知床慕情

海獣の唸り声のような轟音が船内にこだまし、乗客たちの間に電撃が走った。しかしそれはまだ具体的な形を取っていない。乗客たちは顔を見合わせ、何事かを囁き合っていた。そうすることで自分たちがまだ平穏な日常の中にいることを信じようとした。

永遠のような間があって、それから船内放送がかかった。風の強い快晴の午後だった。

「本船はただいま流氷と衝突しました。船体底部に穴が開き、各所から浸水が発生しております。要するに本船は間もなく沈没します」

船内はたちまち怒号と歔欷とアラートの嵐に見舞われた。くだらない三文映画の導入のようだった。

「嘘でしょ・・・」

メジロドーベルが読んでいた『11人いる!』を床に落とした。

「ご、『ゴールデンカムイ』なら流氷をひょいひょいっと渡って本土に無事帰還するところなんですけどね・・・樺太でも可・・・」

アグネスデジタルが無理におどけてみせた。

「・・・文芸部最大の危機ですね」

ゼンノロブロイがごくりと唾を飲んだ。デッキは既に各部屋から飛び出してきた乗客たちで溢れかえっていた。

乗客の一人が「あっ!」と素っ頓狂な声を上げた。彼の指差す方角に小さなゴムボートが見えた。制服に身を包んだ幾人かの船員が、オホーツクの波濤に揺られながら一心不乱にオールを漕ぎ、水平線の彼方へ遠ざかっていった。


春の知床を遊覧船から遠巻きに眺めてみたいと言い出したのは、確か、メジロドーベルだった。先月、文芸部の隔月企画の一つである「『男はつらいよ』シリーズ全50作の中からランダムで1本見る」で第38作『男はつらいよ 知床慕情』を視聴した彼女は、そこに映し出された知床の圧倒的な自然に魅了された。

「なんかさ、物語がどうでもよくなっちゃう瞬間ってあるじゃん。特に映画なんかは。話がつまんないとかじゃなくて、視覚に飛び込んできた情報があまりにも大きすぎて、それ以外のことを考える余裕がなくなっちゃうっていうかさ」

「ええ、わかります」とゼンノロブロイ。「私は今村昌平の『楢山節考』が好きです。主人公の男が老いた母親を山に放置するシーンがあるんですが、そこでちょうどカラスが画面を横切るんです。不吉の報せのように。おまけに雪まで積もりはじめる。すべては偶然です。作家の演出的技巧の範疇をゆうに超越した偶然が、この映画に唯一無二の輝きを与えたのです」

二人がカーテンを閉め切った暗室で感慨を語り合っていると、「よんどころならぬ事情」で部活を欠席していたはずのアグネスデジタルが勢いよく現れた。

「今しがた某池袋の某同人系ショップで某購買活動を行ってきたんですが・・・!えとッ!その帰りにッ!デュフッ!」

「ちょ、落ち着きなさいってば」

「しょ、商店街のくじ引きでッ!そのッ!幸運(グッドラック)と踊(ダンス)っちまったんですわァ・・・・・・」

アグネスデジタルが差し出したチケットには「<2泊3日>北海道旅行ペアチケット<知床遊覧コース>」と記載されていた

「嘘・・・すごい・・・」

「しかしこれは”ペアチケット”ですゆえ・・・拙者は同伴かないませぬゆえ・・・お二人で心ゆくまでお楽しみいただきたくば存じ上げるゆえ・・・!いや!マジで気にしないでください!マジで!」

「ちょっと待って」ゼンノロブロイが歓喜と落胆の狭間で揺れ動くアグネスデジタルを制止した。「ほら、チケットの注意事項。よく読んでみてください」

※ペット同伴可(一匹まで)

ゼンノロブロイはアグネスデジタルの肩にそっと手を置き、優しく微笑みかけた。

「あなたは今から私のペットです。いいですね?」

アグネスデジタルは死んだ。

「お客様の中に海技士免許をお持ちの方はおられますでしょうか!」

先ほどの船内放送の声の主と思しき男が下から駆け上がってきた。しかし彼の質問は無数の罵声によってかき消された。バカ野郎てめえ責任取りやがれ私たちどうなっちゃうのよみんなもう死ぬんだよお前のせいだ助けて。

