運悪く埼大落ち
晩秋。
サイレンススズカが早稲田大学の指定校推薦を勝ち取ったというニュースはちょっとした事件だった。
彼女ほどスポーツに青春を捧げたウマ娘はいない。朝日とともに駆け出し、夕日が沈んでもなお駆け続ける。自己研鑽やレースでの優勝などはもはや取るに足らない些事であり、雨が降ろうが槍が降ろうが隕石が落ちようが脇目もふらず彼女はひたすら走り続けた。
彼女はなぜ走るのか?それは彼女がこの世界に存在しているから。走ること、ただそれだけが彼女の実存に確かな輪郭を与えていた。
したがってそこに勉学が入り込む余地はまったくなかったといっていい。にもかかわらず彼女は早稲田の指定校を勝ち得た。彼女はその理由について深く語らなかった。
「別にどうってことはないわ。ただちょっと運がよかっただけよ」
この事件には多くの生徒たちが勇気を貰った。あるいは意気沮喪した。
普段からろくすっぽ勉強もせず、英語科目の一点突破で入試を乗り切ろうとしていたタイキシャトルはこの件でさらなる楽観にあぐらをかくようになった。
対して一分一秒の寸暇も惜しんで勉学に全てを注いできたエイシンフラッシュやメジロドーベルは少なからず虚脱感を覚えた。
そんな中、高校留年をのべXX回繰り返しているマルゼンスキーただ一人だけが泰然自若の境地にあった。
「アタシの元同級生の中には既に大手商社で部長まで上り詰めてるコだっているんだからこのくらいヘッチャラよ。アタシだって今年こそは東大に受かってやるわ。ていうか受かる気しかしないわ」
アグネスタキオンはマルゼンスキーの無為無策な言いぶりに冷笑を浮かべた。
「一度落ちた大学に何度も挑みかかるなんて愚行はいい加減よしたらどうだい?韓国の高校生を見習いたまえよ。韓国じゃ浪人制度が存在しないから誰もが一度きりの受験に心血を注いでいる。"次"なんかないのさ」
「あら、それじゃ指定校で大学に行くコについてはどう思うのかしら?現役至上主義者のタキオンちゃん♫」
「そんなもの」アグネスタキオンの口元がよりシニカルに屈曲した。「人ですらないよ」
このとき「ウチらウマ娘なんやからそもそも人ちゃうやけどな…」と真摯にツッコミを入れた命知らずの猛者がいた。共通テスト当日には両手首が複雑骨折した関西弁のウマ娘が路上に転がっていたというが、両項の相関は不明である。
*
2月。
春の入り口が永遠に見つからない気さえする曇天模様の中、国立大学の合格発表が行われた。
10時のアラームがAndroidを震わせるのとほぼ同時にアグネスタキオンはF5キーを連打した。
「二次試験の結果について」
その文字列が網膜に焼き付くや否や恐怖と興奮が双方向から彼女の胃を押し潰した。息を止めたままカーソルを合わせる。吐き気、抑えるように、息、止めたまま、止めたまま、止めたまま、クリック。
「不合格」
ゴミが詰まった水道管のように彼女の思考はそこで完全に停止した。この三文字を受け入れるためには悠久にも等しい時間と宇宙にも等しい空間が必要になるだろう、と彼女は絶望的な気持ちになった。
自分が呼吸をしていないことにようやく気がつき、思い切り息を吸ってみると死ぬほど冷たくて、身震いに向けて身体がこわばったその瞬間、代わりにAndroidが震えた。
アグネスタキオンはAndroidに手を伸ばそうとしたが、果たして今までどうやって腕に力を入れていたんだったか。
原因と結果をつなぐ過程が欠落していることに、欠落したままのんべんだらりと生きてきたことにそこで改めて気付かされ、動かそうとすればするほどにかえって腕は動かなくなった。
仕方がないので視線をAndroidに投げつける。通知センターに「エイシンフラッシュ」という名前。受験シーズンに入ってからというもの、アグネスタキオンは彼女ととりわけ仲が良かった。
別に彼女の性格に惹かれるところがあったというわけではない。むしろ逆だ。胸が大きくて社交性の高い女はアグネスタキオンにとってデーモンコア実験より忌むべきものだった。
共通テストの外国語でドイツ語を選択して無双しているところも癪に障った。
にもかかわらずなぜ彼女とつるむようになったかといえば、受験サロンで「同じくらい頭がよくて志望校が被ってない奴と切磋琢磨しろ」という医学部生の書き込みを見かけたから。
