壁の向こうで戦争が始まる

「これから君たちには殺し合いをしてもらう」

演壇から全校生徒を睥睨しながらシンボリルドルフはそう宣言した。不揃いにざわついていた体育館が一瞬にして静まり返った。それは波の引いた浜辺のような沈黙だった。再び波が押し寄せる前に、シンボリルドルフが言葉を次いだ。

「ああ、無論これは言葉のあやだ。本当に殺し合いをするわけではないから安心してほしい」

生徒たちの間に弛緩した雰囲気が戻った。シンボリルドルフは改行を加えるように短い咳払いをした。

「えー、今日は君たちも知っての通り『トレセン学園サバゲー大会』の日だ。ルールは至極単純、各人は与えられた銃器を用いて他の生徒を撃破していくこと。利害の一致する者同士で徒党を組んでも構わない。午後6時のチャイムの時点で生存していれば勝ちだ。見事生き残った者たちには食糧庫にある大量のピロシキを山分けする権利を贈呈しよう」

「なんでピロシキやねん・・・」とタマモクロスが困惑した。

「あの」オグリキャップは滴る涎も拭わないで手を挙げた。「その・・・ピロシキは全部でどのくらいあるんだ?」

「ざっと5000兆キロだ」

「国家予算レベルやないか・・・」タマモクロスが絶句した。「そもそもそないなモンがなんでウチの食糧庫にあんねん・・・」

「それについては私が説明する」と割って入ったのはエアグルーヴ。

「この間渋谷のシネマヴェーラで『スターリングラード攻防戦』というソ連映画を見てな。本当に酷い映画だった。歩兵たちがウマ娘に物資を載せたソリを引かせるシーンがあるんだが、一人のウマ娘があまりの疲労でその場に倒れ込んだんだ。彼女は骨折していた。するといかにも卑劣そうな上官がやってきて、そのウマ娘を罵詈雑言とともに射殺してしまった。彼女の骨折は決して演技などではなかったし、銃弾も本物だった。彼女は本当に殺されたのだ。私はすぐさまロシア外相をZoom会議に呼び出して『これは国際問題だ』と糾弾した。『半世紀も前の映像作品にケチをつけるな』などと外相が戯言を抜かすものだから『貴様ら同様、我々は歴史的恥辱を永遠に忘れない』と言ってやった。そうしたら詫びのしるしとして大量のピロシキを送りつけてきた、というわけだ」

「ちなみに彼女はこれと同様の論法でハリウッドからも莫大な慰謝料を奪取することに成功している」とシンボリルドルフが補足した。「君たちもウマ娘が酷使・浪費されるような映像作品を決して撮ることがないよう細心の注意を払うことだ。特に戦争映画と西部劇は要注意だ。・・・閑話休題。さて、それではこれより『サバゲ―大会』を開始する!!!」

「えらい急やな・・・」とぼやいたタマモクロスの額を真っ赤なペイントボールが射抜いた。

<教室>

グラスワンダーは机と椅子でこさえたバリケードの上に腰掛けながら「トレセン学園:裏掲示板」を監視していた。現代戦争における定石は情報に対して常にイニシアチブを取ることである。したがって学園内の動静をリアルタイムで追うことはこの「サバゲー大会」を制することにも直結する重要職務だった。

名無しのウマ娘:てかあの噂聞いた?

名無しのウマ娘:なにそれ?

名無しのウマ娘:体育館裏の倉庫で銃が買えるってやつでしょ

名無しのウマ娘:え、銃って最初に支給されたじゃん

名無しのウマ娘:↑それはただのモデルガンでしょ そうじゃなくて本物の銃が売買されてるの

名無しのウマ娘:嘘乙wwwwwwwwwww

名無しのウマ娘:会長が「本当の殺し合いではない」って言ってたじゃん笑

名無しのウマ娘:勝ちたいからって変なデマ流すのやめなよ

おそらくデマではない、とグラスワンダーの鋭い勘が囁いた。そこにはきっと本学上層部の政治的意図があるはずだ。そもそもトレセン学園の年中行事の中に「サバゲー大会」などという物騒な催しはもともと組み込まれていなかった。しかし先月あたりから学校中に「サバゲー大会開催決定!」とだけ書かれた掲示が貼り出されるようになり、その内実もよくわからぬまま開催当日を迎えてしまった。絶対に何か裏がある。

