麻布競馬場

麻布に競馬場がある、と私にこっそり教えてくれたのはナカヤマフェスタだった。

麻布、という単語を脳内で転がしていると、今でも砂混じりの汗が首筋を伝うような不快感に苛まれる。だから私はわざと素っ気なく返事した。すると彼女は踵を返しかけた私の腕を強く掴んだ。掴まれた箇所から皮膚が爛熟し、そのままアスファルトに溶け込んでいくような気がした。

「嘘じゃない。来ればわかる」

21時半、広尾駅。外苑西通りを名前も知らない高級車がひっきりなしに通り過ぎていく。そのうちの何台かは車体に夜光をきらきら反射させながらゆっくりと速度を落とし、路肩で手を振る制服の少女やマルニのショッパーを抱えたふくよかなマダムらの前で丁重に後部ドアを開いた。彼女らが乗車し終えると車は何事もなかったかのように往来の水流を捉え、そのまま明治通りのほうへ流れていった。

「相変わらずいけ好かねえ街だな」ナカヤマフェスタが言った。「お前も思うだろ?アイネス」

「ううん全然。綺麗で素敵な街だなって」

「お前、本当に思ってんのか?」

すらりとした長身の女が私たちの横を自転車で通り過ぎていった。Tシャツにハーフパンツで、ハンドルにはコンビニの袋。そのときふと匂いがした。平板な、透明な、無機的な匂い。

「ハッ、コンビニ行くだけであのめかしようだぜ?しゃらくせえ」

「違うと思う」私は制服の襟を正しながら言った。「もともとそういう匂いなの。そういう人たちなの」

「どういう意味だ?」

私も考えてみた。どういう意味で私はそう言ったんだろう。脳みその海に思索の糸を垂らしてみる。もともとそういう匂いなの。だけど糸の先端は海の闇の中に深く深く吸い込まれていくばかりで、ふとした拍子に自分自身までその闇の中に落っこちてしまうような気がした。

「深い意味はないの。いい香水?シャンプー?使ってるからいい匂いがするなぁって」

「ま、だろうな」

薄橙色に彩られた街区から少し離れると、人工的な草木の匂いが鼻腔をついた。大きめの箱庭のようなそれは「有栖川宮記念公園」というのだった。公園は北東に向かって緩やかな傾斜を描き出しており、公園脇の隘路をタクシーが一気呵成に駆け上がっていった。

「こっちだ」

ナカヤマフェスタはそう言って公園に入っていった。公園の中は周囲のきらびやかな街明かりが嘘のように暗く静まり返っていた。

ベンチに腰掛けた着物の老婆が散歩中のゴールデンレトリーバーに小さく手を振っている。蛇口で日能研のリュックを背負った制服の小学生が母親に手を洗わされている。誇張気味なフォントで「ヘビに注意!」と書かれた張り紙が至るところに貼り出されている。

なんだか空間そのものが詰めの甘いアリバイみたいな場所だな、と私は思った。ここでは万物があたかも偶然生じた素朴な自然物であるかのように振る舞おうとしていて、でもその試みはものの見事に失敗している。砂泥の薄皮から純金の本質がところどころ見え隠れしてしまっている。私はとても腹が立った。

「ヘビに注意だってよ。こんなところで本当にヘビなんか出ると思うか?」

「私の地元の公園にもよくヘビが出たよ。張り紙なんか一枚もなかったけど」

ナカヤマフェスタが公園の中腹にある1.5メートルほどの茂みを小さく指差した。もちろんそこには「ヘビに注意」の張り紙が張り出されていた。周囲に人影がないことを確認してから、彼女は茂みの中に飛び込んだ。

「早く!お前も来い!」

彼女に急かされるまま私も茂みの中に飛び込んだ。

その瞬間、臀部と背中の間を鳥の羽根で撫でられるような浮遊感に襲われた。声を発する隙もなく、私たちは真っ暗な闇の中をものすごいスピードで落ち込んでいった。

ようやく肉体が重力を取り戻したとき、私は光を見た。私は夢か現かもわからないまま、その光を目指して一歩ずつ歩き始めた。

光が景色に変わったとき、眼前には広大なターフが広がっていた。そしてその周囲を映画に出てくる大劇場のような観客席が囲繞している。気が付けば私の横にはナカヤマフェスタがいた。

