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玉砕のメカニズム

コロナ禍も3年間を過ごした今、ようやく5類格下げの議論が前進している。
しかしこれで終わると安心してはいけない。いや、これで本当に終わるのか、なんて話をしたいのではない。
終わるにせよ続くにせよ、我々は多くの日本人の精神構造をある程度理解しておかないと過ちを繰り返すと言いたいのだ。

少なくとも俺は今回の過ちは大東亜戦争の過ちを繰り返したものと認識している。
つまり歴史の教訓は全く社会的には活かされなかったと言う認識だ。
以前noteにも書いたが、

と、アメリカの原爆がなければあの戦争は終わらせられなかった論には今全面的に賛成するに至った(当然原爆に匹敵する何かがあればそれはそれ)。

正義の戦いは終われない

何故こんなことになるのか。それは戦争の目的にある。日本の戦争は、大東亜戦争は、白人による侵略への抵抗として始められた。しかし、その終わりは定められていない。敢えて言うなら、アメリカが停戦を申し入れてくれればそれを受けて鉾を収めることをなんとなく想定していた程度だろう。
寧ろ「始めねばとうにもならない」から開戦したのだ。国民も満州への国際連盟の介入に不満を募らせていたから開戦は爽快感として受け入れられた。

鬼畜米英許すまじ。正義による懲罰が国民の戦意だった。

戦意であり、即ち目的となった。それが最大のゴールであり、かつ最低限のゴールとなった。

これは簡単には達し得ない。全員の協力無しにはまず達成されない。また協力したとて達成されないようなものだ。
無謀な企てである。しかし正義の為であれば、無謀かどうかなんてものは二の次となる。まず彼等を利する行為は悪となる。その時点でとなる。は増やしてはならない。敵を増やすことは即ち我々の正義の否定、弱体化を意味する。それは許されない。大東亜戦争において日本が圧倒的な勝利を収めない状態で終わるなんてことはそもそも想定してはならなくなる

何故ならばそれは日本の正義を否定することになるからだ。

それは日本と言う偉大な国を、歴史を否定することになってしまう

コロナ禍の聖戦

この大東亜戦争の話を読めば、否応なしに今のコロナ禍の話がリンクせざるを得ないだろう。
それは当然であり、同じメカニズムで事態が進行しているのだ。
コロナ禍の正義は、「命をコロナから守れ」である。
日本人が元々年間にどれだけ死んでいるのか、それがどのようにコロナで変わるのか、変わったのか、そんなものはどうでもいい。コロナで死ぬ者を減らさねばならないのだ。
更に言えば実際にそのようなこともスローガンに過ぎず、人々は命に興味もない。
昨年までの年間死者数がどうなのか、予測(昨年12月のデータは来月末公表)も含めて見てみよう。


昨年の死者は一昨年の過去最高値をぶっちぎりで追い抜いて150万人台中盤で落ち着くと予想される。
年間140万人の死者に到達することは無かったコロナ前。コロナ開始の年はまさかの死者数減少を記録したが、その翌年は前年の繰越も含んでか、はたまたワクチンの効果かは知らないが140万と言う大台に乗ったどころか一気に5万人上乗せし、昨年はそこから更に10万人多くが亡くなったのだ。
月別に見ていくとまたその多さは目立つ。

殆どの年で、前年同月比102%程度の死者数を出してきたが、令和3,4年は大きく上回ることになった。

それぞれ表で見るとこうなる。

現実には死因が何であるかを問わず、過去最多死者を大幅に更新したことは一目瞭然だ。

これとワクチンの関係性については下記の記事に書いておいたが、

コロナ禍は多くの命を、それこそトータルの死者数で言えば戦後最大の数値を叩き出すくらいの大事件なのだ。いくらでも強調したいが、命を守れ守れ、コロナから守る為ならどんな我慢も厭うなの精神で3年間過ごしてきた結果、コロナ死者は増え続け、それ以外の死者が異常に増えたと言うのが現実だ。

しかしその犠牲は聖戦の為の犠牲であり命として扱われない守るべきものではなく使うべきものなのだ。

あれだけ命を守れと言いながら実際にかつてない死者数を叩き出しても何も触れない。
何故そんなことができるのか。
それは正義はコロナ殲滅にあるからである。

玉砕は正義を守る為のコスト

正義を守ることは絶対に妥協してらならない。それ程正義とは崇高なのである。
どのような異論も認められない。
そのような空気がてきあがれば最早我々の反論は力を持てない。
圧倒的に量が足りず多勢に無勢となるからだ。
しかし何故そんな空気が出来上がるか。
それは「道徳的に間違ったことはしてはいけない」と人々が漠然と認識しているからだ。この道徳観が人々を正義の暴走に駆り立てる。
問題をどう捉えるのか、それがまず本来人により異なるし、それを前提に侃侃諤諤議論し、人々が意見を選択するのが自由主義的民主主義のセオリーだろうが、この国はなんちゃって道徳主義的全体主義国家(戦後民主主義)である。
全体主義は完全に出来上がって3年間い続けている。
道徳を盾に。
コロナは危険なウイルス。高齢者が亡くなるから高齢者を守れ。若者が広めるから対策はそこにやらせろ。
道徳はそのように共有され、問題児をパージするような形で実践されてきた。
教育にどんな問題が生じたか、経済がどう狂わされたか、そんなことは考えてはいけない。
正義の実践、正義の遂行あるのみなのだ。

そしてそうは言っても3年間続けた歪は様々なところで現れている。

しかし、それを認めて今までの犠牲に目を当てることはできない
到底責任を負える範疇にないからだ。

だから彼等は徹底して抗戦する。彼等自身を守る為に。

我々はその玉砕の協力者となるのか。それとも戦うのか。
一人の人間として主権を行使するのなら、立場を鮮明にすべきではないか?
決して玉砕に与してはならない。

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