とはいえ始まってしまった以上は迂闊に逃げ出すこともできない。逃げるという選択は己の大和魂に泥を塗ることと同義だから。したがってグラスワンダーは「サバゲー大会」が始まるや否や校庭、体育館、講堂といった激戦が予想される場所のどれからも離れており、かつ階段にアクセスの良好な本教室を拠点地に定めた。

どのような状況においても自信を持って率先的に行動することのできるグラスワンダーのもとには、主に彼女とは対照的な、つまり自尊心や主体性の欠如した生徒たちが集まってきた。

「ねえグラスちゃん、いつになったら帰れるのかなあ。私おなか空いちゃったよ~」

ハルウララが足をパタパタさせながら言った。

「ウララちゃん、ここは我慢だよ。ライスも頑張るから」

ライスシャワーが薄氷のような笑みを浮かべた。するとどこからか「ぐうう」と腹の虫が鳴った。

「はうう・・・ごめんなさい・・・」と顔を赤らめたのはメイショウドトウだった。「私みたいな役立たずがお腹を空かせてしまってごめんなさい・・・」

そのとき教室の外でコツ、コツ、という足音がこだまし、生徒たちは氷のように硬直した。グラスワンダーは壁に耳を当てた。足音はしばらくこちらへ近づいてきて、階段のあたりで止まった。人数は2人。教室にいる生徒たちは息を潜めてその会話に耳を傾けた。

「会長、先ほどメジロマックイーンから報告が」

「何だ?」

「既に全校生徒の約半数が実銃を購入したそうです」

「うむ、目論見通りだ」

「しかしこのような計画が本当にうまくいくでしょうか?ピロシキ5000兆個などという大嘘をついた手前もはや引き下がろうにも引き下がれませんし」

「いくとも。どれだけ雄大無比に思えても、実際は数滴の毒でいとも簡単に枯れ果ててしまう。それが平和というものだ。モデルガンの中にいくつかの実銃を混入させておくだけで『サバゲー』は自ずと『戦争』に豹変する」

「言葉にすると残酷ですね」

「この学園は生徒を抱え込みすぎた。このままいけばトレーナーはますます不足するだろうし、学食のお替わりも有料になるかもしれない。指定校推薦だのAO入試だの門戸を開きすぎたのが失策だったんだ。増えたものはいずれ減らさなければならない。しかし減らすにもコストがかかる。本学にはもはやそのような経済的余裕はない」

「それゆえの『サバゲー大会』、と」

「減らしたい対象が自ずから互いを減らし合ってくれるのだ。これ以上の妙策はあるまい」

そして2人はどこかへと去っていった。

全てを聞き及んだ生徒たちはあまりの恐怖に沈黙した。それから引きつるような嗚咽。

「やだよお、私死にたくないよお、帰りたいよお」とハルウララが泣き始めた。

「ねえ泣いちゃだめだよ、ライスまで泣きたくなっちゃうよお」とライスシャワーも泣き始めた。

するとどこからか「ぐうう」と腹の虫が鳴った。

「はうう・・・空気まで読めなくて本当にごめんなさいですぅぅぅ・・・」

メイショウドトウも泣き始めた。そうなるともう誰もこの悲しみの波濤を押し返すことができず、教室はさめざめとした歔欷で埋め尽くされた。

「お黙りなさい!!!!!!!!!!」

そう一喝したのはグラスワンダーだった。彼女は峻厳な表情をすぐさま和らげると、慈母のようなトーンで生徒たちに語りかけた。

「あなたたちはふだん何の取り柄もありません、そうですね?」

生徒たちはごくりと唾を飲んだ。

「ウララさん、あなたは成績も悪ければ戦績も悪く、あまつさえ向上心もありません。できることといえば養護教員と一緒にクッキーを作ることと、簡単な足し算・引き算の問題を解くこと。そうですね?」

ハルウララが神妙に頷いた。

「ライスさん、あなたは地獄の釜の底に溜まったヘドロよりも卑屈な性格をしています。それと比例するように身長まで低い。過度な自罰行為も実のところ周囲の同情を引くための卑怯きわまるタクティクスに他なりません。そうですね?」

ライスシャワーが神妙に頷いた。

「メイショウドトウさん、あなたはもうホントにダメ。ダメダメのカス。なんかもう救いようがない。カス。ゴミ。終わってる。学部生の期末レポートくらい終わってる。そうですね?」