「ようこそ麻布競馬場へ」

ナカヤマフェスタはそう言いながら私の手を取った。場内は火曜だというのに嵐のような歓声が巻き起こっていた。「国一つ滅びるような額の金が一晩でこの会場を駆け巡るんだ」と彼女は言った。

麻布競馬場は港区地下に造設された非合法の大規模賭場だった。

ほどなく会場スタッフと思しき黒服の男がやってきて、私を更衣室の前まで誘導した。

「準備が終わりましたらパドックまでお越しください」

「ちょ、え、まだ出るなんて一言も言ってないんだけど・・・」

私が必死に訴え出ると、黒服は振り返ってこう言った。

「あなたは自由意思でここへ来たのではありません。あなたは厳正なる審査に基づいて選ばれたのです。またとない好機を不意になさらぬように」

選ばれた?私は周囲を見回した。しかしナカヤマフェスタは煙のようにどこかへ消え去ってしまっていた。彼女もまたこの不可解な賭博の片棒を担ぐスタッフの一人だったのだ。まあ、でもあの子はもともとあんな感じだしね。私は体内にわだかまる後悔を溜め息で外に押しやり、更衣室の扉を開けた。

パドックからは観客席の全体が見渡せた。逆に言えば、私はこの空間にいる全員の視線に晒されていた。無数の視線は私の肢体をくまなく観察し、それに応じて財布の紐を締めたり緩めたりしていた。そういう博徒特有の欲望のうねりが肌で感じられた。

周囲には私の他にも出走予定の他のウマ娘たちがいた。彼女らは笑顔で観衆に手を振っていた。観衆はそのたびにいちいち大仰な歓声を上げた。だけど私にはそれが演技だということがわかる。彼女らの笑顔はまるで能面のように機微を欠いていた。それどころか静かに涙を流している者さえあった。至近距離の私たちだけが感知できる地獄がそこには広がっていた。

パドックを抜け、ゲートに入ると左右それぞれに6人か7人くらいのウマ娘たちが控えているのが見えた。通常のレースであれば誰もが各々の決意に燃えているであろう瞬間だったが、そこには明らかにそれと同量の失意が瀰漫していた。それぞれ逆方向に進もうとする決意と失意が彼女たちの精神をずたずたに引き裂いていた。

いよいよレース開始かと唾を飲んだそのとき、会場全体に熱気のこもったアナウンサーの声が響き渡った。

「それでは続いて"情状酌量"に入りたいと思います」

情状酌量?何なの?私はその意味を推し測ろうとしたが、思考は爆発音のような歓声に吹き飛ばされてしまった。周囲を見回すと他のウマ娘たちはつまらない深夜放送のように落ち着き払っていた。こうした状況に彼女たちは既に慣れきってしまっているのだ。

1番ゲートのウマ娘の名前が呼ばれた。歓声はいよいよ発狂の域に達しつつあった。

するとマイクを持った黒服の男が彼女に駆け寄ってきた。彼女はそれを受け取るなり大きな声でこう言った。

「アタシの実家は埼玉県にあります。蕨の県営アパートです。お母さんは保育士ですが、毎晩12時を回らないと帰ってきません。お父さんはアタシが10歳のときに家を出ていきました。あとは3つ下の弟がいて、去年の大晦日に地元の不良仲間と一緒にセカンドストリートで万引きして捕まりました。

アタシはトレセン学園に行きたかったんですけど、バイトで貯めた貯金は全部弟の保釈金に持っていかれました。頭が悪いので無利子型奨学金を借りることもできませんでした。今は駅前のセブンイレブンでバイトしてます。そこしか受かんなかったので。

あと、最近お父さんが帰ってきました。ボロボロのシャツにボロボロの半ズボンで、お母さんにお金を無心しました。おえがいあおー、たのむおー、って。アルコール中毒で呂律が回ってないんです。私は耐えられませんでした。私はお父さんを殴りました。殴った手が腐り落ちるんじゃないかというほど嫌な臭いがしました。彼が今どこに住んでいて、どんな生活を送っているのか。考えたくもありませんでした。

私はこれの遺伝子を受け継いで生きている、そしてこれからも生きていかなきゃいけないんだと思ったら涙が出てきました。以上です、応援よろしくお願いします」

彼女が一礼すると再び会場が湧き上がった。 アナウンサーは「素晴らしい意気込みです」と賛辞を述べると、隣にいるらしい人物に「いかがでしょうか、先生?」と話を振った。先生と呼ばれる人物はわざとらしく咳払いしてから滔々と語りはじめた。

