四月の風
あなたの絵本をぜひ出版したい、とゼンノロブロイに持ちかけられたのは2年前の4月だった。
「中等部に高野悦子と二階堂奥歯の生まれ変わりみたいな奴が入ってきた」という話題が高等部の文化系界隈を駆け巡った春。文学のぶの字も知らないライスシャワーは校庭の隅に一人、三角座りで歔欷に暮れていた。
「ライスさん、どうかされたのですか?」
たまたま通りかかったミホノブルボンが彼女にそう尋ねた。ライスシャワーはわなわなと震えながら手のひらを開いた。
「さっきね、踏んじゃったの…」
そこにはひしゃげて死んだアリの死骸が握られていた。ミホノブルボンはライスシャワーの置かれた状況を瞬時に理解し、合理的帰結を弾き出した。
「動物愛護法の規定によって動物の殺害は罰せられる場合がありますが、昆虫はその埒外です。またあなたが殺したのは日本全国に広く分布するムネアカオオアリですので、天然記念物をみだりに殺傷した場合に問われる可能性がある文化財保護法にも抵触しません。よって悲しむべき理由は何一つありませんよ」
「そういうことじゃないよ〜」
ライスシャワーは日が暮れるまで泣き続けた。そのうち辺りが暗くなってきた。アリの死骸を足元の土に埋めると、彼女はその場を後にした。
「あの、ライスシャワーさんですよね?」
真っ赤な目を擦りながらとぼとぼと帰路についた彼女の肩を誰かが叩いた。
「私、中等部1年のゼンノロブロイと申します。少々お時間よろしいでしょうか?」
形式張ってはいるものの柔和で親しみやすい声。ライスシャワーはこわばらせかけた身体の力を抜いた。
ゼンノロブロイはリュックサックからA4ほどのサイズの絵本を取り出した。絵本は全体的に色褪せていて、四隅がボロボロに削れていた。そして表紙にタイトルがない。ライスシャワーはその本に見覚えがあった。
「これはあなたが描いたものですよね?」
ゼンノロブロイの双眸の力強さに逆らうことができず、ライスシャワーは力なく頷いた。
いつか気分が落ち込んでいたとき、ライスシャワーはふとこの暗澹とした生活には裏側があるのではないかと考えた。やにわに彼女はクローゼットの奥から自由帳とクレヨンを引っ張り出し、裏側の世界を、つまり希望に満ちた幸福な世界を描き表した。今思えばそれは祈りだったのかもしれない。世界がそうでありますように、という切なる祈り。
「文芸はつまるところすべてが祈りのようなものだと思うんです。今いる地点からまだ見ぬ地平へと飛び立ちたい、という強い気持ち。私はあなたの絵本を読んで、身体が宙に浮くような気持ちになりました」
ライスシャワーの描いた絵本を最初に見つけたのは彼女の母親だった。母は「みんなにも読んでもらおうよ」とライスシャワーに持ちかけた。ライスシャワーはその提案をすんなりと受け入れた。彼女は絵本を描いたことによって人生の暗澹たる区間を既に脱出していたのだ。
彼女の母親は手近な印刷屋で製本したタイトルのない絵本を近所のフリーマーケットで販売した。ライスシャワーも一緒だった。本当に売れるのか不安だったが、1時間も経つと30冊ほどあった在庫は売り切れてしまった。「完売」のポップを作る母の嬉しそうな横顔を今もよく覚えている。
「だからあなたの絵本を正式に出版させてください。お願いします」
ゼンノロブロイは深々と頭を下げた。時刻は既に夜の9時を回っていた。ライスシャワーははっきりと頷いた。
彼女は嬉しかった。それでいてそこには一切の功名心がなかった。彼女はただ、自分を窮地から救い出した何かが時空を経て他の誰かをも救い出しているという事実に強く心を震わせていた。
ライスシャワーはゼンノロブロイの提案を快諾した。ゼンノロブロイは一通りの謝辞を述べたあとで少しだけ顔を曇らせた。
「それで、タイトルはどうしましょうか…?」
*
ホルヘ・ルイス・ボルヘスばりの記憶力と網羅性を誇るゼンノロブロイは弱冠十余年にして既にさまざまな出版社とのコネクションがあった。
『まほうつかいはじめました』と題されたライスシャワーの絵本は出版業界においては医学書院と並んでホワイト企業と名高い絵本専門の出版社から出版された。名出しはしたくないというライスシャワーの意向を尊重し、著者名には「いいよねすいむ(飯米水霧)」というペンネームがあてがわれた。
ゼンノロブロイの目論見は見事に当たり、『まほうつかいはじめました』は絵本としては異例のベストセラーを記録した。「大人も泣ける」というキャッチコピーが大々的に掲げられ、何度も重版がかかった。
メディア露出のできないライスシャワーの代わりに、ゼンノロブロイはテレビや雑誌の矢面に立ち続けた。
「では編集担当のゼンノロブロイさんに、本作の魅力をお聞きします!」
「何かを強くひたむきに信じることの素晴らしさ、ですね!それは叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。でも何かを心の底から信じることのできる人はいつか必ず報われるんじゃないかな〜と私は信じてます!」
(「大ヒット絵本『まほはじ』の魅力に迫る!」Abema News 20XX年8月XX日放送回より)
ーー『まほうつかいはじめました』が広く愛される理由は?