男は襟首を掴まれ、振り回されながらも、必死に何かを思案しているようだった。その様子に気がついた三人が彼に駆け寄ったまさにその瞬間、男は何かを乞うような表情で三人を見た。

「お客様方は・・・ウマ娘ですね?」

男は亡者たちの手を振りほどくと三人のもとに勢いよく跪いた。

男によると、操舵室横の倉庫に緊急脱出用のゴムボートが用意してあるのだという。先ほど船員たちが乗っていったのは船体横に吊り下げられていた小型船だった。なぜ彼らが操舵室横のゴムボートには目もくれないでわざわざ小型船で逃げ出したのかといえば、ゴムボートはどれも干し柿のようにしぼんでいたからだ。ゴムボートは船舶設備規定をやり過ごす言い訳以上の意味を持っていなかった。

とはいえ今ここで危機管理の不備を問うたところで何の意味もない。今必要なのは、埃を被ったゴムの塊を希望の形に仕立て上げるための物理的なパワーだった。普通の肺活量ではゴムボートに空気を入れることができない。それに100キロはくだらない巨大な塊を操舵室からデッキまで運んでくるというのも不可能に近い。しかしそれは「人間」にとっての話だ。

「もう頼れるものはないんです、君たち以外に」

男は頭をデッキに擦り付けながら何度も叫んだ。

メジロドーベル、アグネスデジタル、ゼンノロブロイ。三人はウマ娘だった。

三人は上に下に奔走した。全身を浸している水分が汗なのか海水なのか判別がつかなくなるほどだった。メジロドーベルが次から次へとしぼんだゴムボートをデッキの上に放り投げ、アグネスデジタルとゼンノロブロイがそれらに空気を入れた。ゴムボートはまるで風船ガムのように膨らんでいった。

人間の乗客が全員避難したことを確認すると、船員の男は三人に声をかけた。

「残っているのはあなたがた三人だけです。本当にありがとうございました。さあ早く、私と一緒に避難しましょう」

三人はお互いの顔を見合わせた。それからメジロドーベルが口を開いた。

「先に逃げて。アタシたちは平気。もう一隻ボートあるし」

それでもしつこく食い下がる船員の男に対して、彼女は少しだけ語勢を強めた。

「本当にいいってば。あんたたちより何倍もタフなんだから」

男は何度も何度も頭を下げながら、しぶしぶといった感じで船体横の梯子を降りていった。船は既に5度ほど傾いていた。三人は傾いたデッキの上に座り込んだ。まるで河川敷にたむろする高校生のようだった。

ゴムボートの群れは既に水平線の彼方へと消えていた。三人は午後の太陽に照らされた水面をじっと眺めていた。ゴボゴボと排水溝のような音を立てながら、そこかしこに渦潮ができていた。ゼンノロブロイが言った。

「ずっと昔、家族で四国旅行に行ったとき、鳴門海峡大橋の真ん中で車が故障しました。今日くらい晴れた春の日でした。

橋の上は高速道路だったので、車は路肩に停め、発煙筒を焚きました。私たちはガードレールと橋の手すりの間で救助車両が到着するのを待っていました。

父親の手を握っていると、ふと手すりの隙間から鳴門海峡の渦潮が見えました。私はそれを小さなブラックホールだと思いました。ちょうど図鑑で読んだことがあったんです。光すらも脱出できない、超重力の天体。それが地球の、日本の、四国の、私の足元にある。

そのとき私は言いようのない恐怖に駆られました。私は父と母に助けを求めました。けれど二人は時計を見たり溜息をついたりするばかりで、私が泣いていることにすら気がついていませんでした。

車やバイクは間断なくびゅんびゅんと飛び交っていました。まるで透明な波をつまかえたサーファーのようでした。天気も穏やかでした。かもめが鳴いていました。恐怖は私だけのものでした。私だけが感じている恐怖でした」