ちなみに平素からアグネスタキオンと仲の良いマンハッタンカフェは進学ではなく就職を希望していた。知己が経営する西荻窪の純喫茶で珈琲研究に励むらしい。高卒乙(笑)
閑話休題。
エイシンフラッシュからのLINEはこうだった。
「なんとか第一志望に滑り込むことができました…そちらはいかがでしたか?」
腕が動かなくて本当によかったとアグネスタキオンは安堵した。もし今Androidの操作ができたとしたら、私はきっとこう返信していたに違いない。
「民族浄化されてえのかクソナチス」
エイシンフラッシュは第一志望に滑り込んだ。つまりそれは一橋大学文学部に現役合格を果たしたということだ。「一橋大学 文学部 合格」と具体的に心の中で暗誦していると、情けなさやら悔しさやらがふつふつと湧き上がってきて、「アアア」という奇声を発しながらアグネスタキオンは机に頭を打ちつけた。
頭が割れそうだった。割れてしまえばよかった。ついでに机も割れればいい。ついでに床も、地殻も、上部マントルも、下部マントルも、外殻も、内殻も、地球もろとも砕け散ってしまえばそれでいい。
合否確認ページは何度開いても「不合格」のままだった。アグネスタキオンはトップページに戻り、ボカロ曲のサムネみたいなクソダサいフォントの大学名をじっと見つめた。
「埼玉大学」
共通テストの点数が芳しくなかったアグネスタキオンは、東京工業大学から電気通信大学へとしぶしぶ志望を下げた。しかし教員に「もっと真面目に考えろ」とこっぴどく叱られ、終いには埼玉大学理学部に甘んじるに至った。
なのに嘘だろう、私はこんな下位国立にすら受からなかったのか?しかも前期で?
ということはつまり、滑り止めの滑り止めで抑えておいたどこぞのFラン私大に入学するほかないということか?
ふざけるなよ…!
衝動的に振りかざした拳は眼前の絶望的な文字列をデスクトップもろとも己の人生もろとも完膚なきまでに破壊した。
それから彼女はエイシンフラッシュの連絡先を一つ残らずブロックした。一橋とかいう就活早慶以下のコスパゴミ大学(笑)
*
今日は週に一度の登校日だった。アグネスタキオンはもちろん登校する気などなかったが、ただでさえ「実験」という課外活動に明け暮れていて出席が不足していた彼女は、あと一度でも欠席があれば問答無用で留年が決定していた。
下を向いたまま無言で席に着いた彼女に誰一人話しかける者はいなかった。それがかえって彼女の屈辱を増幅させた。河合模試偏差値60以下の産廃どもが私に安い同情を向けないでくれたまえ。
「タイキ、おはよ」
頬の透明な汗をハンカチで拭いながらサイレンススズカが入室。
タイキシャトルは「ハーイ!」と叫びながらiPhoneを放り出し、彼女を思い切りHUGした。
「スズカ〜!私トーキョーガイコクゴ大学落ちちゃいまシタ〜!メッチャ悲しいデ〜ス!!」
サイレンススズカが気まずそうな表情を浮かべる暇もなく、彼女は続けた。
「でも聞いてくだサイ!私実はシリツに受かってたんデス!勉強しなさすぎて受けたことすら忘れてまシタ!春からジョーチ大学デス!ジョーチ!ジョーチ!イェア!」
「うふふ、やっぱりタイキは賢いわね」
アグネスタキオンは机に突っ伏したまま彼女たちの会話に耳をそば立てていた。何が上智大学だ、と彼女はほくそ笑んだ。早慶にくっついた金魚のフンじゃないか。
教室じゅうが受験関連の会話に溢れていたが、それらは次第に「生徒会メンバーの進学先」へと焦点が定まっていった。
「グルーヴさんはお茶女らしいよ。尊敬してるフェミニズムの教授がいるんだって」
「ブライアンさん早稲田だっけ?あの人が勉強してるとこ全く想像できないよね。たぶんしてないだろうし」
「じゃあルドルフ会長は?」
「え?東大じゃないの?」
「医学部受けたって噂だよ」
「てかもはや国内とか見てないんじゃない?」
「アイビーリーグ?」
「どこだって余裕でしょ」
生徒たちが彼女に思い描く華々しい空想はどれもいまいち現実味を欠いていた。「東京大学」も「医学部」も「アイビーリーグ」も、シンボリルドルフという存在を押し込める箱としてはあまりにも小さすぎる。
アグネスタキオンは鋼鉄の巨像を見上げる子供のように惨めな気持ちになった。そのうちにだんだん自分のほうが薄っぺらい虚像であるような気がしてきて、気がつくと巨像は動き出していて、動けない彼女を一息で踏み潰した。
やあそこの君。今しがた面白い冗談を思いついたんだが、どう思う?