絵本には2種類の系統があります。一つは谷川俊太郎の『もこ もこ もこ』やレオ・レオーニの『あおちゃんときいろちゃん』のような、音や色の原始的な享楽性をある種誇張的に描き出した抽象絵本。もう一つは具体的な誰かが具体的な何かをおこなう過程を描いたもの、すなわち物語絵本です。
大抵の幼児は抽象絵本を通じてまず自分自身がこの世界と接地していることを知り、次いで物語絵本に触れていくことで少しずつ自意識というものを形成していきます。
ここで重要なのは、彼らが初めて触れる物語ができる限り不純物のないものであるようにするということです。要するに「子供たちにこうあってほしい」という大人のエゴが少しでも混入していてはいけない。まずもってそれは卑怯なことであるし、それに、子供はそういった欺瞞に敏感です。
『まほうつかいはじめました』の原作を読んでまず思ったこと。それは、もし生まれて初めて読んだ物語絵本が本作であったなら、私はどれだけ幸福だっただろうということでした。
純粋でいて力強い物語。それを下支えしているのは著者の留保ない慈愛の心です。だからこそ本作は老若男女を問わず多くの方々から愛されるのだと思います。
ーー著者の飯米水霧さんはどのような方なのでしょうか?
ほんとうに心の優しい方です。
(『芸術新潮 20XX年8月号 特集・現代絵本の世界』「編集担当ロングインタビュー」より)
ライスシャワーは自作に対する世間の過熱ぶりにおおむね満足していた。しかし同時に、ボタンを掛け違えているかのような違和感も覚えていた。私が与えたものと、みんなが与えられたものの間に、何か不穏な差異がある。ライスシャワーは神妙な表情で砂糖入りのコーヒーを啜った。
「お待たせして申し訳ありません」
ゼンノロブロイが頭を下げながら向かいの席に座った。やや息が上がっていた。ライスシャワーは「大丈夫?」と声をかけた。
「いえ、はい、全然」それから彼女は句読点を打つように咳払いをした。「それより、大変なことになるかもしれません」
「えっ、大変なことって?」
「メジロホールディングス傘下の映画制作会社ウーマ(UMA)から『まほうつかいはじめました』の映画化を打診されました」
「映画!?すごい…!」
しかしゼンノロブロイの表情は深刻げだった。
「確かにすごいんですが…私は反対しました」
「どうして…?映画になればもっとみんなに観てもらえるよ?」
「文芸を商品として売り出す以上、そこにはある程度の不純物が紛れ込みます。それが資本主義の論理です」
ライスシャワーはよくわからないまま「うん」と答えた。
「しかし誰かに広く何かを見てもらいたければ、その論理に乗るしかない。本当は絵本だって原作通りタイトルなしのままで発売したかったんですよ?でも情報のない本は売れませんから、仕方なく…」
ゼンノロブロイは悲しげに俯いた。
「ですがこれ以上譲歩することはできません。もし譲歩すればあなたの作品の素晴らしい部分が決定的に失われてしまいます」
ライスシャワーはゼンノロブロイの表情の中に本物の悲しみを感じ取った。映画化、きっとそれは間違ったことなのだろうと彼女は思った。ゼンノロブロイは肩を震わせ、絞り出すように言った。
「ただ、本の著作権はあなたにあっても、それをほうぼうに売り飛ばす版権は出版社にあるんです。私がどれだけ抗議しても誰も聞く耳を持ちませんでした。『まほうつかいはじめました』は残念ながら映画化されます。…だから私はせめてもの条件として、脚本家だけは選ばせてほしいと頼み込みました。それでどうにかウーマ所属のメジロドーベルさんに脚本を執筆いただくことにしてもらいました」
「ドーベルちゃんって、あの?」