メイショウドトウが神妙に頷いた。

「そんな皆さんでも輝ける場所があります。そう、それはつまり、戦争です。さあ武器を取りなさい。モデルガンでも実銃でも竹槍でも何だって構いません。とにかく武器を持って立ち上がるのです。一兵卒に有能・無能の区分などありません。翻って言えば、ここでは武器を持つ者すべてが英雄なのです!」

ハルウララはそれを聞いて胸がいっぱいになった。ライスシャワーもそれを聞いて胸がいっぱいになった。メイショウドトウもそれを聞いて胸がいっぱいになった。他の生徒たちも同様だった。彼女らはそこかしこに散らばる武器を手に取った。

おりしも足音が階段の下から迫ってきた。おそらく数十人の軍隊だ。彼女らは「英雄」という言葉のゴージャスな響きを幾度となく反芻しながら、銃口を外に向けた。

<家庭科室>

壁越しに絶えず悲鳴が聞こえる。どうやらこの階の廊下は相当な激戦区になっているようだ。キタサンブラックは銃身を抱き抱えたまま調理器具棚の間に身を潜めていた。その隣でサトノダイヤモンドがわなわなと震えている。

「キタちゃん、もうやめようよ、降参しようよ」

サトノダイヤモンドが今にも消え入りそうな声でそう言った。キタサンブラックは顔も見ず彼女を手で制した。

「シッ!敵に見つかっちゃうじゃん!」

「敵って・・・みんな学校の友達でしょ?」

「静かにして」

「だいいちピロシキなんか全然食べたくないよ私」

キタサンブラックは地の底まで染み渡っていきそうな溜息をついてからサトノダイヤモンドのほうを見た。

「あのね、サトちゃん。ピロシキはただの過程に過ぎないんだよ。大切なのは最後まで逃げずに戦うこと。つまり一人の戦士としてのプライドを守りきることなんだ。ピロシキが手に入るかどうかなんてもうどっちだっていい。死んだって構わない。これは私たち一人一人の、自我をめぐる戦いなんだ」

サトノダイヤモンドは何も言わず俯いた。すぐ隣にいるはずのキタサンブラックが蜃気楼のように見えた。彼女が何を言っているのか、サトノダイヤモンドには1ミリたりとも理解できなかった。

普段は「早く飯」と「楽して稼ぐ方法ないかな」と「加山雄三の『お嫁においで』歌ってるときに間奏でPUNPEEの『お嫁においで2015』のラップ被せてくる人死んでくれないかな」しか言わないくせに、どうしてこういうときばっかり一丁前のこと言おうとするんだろ、キタちゃん。

戦争が人間の本性を暴く、みたいなの、あれ私ほんとにわかんない。だってそんなこと考えてる暇ないじゃん。目の前で銃弾が飛び交ってるときに「プライド」なんてものが何の役に立つの?アメリカのくだらない戦争映画の見すぎなんじゃないの?戦争にあるのは脈絡のない死だけでしょ?ズドン、バタッ。それで全部終わり。

いや、違うな。私が言いたいのはもっと単純なことだ。つまり・・・

「その『プライド』っていうのは、私より大切なことなの?」

サトノダイヤモンドがそう尋ねると、キタサンブラックは下唇を噛んで下を向いた。

「漢には、どうしてもやらなくちゃいけないときがある。それはお祭りと戦争だ」

その端正な横顔がこれほどまでに憎らしく愚かしく見えた瞬間は後にも先にもなかった。こんなのを好きになっちゃった自分はもっと憎らしいし愚かだ。サトノダイヤモンドは立ち上がって教室の外に出ようとした。こんなろくでもないゲームからは一刻も早く降りてしまおうと考えた。しかし不意の叫び声がそれを遮った。

それは校庭のほうから聞こえた。キタサンブラックとサトノダイヤモンドは低姿勢のまま窓際へ移動し、校庭を見下ろした。トラックの真ん中を突っ切るようにアグネスタキオンが疾走している。