「そうですね、ま、かなり悲惨な生い立ちといって差し支えありません。しかしちょっとティピカルすぎる。どこかで聞いたようなエピソードばかりで、深みがないんですね。本人もそれを自覚してるんじゃないでしょうか。自分自身の人生の平板さを感傷的なレトリックで虚飾するというのはやはり悪手だと思いますね、私は」

「なるほど。それでは先生のご意見も踏まえたうえで、会場の皆様、"情状酌量の投資"をよろしくお願いいたします!」

すると天井から巨大なモニターが現れた。モニターには見たこともないような桁の数がものすごいスピードで積み上がっていった。100万、500万、1000万…

「さあさあどこまで伸びるでしょうか!数字の多寡によってレースのスタート位置が前後しますからね、非常に重要な局面です!」

そのとき、横にいたウマ娘が嘆息めいた笑い声を漏らした。

「あんなんじゃ札束風呂もできないよ」

私はその子と不意に目が遭ってしまった。見た目こそ華美でさながら歌舞伎町の中堅ホステスといった趣だったが、その瞳は灰色に淀んでいた。

「3000万円。最低でも3000万円は必要なんだよ、なんだかバカみたいじゃない?」

「ねえ、私よくわかんないんだけど、このレースに勝つとどうなるの?」

「日本の経済が回る。そんでもってレースに勝った子もついでに大富豪」

「ふうん」

モニターの数値は1200万円を超えたあたりで失速し、最終的に1285万円で頭打ちとなった。これじゃ札束風呂もできないんだって。

あなたは何も気にしなくていいのよ。トレセン学園の入学試験に合格した日、お母さんが私にそう言った。

私は自分の家が決して裕福ではないことを誰よりもよく知っていたし、現在の自分の幸福が合格証書を物珍しそうに眺める目の前の女性の忍耐と辛苦の上に成り立っていることも理解していた。

私は彼女の顔を見た。そこには息絶えた樹木のような皺が幾重にも刻まれていた。私は可能性の枝を片っ端から切り落としてしまった罪悪感で今にも押し潰されそうだった。せめて今できることをしてあげたかった。

お母さんが入学金の払い込みをしなきゃ、というので、私はその役を自ら買って出た。現金を銀行まで持っていき、私がそれを入金する。もちろん途中で紛失したり強奪されたら私はトレセン学園に行けなくなる。でもそれでいい。そのくらいの責任感は私にも背負わせてよ。

お母さんから預かった封筒はびっくりするくらい軽かった。彼女の幾星霜の努力がたかがこんな紙切れ数百枚に還元されてしまったのだと思うと、これは悲しみなのか怒りなのか、ともかくどこにも辿り着けない感情の波濤が胃のあたりをぎゅうぎゅうと圧迫した。

払い込みを終えたとき、私はもうこれ以上お母さんに迷惑をかけまいと誓った。私の家には私のほかに2人の妹がいる。だからこのバカみたいな紙切れを集める努力を、お母さんはあと2度繰り返さなくてはいけないかもしれない。そんなことはもうさせたくない、バイトならいくつだって掛け持ちしてやる、身体なんかお前らにくれてやる、そう意気込んで私はトレセン学園の門をくぐった。

でも、やっぱり東京はすごかった。

「あらごきげんよう、わたくし、昨日は東京タワーを購入しましてよ。スカイツリーにお株を奪われた哀れな旧式電波塔はこれよりわたくしが選りすぐったパティシエ常在のフルーツパーラーに生まれ変わりますわ!打倒資生堂!ですわッ!」