「そうです。彼女は自分でも少女漫画を描いていて、何度か映像化もされています。しかしその際に幾度となく不条理に直面してきた。要するに、自分の著作が脚本家やプロデューサーの意向で好き勝手に切り刻まれたり歪められたりしたんです。だから彼女はそういうことができる限り起こらないよう、自らが脚本家となったのです」
「ロブロイちゃん、私の知らないところで戦ってくれたんだね、ありがとう」
「いえ、私は本当に無力です。情けない気持ちでいっぱいです」
ゼンノロブロイは涙を拭いながら立ち上がり、「ごめんなさい、もう次の会議が…」と言ってその場を去っていった。
今まさに私の絵本をめぐって大変なことが起きている。それ自体はなんとなく理解できたものの、具体的な絵面が何一つ浮かんでこなかった。私には遠すぎる、とライスシャワーは思った。
「ライスさん」
ふいの呼びかけにライスシャワーは飛び上がった。ミホノブルボンは先ほどまでゼンノロブロイが座っていた席に腰掛けた。ずっと昔からそこが定位置であるかのように。
「どうかされたのですか?」
真正面から見つめられ、ライスシャワーは視線をコップの水面に逃した。翳りのある自分自身と目が合った。そうか、ブルボンちゃんは私のことを心配してくれているんだ。
「ううん、なんでもない」
「そうですか、では」
「えっ、帰っちゃうの?」
「ステータス『なんでもない』が確認できましたので」
ミホノブルボンはよくロボットだの鉄面皮だのと周りの生徒たちから恐れられている節がある。ライスシャワーもそう思っていた一人だったが、思えばこれまでミホノブルボンと積極的にコミュニケーションを取ったことが一度でもあっただろうか?
「どこ行くの?」
ライスシャワーは意を決してそう訊いてみた。
「プレゼントを買いに行きます」
「誰に…?」
「父親です」
「え、それ…私も一緒に行っていい…かな?」
ミホノブルボンは不思議そうに彼女のことを見つめているだけだった。周りの評価も案外あてにならないのかもしれない。
*
「だから言ってるじゃないですか、それじゃ意味ないんだって」
メジロドーベルは電話口を怒鳴りつけながらデスクを叩いた。原稿用紙が枯れ葉のように宙を舞った。
「そこだけは絶対に変えたくないって最初から…」
電話が切れた。メジロドーベルは目に見えるくらい重たい溜息をついた。向かいに座るゼンノロブロイは黙ったまま顎を揉んでいた。
「ホントうんざりするよ。拝金主義のバカプロデューサーどもには」
「我々とあの人たちとではそもそも生理が違うんですよ。いぶりがっこと火星旅行くらい違う」
「呑気なこと言ってないでさ。それともアンタがアタシの代わりに書く?」
「私、映像はダメなんですよ。物理学にイマジネーションを制限されるのが厭で文学の王国に逃げてきたんですから」
「ホントは書きたいくせに」
「この状況で私が書けるのは、たぶん間テクスト的な小賢しいメタフィクションだけです。でも、少なくともこの原作はそういう形でのメディア化を絶対に望んでいません」
「だからアタシに?」
「その通りです」
メジロドーベルは再び机の上の脚本に向き合った。大吉が出るまで御籤を振り続けるように鉛筆の尻で机の上をコツコツと叩いた。コツ、コツ、コツ、コツ…ふいに音が止まった。それは嵐の前の静けさだった。
やにわにメジロドーベルはペンを執り、一気呵成に400字詰め原稿を埋めていった。
「これならどう?」
メジロドーベルは書き上がった原稿をゼンノロブロイに突き出した。彼女は一通り目を通してから深く頷いた。