「わかったよカフェ!私が悪かった!金輪際実証的裏付けのない人体実験に付き合わせたりしないから!頼むから見逃してお——」

ズドン、という大きな音がして、アグネスタキオンが倒れ込んだ。ほんの一瞬の出来事だった。

サトノダイヤモンドは操り人形の糸を誤って千切ってしまったときのことを思い出した。小さい頃、父親が「お友達」として買ってくれたヒノキの操り人形。糸の切れたそれはもう「お友達」ではなかった。椅子だった、机だった、積み木だった、クレヨンだった、図鑑だった、テレビだった、洋服だった、三輪車だった。

「モノ」だった。

アグネスタキオンはいつの間にか「お友達」の世界から「モノ」の世界へと移動してしまっていた。

ズドン、バタッ。それで全部終わり。

後方でドアが蹴破られる音がした。

キタちゃん、死んじゃやだよ。どうしても死んじゃうんなら、せめて私のためだけに死んでよ。

<屋上>

「こんなとこにいたのか」

ウオッカが10メートル先の人影に向かって呼びかけた。

「よう、ウオッカか」

ゴールドシップは振り向かずに言った。彼女はぼんやりと曇り空を眺めていた。

「お前はもっと派手に暴れ回ってると思ってたぜ」

ウオッカが言った。

「アタシは近接武器のほうが性に合うんだよ、ベルセルクのガッツみてーなさ」

「それにしたっておかしいぜ、学内イベントっつったら何であれ出しゃばるのがお前だろ?」

「もちろん出しゃばるぜ」ゴールドシップが振り返った。「面白いイベントならな」

「何が不満なんだ?」

ゴールドシップは校庭を見下ろした。アグネスタキオンが倒れている。彼女だけではない。何人もの、何十人もの生徒たちが粗大ゴミのように無造作に転がっている。

「笑えねーんだよ」

「笑えない?今更何言ってんだ。サバゲーってそういうもんだろ?」

「これを『サバゲー』と呼んでいいならアタシはタコ焼きのことを明石焼きって呼ぶぜ」

「いいから構えろよ」

ウオッカは銃の照準をゴールドシップに合わせた。言うまでもなくそれは実銃だ。しかし彼女は既に視界から消えていた。慌てて後方を振り返ったとき、ゴールドシップの銃口が額に向けられていた。

「はい、ゴルシちゃんの勝ち」

ずどん。

「・・・・・・んだよこれ」

ウオッカの額には真っ赤な花が咲いていた。比喩ではない。本物の花が咲いていた。ゴールドシップの銃口から飛び出してきたその赤い花には「ドッキリ大成功」と書かれた紙片がぶら下がっていた。

ウオッカは黙ったまま自分の銃をゴールドシップに突き立てた。

「舐めてんのか」

「当たり前だろ、アタシはお前らと同じ土俵に立ちたくねーんだよ」

「じゃあくたばりな」

二人は無言のまま互いを見つめ合った。死ぬ者と殺す者。永遠のような数秒があった。雲の切れ間から差し込んだ陽光がゴールドシップの右頬を照らし出した。風に靡く美しい銀色の毛髪がひゅるりひゅるりと唸り声を上げた。

先に目を逸らしたのはウオッカのほうだった。彼女は銃口を下ろし、屋上出入口に向かって歩いていった。雲がものすごい速さで西から東に流れていき、太陽が再び姿を消した。ゴールドシップが「バカだな、お前」と笑った。

「あーあ、殺し損ねちまった」ウオッカが振り向かずに言った。「風の音が邪魔でな」

<体育館裏倉庫>

体育館裏倉庫の扉を開けると見たこともない螺旋階段があった。それを数十メートルほど降りた先にはLED電飾が煌々と輝く武器収蔵スペースが広がっていた。

「あら、ごきげんよう、エイシンフラッシュさん」棚と棚の間からメジロマックイーンが現れた。「ずいぶん苦労されたようですね」

エイシンフラッシュの制服はところどころが破れたり汚れたりしていて、頬や脛には生々しい擦り傷があった。対してメジロマックイーンの肌は大理石のように滑らかで、制服には一つのシミさえ見当たらなかった。