凪があった。三人の数メートル先まで海水が迫っていた。しかし誰一人としてそこを動こうとしなかった。

「さっき船に乗っている皆さんのことを助けたじゃないですか」アグネスデジタルが言った。「あれ、なんかすごく嫌な気持ちだったんですけど、なんか、えと、わかります?別に助けた人たちや船員さんに対して悪感情とかはまったくないんですけど、なんとなく何かが引っかかってモニョるっていうか」

「わかるよ。自分がすり減ってく感じがした」メジロドーベルが言った。

「あ、そうです。まさにそれです。皆さんにとって確実にプラスになるようなことをしたはずなのに、自分としてはむしろ何かが決定的に失われてしまった感があるんですよね」

そのとき、メジロドーベルの臀部に何かが当たった。彼女のリュックサックだった。デッキの後方に置いてきていたはずだが、どうやら船体が傾いたせいでここまで滑り落ちてきたらしい。メジロドーベルはリュックサックの中に手を突っ込むと、ボロボロのA4ノートを取り出した。表紙には「文芸部活動メモvol.74」と書かれていた。

三人は赤子を撫でるようにそっとノートのページを捲った。

10月2日

・『地獄の黙示録』と間違えて『地獄の逃避行』借りてきた人、怒らないから名乗り出てください(どっちもしゅき派♡)

・横断歩道で赤信号無視したときに後ろ振り向くの怖くない?自分の死体が転がってそうで

・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』に出てくる道化の老爺の「金は必要だが重要じゃない」というセリフ。過不足なく美しいと思います。私はこれだけの言葉を絞り出すのに何百ページもの紙を無駄にしてきました。そして終ぞ何も出てこなかった。

11月12日

・小津安二郎の好きなエピソード→墓に「無」って書いてある

・『serial experiments lain』の岩倉玲音をアイコンに設定している者全員に告ぐ。今すぐ死になさい。私はちゃんとBlu-ray持ってるから。北米版の!(ドン!)

・カクテルパーティー効果というものがあります。人間は、呼ばれたのが自分の名前であれば、どれだけ混雑した空間であっても瞬時に反応することができるらしいです。アグネスデジタルさんはよく総武線で寝過ごして津田沼に連れていかれることが多いと聞きましたので、明日から「秋葉原」に改名してみてはいかがでしょうか。

12月24日

・アブラハム宗教の選民思想性には辟易するけど、神道から骨格だけ引き抜いたみたいな腑抜けた相対主義が瀰漫してることのほうがよっぽど嫌じゃない?

・↑こっっっっっれ!!!!!!!ほんとに!!!!!!!「まっ、自由にすればいんじゃないスカ、俺は何も信じてないスけど笑」みたいなのダサすぎるんですよね〜〜傷つくべきときに真正面から傷つく勇気もない奴はチンカスだって村上春樹御大も言ってた気が・・・アレ・・・?村上龍だったかも・・・

・望ましい相対主義とは、単に二項対立を無効化することではありません。どれだけ無効化してもなお迫り来る二者択一に逐一決断を下しながら、倫理的葛藤に悩み続けること、それが本当の相対主義です。

1月4日

・体育館の長い踊り場を抜けると雪国であった。すごい降ったね。

・いい機会なので石黒正数『外天楼』のラストシーンごっこしましょうよ!!

・↑その後はジャン・ルノワール『大いなる幻影』のラストシーンごっこで!テオ・アンゲロプロス『狩人』ごっこでもいいですね!

2月14日

・三代随筆はやっぱり『枕草子』が一番。知識の引き出しが多い女性が書く文章ほど面白いものはありません。二階堂奥歯とか。中でもお気に入りは第130節。彼女はここで自分の感覚が他人にとってはちっとも面白くないということが面白い、ということを言っています。懐の広さといい無限後退的なユーモアといい、嫉妬してしまいますよね。

・『徒然草』はオヂサン臭い人生論とマジックリアリズム的な滑稽譚がアトランダムに並んでいるのがいいですよねやっぱ。で、そういう構成の放埒さを"徒然"草という主題が見事に回収していくわけです・・・

・これもう『方丈記』について語らざるを得ない感じじゃん。私も『枕草子』のほうが好きなんだけど。なんかさ、山奥の草庵に籠って一人で思索に耽るのってさ、確かにクールだけど、まあ、それだけのことだよね。やっぱり人と人がぶつかんないと意味ないと思う。まあ、鴨長明は散々周囲から嫌な目に遭わされてきた人だから仕方ないけど笑

3月9日

・セカイ系とは結局何なのでしょう?