えー、ゴホン。
「"虚像"を踏み潰す"巨像"」。
アグネスタキオンは筆箱からコンパスを取り出すと、木製の机に「0点」と刻印した。
終業のチャイムと同時に教室を飛び出そうと立ち上がりかけたそのとき、担任教師がアグネスタキオンを人差し指で捕捉した。
「タキオンさん。机のそれ、立派な器物損壊ですからね。反省文を書いて生徒会室まで提出するように」
アグネスタキオンはクラスメイトの詮索めいた視線を受け流すように「はい」と陰気臭く呟くと、ロッカーの上にあるラックから反省文用紙を掠め、そのまま教室を出ていった。本当は屈辱で胸がいっぱいだった。しかし何も言い返せない。言い返すための学歴がない。
*
皮肉を散りばめた反省文を生徒会室に持っていくと、運悪くシンボリルドルフに出くわした。さらに運悪く生徒会室には彼女一人しかいなかった。彼女は書類の山を整理していた。
沈黙に耐えきることができなかったのはアグネスタキオンのほうだった。シンボリルドルフの前ではあらゆる欺瞞が彼女のまっすぐな瞳によって暴かれてしまう。
「き…キミはどうだったんだい?」
シンボリルドルフは作業の手を止め、視線だけをこちらに向けた。
「進学先のことかい?」
首肯。それから彼女は事もなげに言った。
「○○大学××学部△△科に行くよ」
アグネスタキオンの脳髄を驚嘆の電光が貫き、そのあとで底意地の悪い快感がジワジワ広がっていった。○○大学とは受験サロンの誰もが認めるFラン私立大学だった。文系学科しか設置されていないし、常に定員割れを起こしている。
蓋を開けてみればこんなものじゃないか、とアグネスタキオンは心の中でほくそ笑んだ。威厳があるのは表層だけで、その実は一介の生徒に過ぎない私と同等かそれ以下じゃないか。
アグネスタキオンはシンボリルドルフに同情さえしかけていた。おそらく彼女もまた、自分と同じように運が悪かったに違いない。実力はそこそこあるものの、何らかの不運が重なり、学歴スターダムから転げ落ちてしまったのだ。
もう一度時間を巻き戻せるとしたら、私も会長も第一志望を射止められたに違いない。そしてサイレンススズカは早稲田の指定校に落ちたに違いない。
運、こればかりは仕方がない。確率論を私物化できるなら数学1Aでコイントスやトランプの問題に頭を悩ませる必要もない。
「それは災難だったねえ」
アグネスタキオンは笑いを堪えながらそう慰めた。しかしシンボリルドルフは悠々とした表情で「災難?むしろ僥倖だよ」と言った。
アグネスタキオンはこの期に及んで自らの敗北を認められない彼女に苛立ちを覚えた。
「無理はやめたまえ。私だって第一志望には落ちてしまったんだから。何も強がることはないよ」
しかし依然としてシンボリルドルフの表情に翳りは見えなかった。彼女は続けた。
「秋頃、私は文部科学大臣とじかに話し合う機会があってね。そこで私はある任務を命じられたんだ」
「任務?」
「大雑把にいえばスパイだね。世の中には学力の著しく低い大学が横溢している。俗に言う"Fラン"だ。しかしそれらが文科省の予算を無為に食い潰しているせいで一流大学の研究に停滞が生じている。叡智の危機というわけだ。とはいえFランであることだけを理由に廃校を迫ることはできない。そこで私が学生として内部に潜り込み、その杜撰な実情を事細かに暴き出していくというわけさ」