「恥を知りなさい」エイシンフラッシュが侮蔑を込めて言った。「あなたたちのせいで・・・ファルコンさんは、ファルコンさんは・・・」

「申し訳ありませんが、これもビジネスでしてよ。わたくしだって悪意があってやっているわけではありませんわ」

「それがどんな結果を招くことになるのか、考えてみたことはないのですか」

「ありますわよ、あまりバカにしないでくださいませ」

「ならどうして・・・」

「メジロ家は今、未曽有の経済危機に直面しているのです。それというのも病弱なメジロアルダンの医療費が天文学的な額にまで膨れ上がっているからなのです。彼女は厚生労働省が定める指定難病のうち85もの病気を併発しています。一つを治療してもまた別の病魔に冒される、といういたちごっこの様相ですわ。有り体に申し上げれば我々にはお金が必要なのです。ですからわたくしの行動がどんな結果を招こうが周囲からどう評価されようが、そんなことを考えている余裕はないのです。わたくしだって苦しんでいるのです」

「あなたたちの個人的な苦しみに我々を巻き込んでいい理由がどこにあるのですか」

エイシンフラッシュがそう言うと、メジロマックイーンは形だけの微笑を浮かべた。それはある種の自衛だった。自身の選択の結果としてそこに生じてしまった惨劇のすべてに対する思考の放棄だった。

「スマートファルコンさんの件に関しては、改めてお悔やみ申し上げますわ。せめてものお詫び・・・というわけではありませんが、どうぞお好きな銃をお選びください。お代は結構ですから」

エイシンフラッシュは険しい表情のまま手近な銃を手に取ると、メジロマックイーンの前に立った。その銃口は彼女の額に向けられていた。もちろんエイシンフラッシュは引き金を引くつもりなど毛頭なかった。ただ、こうすることで自分の中に渦巻く激情にせめてもの墓標を立ててやろうとした。

そのとき、エイシンフラッシュは飛び上がった薬莢が宙を舞うのを見た。

「えっ」

薬莢はスロー再生のようにゆっくりと弧を描いていた。薬莢の向こう側ではメジロマックイーンが虚ろな表情で遠くを見つめていた。

実銃の引き金は思いの外緩い。しかし一介の高校生がそんなことを知っているはずもない。

エイシンフラッシュはどうにかして現実に蓋を被せようとした。けれどそんなことはできないことはわかっていたから、彼女はゆっくりと自分の目を閉じた。

どれほどの時間が経っただろう。エイシンフラッシュは血溜まりの中で呆然と立ち尽くしていた。

後方から足音が近づいてきた。あわよくば音の主が誤って引き金を引いてくれますように。エイシンフラッシュはそう願った。

「壮観だな、これは」

シンボリルドルフだった。

「これをやったのは君かい?エイシンフラッシュ」

エイシンフラッシュは何も答えなかった。「やった」という婉曲的な表現がかえって彼女の罪悪感を刺激した。私はメジロマックイーンをやった。

「そうか」シンボリルドルフは得心がいったように頷いた。「手間が省けたよ。どうもありがとう」

「・・・それはどういう意味ですか」

「メジロマックイーンは健全なる催事に本物の暴力を持ち込み、著しく学内秩序を乱した。此度の暴動の原因と責任は彼女にあるといっていい。死をもって償われるべき大罪だ。だからこれでよかったんだ。君は正しいことをした。学園を代表して、私は君を顕彰し申し上げるよ。あ、今のは謙譲語だ。顕彰と謙譲をかけたんだ。なかなか面白いだろ、ははは」

そう言うとシンボリルドルフは血溜まりに倒れているメジロマックイーンの胸ポケットから携帯を取り出した。シンボリルドルフはそれを自分のポケットに忍ばせると、何事もなかったかのように螺旋階段を上っていった。

エイシンフラッシュは去りゆくシンボリルドルフの背中に違和感を覚えた。張りつめた一本の糸のようにスッと伸びた背中。それは戦争を知らない背中だった。頭上を擦過する流れ弾も、四方に迫る死の予兆も、彼女にとってはまったく縁がなかった。

エイシンフラッシュは沸々と湧き上がる自分自身を感じた。その熱は争い難く脳を掻き回し、臓腑を溶かし尽くした。気がつけば彼女は階段に向かって駆け出していた。小脇には先ほどの銃が抱えられていた。