・薄暗い壁に向かっていつまでも一人でブツブツ恨み言を呟き続けることだよ

・新海誠は『天気の子』が一番好きですね、やっぱり。『君の名は』は普通、『秒速5センチメートル』は童貞臭い、『ほしのこえ』は好きだったけどもう飽きた。『雲のむこう、約束の場所』は・・・・・・何でしたっけ?『希望の国エクソダス』的な『百姓貴族』的な『ゴールデンカムイ』的なアレでしたよね・・・?なんか・・・北海道に独立国家が成立する的な・・・もう何にも覚えてない・・・

4月2日

・映画なんか見て本なんか読んで何になるの?って屈託なく訊かれてアタシなんにも答えられなかった。映画なんか見て本なんか読んで何になるの?

・何になるかならないか、つまり意味があるのかないのか、っていう問いかけそれ自体が世俗的な価値意識といいますか・・・それを文芸に当てはめようとすること自体が間違いといいますか・・・・・・あやっぱ嘘!なんかこういう言い逃れ方ってズルいし嘘臭いですよ!だってアタシってめちゃくちゃ世俗的なウマ娘だし!それっぽいだけで全然つまんなかった映画や小説をワケ知り顔で絶賛したりとか、そういうの、アタシにはできないですもん、やっぱり。

・文芸は遅効性の薬です。あるいは毒です。ですから必ず意味はあると思います。そう信じています。

三人はノートを閉じて遠くの方を眺めた。快晴のオホーツク海。

「まだ下にボート残ってるって言ったじゃん、さっき」

メジロドーベルが空にポッと生じた雲のように口を開いた。

「あれ嘘。ごめん」

アグネスデジタルとゼンノロブロイはそれについてメジロドーベルを少しも咎めなかった。二人ともはじめからわかっていた。

「いいんです。私は自分の意思でここに残ったんですから」

「ロブロイたそ、それはつまり死にたいということですか?」

「いえ、違います。断じて違います。私はここから一歩たりとも動くことなく、しかし絶対に生き延びてみせたいんです」

呻き声のような突風が吹いて、メジロドーベルの持っていたノートが空を舞った。ノートは海面に打ちつけられるや否や海中に引き摺り込まれていった。

「フムフム・・・いやあ、まるで禅問答ですねえ・・・ですが、やってみましょう」

「動かしていいのは首から上だけ、そういうことだよね?」

「はい」ゼンノロブロイが頷いた。「だって文芸部でしょう、私たち」

船はすでに大部分が沈みかけていた。海面のそこかしこで渦潮が大口を開けている。三人は生き残る術について侃侃諤諤と議論を交わしはじめた。

「じゃあさ、『ミスト』的なのはどう?パニックホラーの常道に逆行すればするほど、むしろ生き残れる確率は上がる、みたいな。アタシたちはこのまま何もしなくたってアホみたいにボーッと待ってれば勝手に助かるってわけ。楽でしょ」

「いやいやドーベルたそ、それは安直というものです。ここはもっと荒唐無稽なコメディといきましょうよ。たとえばロシアが水爆実験を行うとか。ここから西に数百キロ離れた地点に水爆が落ちて、その衝撃が大波を生み出してここまでやってくる。我々はそれに乗って知床半島へ辿り着くというわけです」

「でも知床の海浜なんかヒグマの楽園なんでしょ?屠殺されるくらいならここで溺死したほうがさすがにマシだって」

「な、ならばメタフィクションです。要するに、今ここに開陳されている物語を強引に閉じてしまうんです。見ててください、アタシが地の文もやるんで!」

アグネスデジタルはぐしゃぐしゃになった原稿用紙をゼンノロブロイに差し出した。デッドラインからは既に1週間以上が経過していた。

「文芸部の三人が沈みゆく船から命からがら脱出する冒険活劇を書こうと思ったんですが、才能的にもスケジュール的にも無理でした。まあ、作家的苦悩の生々しい痕跡ということで、このまま載せちゃってくれませんかね?えへへ」

「次にこんなものを持ってきたら容赦なく殺しますからね、デジタルさん」

なお、この短編は8月末の某即売会で頒布されるトレセン学園文芸部の季刊誌に収録されます(1冊500円)。

みんな買ってね!