「廃校を余儀なくさせるというわけだね。しかしそんなことをして君にどんな得があるというんだい?」
「君は私の人生の目標を知っているかい?」
「『全てのウマ娘が幸福になれる世界を創る』だったかな。理想論が過ぎるけれども」
「その通り。これを現実化するためには膨大なリソースが必要不可欠だ。にもかかわらず文部科学省は依然としてウマ娘の教育機関に資金を出し渋っている。理由は多々あるのだろうが、その一端には先のようなFラン大学の存在があるわけだ。だから私はそれら一つ一つをこの手で潰していく。何年何十年かかったって構わない。生徒として潜入し、実情を暴き、廃校へと追い込む。浮いた予算のいくぶんかがウマ娘の幸福の糧になることを願ってね」
アグネスタキオンは何も言い返すことができなかった。彼女が「Fランは不要」と言うとき、そこには単なる選民思想的な意味合いしか込められていなかった。しかしシンボリルドルフのそれには決然たる意志があった。彼女の目論見はどう考えても狂っていたが、その根底には「全てのウマ娘の幸福のため」という彼女自身の明確な目的があった。
シンボリルドルフは手前で硬直しているアグネスタキオンをじっと見つめながら言った。
「東京大学だとか医学部だとかアイビーリーグだとか、私にとってそんなものはもうとっくに何の価値もないんだ」
アグネスタキオンは自分が進学するであろうFラン大学の授業にシンボリルドルフが潜入しに来るところを想像した。
シンボリルドルフは手元に幾冊ものノートを開き、授業内容の出来不出来についての膨大なメモを書き連ねている。
他方、自分はろくすっぽ授業も聞かず受験サロンに入り浸り、ニッコマ叩きだの国立私立論争だのにいつまでも現を抜かしている。
そしてその数年後、彼女の母校はこの世界から完全に消滅するのだ。
書類整理を終えたシンボリルドルフは、背伸びをしながら窓の外を眺めた。
「相変わらず熱心だ」
それがグラウンドを駆けるサイレンススズカに対して発された言葉であることは明らかだった。
アグネスタキオンは挨拶もせずに踵を返し、出入口のドアに手をかけた。
「自分自身を持つこと」シンボリルドルフが誰に言うでもなく言った。「周囲のいかなる審級によっても決して毀損されない自分自身を持ち続けること。それ以上に大切なことなど何もない」
生徒会室を無言で退室したアグネスタキオンは、廊下ですれ違ったウマ娘たちの会話を小耳に挟んだ。XX回目の東大受験に失敗したマルゼンスキーはXX+1回目の東大受験に向けて勉強を始めたのだという。
開いていた窓から風が吹き込み、アグネスタキオンの頬をそっと撫でた。まだ少し冷たいものの、そこには麗かな春の微熱が萌していた。
アグネスタキオンは立ち止まり、受験勉強にかまけて放置していた実験が山ほどあったことを思い出した。卒業後は薬品の調達に苦労するだろうから、今のうちにやれることはやっておきたい。
さしあたっては発光薬の解毒剤を開発しなければ。モルモットくんとていつまでも「体調不良による欠席」で当座をしのいでいるわけにもいくまいから。
無数の化学式が彼女の頭の中で踊りはじめた。アグネスタキオンは身体がほんの少し上気するのを感じながら、小走りで理科室へ駆けていった。
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