傷つくことを恐れるエゴイズムより喧嘩しろ

最近の薄っぺらい傷つくことを恐れる人達のナイーブさには本当に憐れみを覚える。

彼等は余りの脆さに豆腐の角で頭をぶつけて死ぬのだろう。

そして弱い犬程吠える。

昨今のネット上のバッシングなんてまさにそれだ。

絶対的正義と言う後ろ盾があり、かつ相手が反論できないと言う前提があれば、溺れた犬は叩けとばかりに勢いよく飛びかかる。

これは完全に異なる人物により繰り広げられているとは到底思えない。同じ人物が相矛盾することをやっているのだ。

だが表面的には矛盾に見えても、本質的には矛盾はない。

弱い犬は吠えにゃならんから。

弱い犬が吠えるのは戦わなくて済むように最大限頑張るからだ。

逃げられるのなら、一目散に逃げる。

そしてこの手の優しき人々は、関係が極めて薄っぺらい。

そりゃそうだ。傷つくことが楽しさや嬉しさより重要なのだから。

だから基本的に人間関係には無関心だ。だが他人に傷つけられたりすることには極めて敏感だ。

勿論、それ等が個々人の自由なのは当然だ。

だがその自由は他人に傷つくな、傷つけるなと価値観を押し付けることを正当化はしない。

人々が傷つくことを過度に恐れて以降、人は傷つきやすくなったし、余計にそれを恐れてどこにも地雷が埋めてあるような社会になった。

昔ならそんなこと、気にもせず済んでいたことが、今では大袈裟でなく、人が死ぬような話になるし、人が死ぬことも、昔は当たり前だったのに今は許されざることとなったと言えよう。

馬鹿な話だ。

傷つくことから逃げたら人間は脆くなる。

反対に傷ついても立ち直れる社会は人間を強くする。

前者は苦痛から逃げ切れたように見えながら実は人々の選択肢や忍耐力を奪い、よりきつい現実を生み出し、

逆に後者は逞しさと楽天的なビジョンを与えてくれる。

そして若干語弊があるが、人間関係が好転し得るのも傷つくことに躊躇しない世の中にこそある。

語弊とは勿論、傷つけることに意義かあると考えることだ。勿論そんなものは目指してはいない。自由で他人の思ったままの感想と言うのは実は有意義なことも多い。

傍目八目と言うが、自分の考えているより他者の方が見えていると言うことはよくあることだ。

そう言う耳に逆らう忠言のようなものを言える社会は、また聞ける胆を持つ人間が築く社会は、極めて勁く有意義な社会になるし、それぞれが切磋琢磨し、向上することもある。

例えば今では早慶で有名な早稲田創始者の大隈重信と、慶應創始者の福沢諭吉の関係がそれだろう。最初は同族嫌悪で互いを罵り合っていたが、結局は互いに打ち解け合い、親友となる。

お互いに傷つけ合わない平行線より、傷つけ合う自由な線の方が人間も強くなるし、社会における影響力も強くなる。

今の相手を傷つけないことに価値を見出す社会では大隈重信や福沢諭吉は生まれないだろうし、彼等の唱える意見すら黙殺されるだろう。果たしてそれが我々が目指すべき社会像なのか。


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