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道徳は平等

ほんこん、ネトウヨ臭がきつかったころはちょっと敬遠してたが、コロナ禍以降、意外と積極的にまともな発言を繰り返していて好感度が俺の中で上がっている。

今回の問題、即ち彼の主張である、「アスリートなめんなよ」は、とても正しい主張だ。彼等の元々持つセンス、才能と、それをより発揮できる為の技術的、体力的トレーニング、戦略、どれもこれも一流で活躍する為には、特に裾野の広い分野では大切なものだ。

勿論、その差が拮抗していれば最後は「運」と言うこともあろうが、

実力が物を言う分野では、いや、汎ゆる場面では重要であり、それによって人々に差を生じさせる。

だから左翼はそれを嫌がる。強い者が弱い者を踏みにじって勝ち上がるからと言うのがその理由であり、そのような平等主義を実際に社会に持ち込んだのが「ゆとり教育」だ。

結局これは、人間は能力や才能で評価のされ方が違うと言う現実を気に入らない奴等が求めたシステムだ。

しかし、そんな平等が不可能なことはこれまでも述べてきた。

しかし、実は万人に入り口が平等に用意されており、その実践においても平等に可能なものが一つだけ存在する。

それが道徳だ。

道徳には高いハードルはない。心理的にはあるが、それは心理的に超えさえすれば、あとは道徳に関しては技術的なハードルはない。

あるのは付随する他の知的、体力的な要素だけであり、道徳自体にはない。

ちょっと抽象的過ぎて分かりづらいが、簡単に言ってしまうと、

その是非はおいといても、「ルールを守る」、例えばマスクをつける、順番に並ぶ、横取りしない、と言ったことは、やろうと思えば誰にでもできるものであり、だからこそ平等と言えるのだ。

劣等感、ルサンチマンに生きる奴隷道徳は、その平等思想から他人を引きずり降ろし、自分と恣意的に比較して優越感を得るのだ。

例えばコメ欄にいる奴等のような例だ。

スポーツに限らず何かのトップの方にいる人をみんな「人格者」に思う風潮があるよね。
そんな分けないよね。

スポーツの能力は全く問わず、「人格者」ではない、だから特筆してはならない、我々と変わらない、そんな論調になる。

道徳の持つ危険性はここにある。

人間や社会の推進力、アクセルが欲望であるのに対して、道徳はブレーキの役割を担う。

勿論、適切なブレーキはカーブを安定して曲がる為にも必要であり、ブレーキを適切に使用するからこそ、社会は安定してスピードを出せるのだ。

しかし、アクセルが壊れたブレーキしかない車なんて、そもそも鉄の箱でしかない。

コメ欄なんて皆ブレーキの話しかしていない。

そして基本的なスタンスはこうだ。

「能力の高い者が人格者であるとは限らない」

これはその通りだが、俺はもっと毒の強い皮肉で返したい。

他人の評価で人格に拘る奴は能力がない、他人の評価で人格に拘る奴は人格もない

結局、左翼的平等や道徳は、我々を幸せにはしないのだ。

幸せな者を不幸にすることで、相対的な幸福の差を縮める行為、それが左翼的道徳だ。

そんなものは捨て去るべきだ。

躬からの望む相対的平等の為に引きずり降ろす批判の為の道徳はやめ、

良いものはいい、悪いものは悪いと、躬から自覚と理屈を持って、躬からの実践の為だけの、しっかりとした道徳的価値を提示できる人間であれ。


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