<図書館>

「あ、お日様が出てきましたよ」ゼンノロブロイが読んでいた本から顔を上げた。「もう日暮れですね」

「ワーホントダー、ロブロイちゃんくらい綺麗でしゅね♡」

アグネスデジタルの双眸はゼンノロブロイ以外のいかなる対象も捉えてはいなかった。

「デジタル、せめて景色と見比べながら言いなよ。それに今のセクハラだから」

「いくらクソかわ生物ドーベルたその忠告とはいえ聞き捨てなりません。何でもかんでもハラスメント認定するのは文芸愛好者として誠実な態度とは思えませんよ、プンプン」

「そうやってまた詭弁ばっかり・・・!」

「2人とも喧嘩はやめてください。図書館は無条件の静寂と平和が約束された学園最後の楽園なんですからね」

ゼンノロブロイが温和にそう宥めると、2人は従順な大型犬のようにおとなしくなった。

「それにしても今日は我々以外誰も図書館に来ませんでしたねえ・・・」

「なんか今日はサバゲー大会?の日だったらしいよ。参加したくないからここに来たんだけど」

「ということは今頃外の世界は阿鼻叫喚の流血地獄・・・」

「なわけ。ま、でもそのおかげで私は漫画に、デジタルは夢小説に、ゼンノロブロイは読書にそれぞれ全力で集中できたわけだし、文芸同好会としてはこの上なく有意義な1日だったと思うよ」

「おかげで私も小説を丸々一冊読破することができました」とゼンノロブロイがはにかむと、2人の間に柔和な雰囲気が広がっていった。彼女の素朴でいて思慮深いオーラに、2人はどうしようもなく惹かれていた。

「何読んだの?」とメジロドーベルが尋ねた。

「はい、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』です!」

「ぶ、物騒すぎる・・・」

「とはいえこれは厳密に言えば戦争の小説ではないんです。なんというか、人にはそれぞれ自我を否応なく抉り出されてしまうような状況や場所があって、この作家の場合はそれがたまたまベトナム戦争だったんです。そう弁明したうえで彼は『私のベトナム戦争』についての率直な感慨を語っているんです」

「あ、なんかそれすごいいいですね。正直言うとあたしも苦手なんですよね〜、クソデカい不条理にクソ適当に登場人物をぶつけておけば深遠なものが必ず出てくるとか思っちゃってる系の小説、漫画、映画、アニメ全部」

「確かに。この不条理にぶつかれば誰もが悩み苦しんだ果てに何かを会得したり喪失したりするはずだ!みたいに考えること自体、その不条理にある程度の価値を認めてるようなもんだしね」

「男はやっぱりクルマが好きだよな!ってなわけで魅力的な男が描きたいならとにかくカッチョイイクルマに乗らせろ!みたいなのと同じですよね。んなわけねーだろオイッッッッッ!っていう。無免許でも魅力的な奴だっているだろがオイッッッッッ!っていう」

夕暮れの日差しは棚から棚へと広がっていき、やがて図書館全体が鮮やかな赤に染め上げられた。6時のチャイムが流れ、その不安定な残響がいつまでも耳に残り続けた。西日はますます強まっていく。

「なんちゅーか・・・世界の終わりみたいですな・・・」

アグネスデジタルが言った。

「バカ言わないでよ」メジロドーベルがアグネスデジタルの頭を軽く叩いた。「ほら、さっさと帰ろ」

ゼンノロブロイは読んでいた本をトートバッグにしまい込みながら机を眺めていた。机は西日によって端から端まで余すことなく真っ赤に染め上げられていた。

ゼンノロブロイはもしこれが血であったならどうだろう、と考えてみた。

日が完全に暮れた後、もう一度ここに戻ってくる。そして室内灯のスイッチを入れる。すると震え上がるような赤、赤、赤の氾濫が視界を埋め尽くす。机も、床も、本棚も、すべてが鮮血を浴びて真っ赤に汚れている。

出来の悪い怪奇小説みたいだ、とゼンノロブロイは苦笑した。しかしそれでもその空想は彼女の頭にこびりついて離れなかった。それはある意味では空想ではないからだ。

彼女はたくさんの本を読んだ。たくさんの歴史を学んだ。トゥール・スレンの尋問室。スレブレニツァ郊外の草原。ソンミ村の農業水路。そこには真っ赤な血の記憶が刻まれている。決して拭われることのない永遠の死が染み付いている。

それらに「トレセン学園の図書館」が追随することはない、と言い切ることはたぶん誰にもできない。この部屋が本物の血に染まる日がいつか来るかもしれない。

今、彼女にできることはたった一つしかなかった。両手を組み、目を瞑る。そして彼女は祈った。

「それが今日じゃありませんように」

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