まあ、こういう突き抜けた手合いは置いておくとして、それよりは日々の生活のほんの小さな瞬間に萌す違和感に胸をちくちく刺された。

「ごめん今日もう帰るね。そう、これから撮影。Vogueだったかな」

「私セットしか注文しないんだよね。チキンクリスプって食べたことなくて」

「シネマヴェーラでジョン・フォード特集やってんな、蓮實重彦ごっこでもしにいっかァー!」

「従弟は日比谷高校目指してたんだけど落ちちゃって・・・それで仕方なく世田谷学園に」

「父親のことはパパかお父様のどちらかで呼ぶもの、と教えられてきましたので・・・」

「ロイホ行ったことないの?学校終わりに行くと楽しいのに」

「青山に住んでたんだけど渋谷のクラブ帰りに道玄坂のほう通りたくないじゃん。んで代々木上原に引っ越したのー」

「このパッタイまっず!セブンの新商品なんでも買うのダメだな。いる?」

「東進は冬になると有名講師を釣り餌に模試成績優秀者を無料で入塾させるんだ。難関大合格者の水増しだな。私は鉄緑会でじゅうぶんなのだが・・・」

「はいこれお土産。ハワイの物価やばくてさ~」

「インスタのプロモーション案件で試供品もらったんだけど私ブルべだから絶対合わなくて草」

私と同じ物理的形状をした生命体であるはずなのに、私と同じ言語を操る生命体であるはずなのに、その存在が根差している土台が大きく異なっている。そういう違和感。それはたぶん根底まで掘り進めていけばおのずと経済格差という核心に辿り着くのだろう。

Vogue、鉄緑会、シネマヴェーラ。それらはビルの間を吹き荒ぶ突風のように私を掠めていった。私はその残響を肌の中に感じながら、ただただ居心地の悪い孤立感に震えた。

今思えば私がUberEatsを始めたのは必然だったのかもしれない。圧倒的な資本を翼に際限なく加速していく東京の街に少しでも追いついてやりたいという願望が、たぶん私の中にあったのだ。

授業が終わるのがだいたい5時で、トレーニングがあってもだいたい7時。そこから寮室に戻って配達用リュックを背負い、そのまま京王線に乗り込む。私はウマ娘だから自転車もいらない。

新宿が近づくとアプリの呼び出し音がけたたましく鳴り響く。だいたいピックは新宿南口付近の飲食店で、配達先は東南、つまり渋谷とか千駄ヶ谷とか、そのあたりが圧倒的に多い。

渋谷でピックされるとかなりの高確率で港区方面に飛ばされる。スケートボードのバッドボーイたちのナンパを無視しながら青山通りや外苑西通りを疾走しているうちに気が付いたら赤坂とか六本木とか。このあたりは武蔵野台地の突端で起伏も激しいから人間の配達員もあまりいない。そのくせ注文数は都内屈指で多い。このあたりに住んでる人たちみたいに形容するなら、ブルーオーシャン、ってやつ?

タワーマンションというものには毎回驚かされた。外から見ればどれも大同小異の特権性にしか見えないが、そのエントランスをくぐり抜けると、そこには都心の富裕層と呼ばれる人々が抱えるそれぞれの本性のようなものが垣間見える。

たとえば本当に高級なタワーマンションには身なりの奇麗な警備員が付いている。配達用リュックを背負ったまま正面のエントランスから入場しようとすれば、「申し訳ありません」と足止めを食らい、裏口の配達用に案内される。客層はだいたい外国人か真っ白な子犬を抱えた若い女で、荷物を手渡すと鷹揚な笑顔で「Thank you」と言う。もはや超然と表現するほかないくらいに何もかもが過不足なく安泰に機能している。

しかしこれが格の低いタワーマンションであれば話は別だ。警備員は受付横の事務室で携帯をいじっているし、酷い場合はエレベーターが共用だったりする。建物の真ん中が吹き抜けと称してすっぽり空洞になっているものもある。客層はまちまちで、インターホン越しに犬や子供のけたたましい鳴き声が聞こえてきたり、客の声がテレビの哄笑に紛れてうまく聞き取れなかったりする。荷物を手渡すなり謝礼もなく踵を返す客、「暑かったでしょう」と生温いジュースを手渡してくる客、誰かと電話中の客。とにかくバリエーションに富んでいて、安定的なイメージがない。

私にとってはどうであれ見上げるしか術のないこの巨塔にも、実のところグロテスクなヒエラルキーの傾斜があるというわけだ。いや、私がわかるのは彼らの玄関前までの現実だけであって、そこから先がどうなっているのかは知る由もない。もしかすればもっとミクロな境位でもっとミクロな階級闘争が起きているのかもしれない。

だけど、そんなことはどうでもよかった。

私にたった一つわかるのは、私がここに住むという情景はどう頑張っても思い浮かべることができないということだった。慶応卒の話がつまらない外銀の夫も、SAPIXに行きたくないと駄々をこねる小学生の娘も、渋谷ネバーランドに通い詰める慶応内部進学生の息子も、血統書付きの鳴かないブリティッシュショートヘアーも、何もかも意味を伴わない文字列として思考の稜線を滑り落ちていった。

