校低学年のときに学校の近所でタケちゃんとキーちゃんと三人でサッカーボールを蹴って遊んだことを思い出した。たまたまそこへそば屋の配達がおぼんを肩に乗せて自転車で通りかかった。そのとき、自転車の足回りにボールが絡んだ。その瞬間、そば屋さんとそばがひっくり返ってしまった。あのときもみんなで逃げたが、タケちゃんだけがつかまり、そば屋さんから怒られていた。
やがてタケちゃんはグラウンド・キーパーに連れられて、おでん屋の方へ消えて行った。
ぼくらはグラウンドのブルペンに戻ってマウンドを眺めた。
そこは緑の海に浮かぶ枯山水が戻っていた。
遠くを見ると、太陽が向こう岸の建物に隠れようとしていた。
◇
髪の後退したタケちゃんが顔を赤らめていた。
「あのときは参ったよ。でもグラウンド・キーパーさんが優しい人で、砂をならしたら許してくれたんだ。人工芝にも触らせてもらえたし」
「悪かったな。俺たちのぶんまで働いてくれて」
「いや、いいんだよ。今となってはよい思い出さ」
「でも、タケちゃん。タケちゃんは足が速かったよな。あのとき、わざと逃げ切ろうとしなかったんじゃないの」
ぼくが質問すると、冷ややっことおでんが運ばれてきた。
タケちゃんはゆっくりジョッキを持ち上げ、ビールを口に含んだ。
「なんで?」
「いや、なんとなく」
タケちゃんはジョッキをテーブルに置き、軽く微笑んだ。
「わざと、捕まるかよ」
「そっか。それならいいんだ」
ぼくはおでんのはんぺんを一口食べ、話を変えた。
「ところで今度、多摩川行ってみないか。巨人のグラウンドもおでん屋ももうないけどな」
「行ってみるか。多摩川も変わったんだろうな」
そう言うと、タケちゃんはスマートフォンを指でなぞった。
「あのおでん屋まだあるよ。ほら」
スマートフォンを見せてくれた。
「うおーーーー、ほんとだ。メニューにラムネも書いてあるぞ。あのときできなかったラムネで乾杯しに行こうよ」
「うん、そうだな。どうせならキーちゃんと三人で行こうか。もりあがるぞー。キーちゃん、どうしてるかな」
「キーちゃんは、都内の小学校で教頭先生やっているって聞いたけど。探してみるか」
「うん」
居酒屋の壁に設置されたつけっぱなしのテレビからは、いつのまにか巨人対阪神戦が流れていた。
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