思いやりの範囲
"マスパセ"と言う社会現象以降、俺は殆ど例外なく彼を擁護してきた。
何故なら、彼は多少は狂っているが、世間の狂い方に比べれば健全な狂い方をしているからだ。
そしてそれは俺も同じで、自分では彼より控えめに狂っていると認識している。
勿論世間より健全に。
ではこの「狂い」の差とは何だろうか。
それこそが「思いやりの範囲」である。
どれだけ頭が良くても、相手の気持ちを考えれない人にはなりたくないな。
自分一人の世界なら好きにしたら良いけど、そういう訳にはいかない。
思いやりの心は大切です。
と、この記事のトップコメは言う。
如何にも善良で模範的で素晴らしいコメントに見えるが、
結局彼や彼等の思いやりの範囲は、「コロナに怯える人々」しかいない。それ以外の人間は人間として認められていない。
それは言ってしまえば、白人による有色人種差別のようなものだ。
勿論レベルが違うと言う陳腐な反論はすぐ思いつく。しかしそのレベルの違いとは、歴史的な時間の長さ、システムの大きさ、機能の差でしかなく、
同じ人間として認めていないと言う点では同じだろう。
彼等は思いやりと言いながら、みすの価値観に批判的な者には、恐らく平気で「コロナで苦しめ」と言ってのけるに違いない。
善良に見えるのは実は普遍的な価値観、道徳的善からではなく、弱さが訴える儚さが作り出す幻想であるからに過ぎない。
俺は、またマスパセは違う。そんな独善的な、弱さからくる奴隷道徳論ではなく、
今本当に苦しんでいるのはコロナに怯えている人達「ではなく」、コロナ恐怖が作り出した言論や行動の自由への不当で過剰な制限の被害者である、彼等こそ本当に守り救わねばならないと言う問題意識だ。
漠然と罹ってもいないのに不安になってる奴等や、元々インフルでも死んでいたであろう人々の命ではなく、人間が過剰に恐怖することにより実際に雇用や住む家を失った人々への思いやりだ。
コロナそのものは自然の摂理に過ぎない。天災と呼ぶにはしょぼ過ぎる。
30万人程度しか年間の陽性者(決して感染者ではない!)はでず、
どんな死に方でも陽性になったと言うだけの人が4千人程いただけだ。
インフル未満じゃないか!!!
何故彼等はインフルで亡くなった方々には見向きもせず、コロナに関しては無症状なる言葉を以て怯えているのだろうか。
そんな人々の"欺瞞"に憤っているのがマスパセであり、俺だ。
我々は本当に思いやりの気持ちと言うものをとう捉えるべきか。その範囲をどの様に規定するか。
自分への思いやり?家族への?友人への?職場への?社会への?
範囲によってその形は変えねばならない。
しかしそれを変えずに全てを統一して、押し付けるのが「コロナ禍の思いやり」だ。
これが異常でない訳がない。
彼等の思いやりとは独りよがりの独善だ。
健康で働ける者を病院に隔離するのを思いやりと言う。
罹っても問題の無い若者を脅して仕事を奪い、所得を奪い、生き甲斐を奪うことをも思いやりと言う。
こちらの希望なんか一切聞き入れない癖に、思いやりを押し付けてくる。
こんな欺瞞に付き合ってられる奴等は、はっきり言って人間として終わっている。
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