私がリアルに想像できるのは、数百枚の紙切れをかき集めるために身も心もボロボロにやつれ切る、そういう人生だけなのだ。やっぱり。

結局私は、東京にしがみつこうと身を乗り出したことで、むしろ東京が虚ろなくらい自分から遠いという事実を追認させられただけだった。しかしこのバイトを辞める気にはどうしてもなれなかった。東京といえど時給2000円のバイトなんかそうそう見つからない。

今、私は既にゾンビなのかもしれない。家族に対する負い目だけを原資に、最低限度の成功を還元するだけの意思なきゾンビ。

何がしたい?どこへ行きたい?わからない。またUberのアプリからピック音が鳴り響く。私はそれに従って東京の街を西へ東へ流れていく。流れていく。流れているだけなのだ・・・・・・

「・・・はい、ありがとうございます!以上アイネスフウジン選手の意気込みでした!先生、いかがだったでしょうか?」

「いや、これはもう本当に最悪ですね。洒落ぶってるわりに何の文学的深みもありませんし、そもそもトレセン学園に入学できているという時点で真の困窮者とはいえません。ご存じないかもしれませんが、あなたなんかより深刻な貧困に喘いでいるウマ娘はこの日本にごまんといます。だから、あなたは恵まれているほうなんですよ。まずはそれを自覚してください」

それから"情状酌量の投資"が始まった。数値メーターははじめから鈍重で、わずか数百万で完全に静止してしまった。それはちょうどトレセン学園の学費と同じくらいの額だった。隣のウマ娘が「ご愁傷様」と憐憫の笑みを私に向けた。

私のレーススタート位置は他の誰よりも後方だった。一番近い位置にいる選手でさえ20メートルは前にいた。

全員が所定の位置につくや否や、フォームを整える間もなくレース開始のブザーが鳴り響いた。私は全力で走っていた。このような状況下でもなお東京という巨大構造が生み出す流れに沿って動いている自分にもはや嫌気すら差さなかった。私はすべての懊悩と不安をからピントを外し、勝ちたいという近視眼的な欲望に向かって全力で足を踏み出した。

電光表示板の一番上に自分のゼッケンの番号が表示されたとき、私はさして驚かなかった。少しの肉体的恍惚があるばかりだった。ややすると後方に追いやったはずの懊悩と不安に追いつかれ、私は再び暗澹たる気持ちになった。

「見事なダークホースぶりを見せてくれたアイネスフウジン選手!賞金額はなんと・・・2億4440万円!!!」

私は高揚気味に鳴り響くアナウンサーの声に苛立った。観客席で悲喜交々の絶叫を上げている人々にも。黒服がマイクを持ってきて、私に手渡した。

「それではまず、自分が勝利を収めることができた理由について一言お願いします!」

私は牽制するように咳払いをし、それからありったけの呪詛を込めて言った。

「UberEatsで鍛えたからです」

結局私は晴海のタワーマンション最上階の一室を購入した。親友のメジロライアンが意外にもそういう事情に精通していたので、彼女の教えに従うことにした。晴海はこれから発展するエリアだから、今2億で買っておけば10年後には倍の値段で売却できるのだとか。

自分がこんな場所で東京一帯の景色を独り占めしていることについて、家族にはまだ何も伝えられていない。それはいかがわしいビデオに出演していることを暴露するよりよっぽど恥ずかしいことだった。

それでもせめてもの罪滅ぼしのつもりで、私は毎月実家に送っているお金だけは自分で稼ぎ出すことにしている。配達先が自分の家なんてこともざらにあった。事情を知っているナカヤマフェスタには「金があるんだからもっとパーっと生きりゃいいじゃねえか」と嫌味を言われたが、そんな気はなぜか微塵も起きなかった。

その日は9月だというのにシャツと肌が汗でくっついてしまうくらいの熱帯夜で、私は広尾と恵比寿の間を延々と行き来していた。

広尾駅の前で水分補給しながらシャツを手で扇ぐと、酸気のある汗の微香が感じられた。制汗シートが底をついていたことを思い出して余計に汗が出た。

そのとき、ふと私の側方を自転車が掠めていった。

Tシャツにハーフパンツという格好の、すらっとした長身の女だった。

私は思わず彼女が通り過ぎていった後の風の匂いを嗅いでみた。平板な、透明な、無機的な匂いがした。

もともとそういう匂いなの。そういう人たちなの。

誰かが私の耳元でそう囁いた。

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