「・・・・・・・・・いや、ダメでしょ。アタシの5億倍くらい安直でしょ」

「だってもうアタシたち死ぬんですよ、あと5分くらいで!」

死ぬ、という一言が鋭い釘のように二人を現実に打ちつけた。二人は先ほどから黙り込んでいるゼンノロブロイのほうを見た。

「・・・光進丸」

ゼンノロブロイが不意に口を開いた。

「え、何?コウシンマル・・・?」

メジロドーベルが首を傾げる一方、インターネットミームに明るいアグネスデジタルはパチンと指を鳴らした。

「光進丸って、加山雄三が持ってた高級プレジャーボートのことですよね?事故で燃えちゃいましたけど」

ゼンノロブロイが頷いた。

「あれに似たボートが、今からここへやって来ます」

二人はごくりと唾を呑み、次の言葉を待った。

「ボートの操縦者は加山雄三と同じく80代の男性でしょう。東京都内の大手商社で昼夜を問わず働き通し、有り余る富を使う術も知らぬまま定年を迎えた男です。

山王の自宅でぼんやりとテレビを眺めていたある日のこと、BSで『男はつらいよ 知床慕情』が放送されていました。彼はそこに映し出された雄大な知床の風景に強く惹かれます。どうにかしてそこへ行きたいと思いました。

あるとき、彼は加山雄三と同型の高級プレジャーボートを衝動的に購入します。ついでに斜里町の外れに別荘も建てました。もちろん妻や子供たちは彼の突飛な行動を非難しましたが、彼は幸せでした。

彼は時折漁港に現れ、ボートで海へと繰り出します。知床の自然は美しく、そして厳しい。既に身体の自由がきかない彼にとって、ボートで半島の外郭をなぞることは、彼が知床を自分自身で感じることのできるたった一つの方法だったのです。

峨々と連なる緑の山々。その一つ一つに彼は祈りを捧げます。いつかその懐で安らかな眠りに就けんことを。

羅臼山が遠のき、視線を前にやると、海面にちらほらと流氷が浮かんでいるのが見えました。彼はボートのスピードを緩め、舵に手を置きました。どれだけ小さな流氷とはいえ、侮ってはいけはい。つまらないことで命を落としては大地の神々のもとへ還っていくことができない。

しかしそのとき、流氷の群れの奥に何かが見えました。やけに無機的な三角形が海面からのぞいていて、その舳先に人らしき物体がいくつか座り込んでいます。

彼は注意深く流氷を避けながら彼らのほうへ向かっていきました。

『そんなつまらない死に方はよくない』

彼は小さくそう呟きました。雲一つない午後のことでした」

ゼンノロブロイが語り終えると、二人は微笑みを浮かべた。しかしその両脚は既に海水に浸されていた。

「さすがロブロイ」メジロドーベルが拍手を送った。「次期部長はよろしくね。まあ、生きてたらの話だけど」

「あっ!!!」

アグネスデジタルが素っ頓狂な声を上げた。遠方の一点を方位磁針のように真っ直ぐ指し示していた。

水平線の向こうからドッドッドッという規則的な音とともに船が現れた。大型と小型の中間ほどの大きさの船だった。

アグネスデジタルは思わず飛び上がり、船に向かって大きく手を振った。メジロドーベルはあまりのできごとに腰を抜かしてしまっていた。

ゼンノロブロイは心の中で先の日誌に書いた自分の文章を何度も反芻していた。

「文芸は遅効性の薬です。あるいは毒です。ですから必ず意味はあると思います。そう信じています」

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