美しいものは手続きを経るごとに少しずつ摩耗していく、とゼンノロブロイは思った。それはちょうど熱力学第二法則と似ている。抗いがたい摂理なのだ。私たちにできるのは、摩耗の速度をできる限り抑えること。すなわちあれこれと突きつけられる条件の一つ一つに対して、歯を食いしばりながら少しずつ着実に対応していくこと。そういう地道さにひたすら耐え続けること。
なおも原稿の修正に精を出し続けるメジロドーベルを見て、ゼンノロブロイは心の中で何度もこう唱えた。
忍耐は知性の最も尊い側面の一つである。
*
試写会の現場にメジロマックイーンが現れると、場内から五月雨のような拍手が巻き起こった。メジロドーベルは嫌な予感がした。
メジロマックイーンは大仰に一礼すると一番前の席にスッと腰を下ろした。サイドにいた仕立てのいいスーツの男たちが彼女に何事かを語りかけた。メジロマックイーンは上品ぶって口元を押さえながら笑っていた。彼女がこの映画のプロデューサーだった。
本編が終わり、メジロドーベル含む関係者一同が壇上に上がる頃には約半数の客が帰っていた。年寄りの歯のようにスカスカの客席から巧妙に目を逸らしながら「いや〜素晴らしかったですわね」などと出演者に話を振るメジロマックイーンを、メジロドーベルは心の底から軽蔑した。
メジロドーベルにマイクが回ってきた。彼女は終ぞ何も言うことができず泣き出してしまった。メジロマックイーンは彼女からマイクをひったくると「そうですわよね〜、わたくしも感動のあまり涙で前が見えませんでしたもの」と情感たっぷりの演説を打った。
メジロドーベルは今すぐ消えてしまいたかった。
まばらな拍手の中をとぼとぼと舞台袖に戻っていくと、後方からむんずと襟を掴まれた。メジロマックイーンだった。
「いい加減にしてくださいませんこと?」メジロマックイーンは語気を強めて言った。「あなたのせいで危うく台無しですわ」
「もう台無しでしょ」
「どういう意味ですの?」
「どういう意味も何も、今観たものに対して何にも思わないわけ?本当に心の底から?」
メジロマックイーンは乾いた笑いで答えた。
「仕方がないことですわ。各々の思惑が交錯するのが映画ですもの。仮にも脚本家のあなたがそれを知らないわけがありまして?全ての作業が個人で完結する二次創作の世界とはわけが違うのですよ?浅はかな理想論を振り回すのはお辞めくださいませ」
「それこそ浅はかな冷笑でしょ。逆に訊くけどアンタはこの作品がいい作品になるよう何か1ミリでも努力したわけ?」
「したに決まってるでしょう?現にメジロホールディングスのお偉方に頭を下げて資金調達に奔走したのは私ですわ」
「そうかもしれない。でも製作中のアンタの態度、正直言って最悪だったから。ああしろこうしろって文句つけるばっかりで現場のことも原作のことも何一つ考えてない」
「そこはあなたたちが頑張るべきところでしょう?ほら、お得意の『作家性』だか何だかを発揮していただいて」
「アンタは根本的にわかってないんだよ」
「何を、ですの?メジロドーベルさん」
「アタシたちはどう頑張ったってカネの力には勝てない」
「でしょうね」
「だからこそ、アンタが味方の側にいてくれなきゃ困るんだよ」
「まったく、あなたがた『作家先生』はこれだから嫌になりますわね。何かあればやれ権力勾配がどうだの資本主義が悪いだの。そのくせ最後にはカネが欲しいと泣きついてくる。あなたたちなんか死ぬまで『資本論』でも読んでいればいいんですわ」
「そんな話をしてるんじゃ…」
メジロドーベルの反論を遮ってメジロマックイーンは宣言した。
「この映画は必ずヒットしますわ。心配ありません。ねえドーベルさん、あなたは『新しき土』という映画をご存知で?」
メジロドーベルは静かに頷いた。
「『新しき土』は30年代末にドイツと日本が合作した国策映画です。ドイツ側の監督であるアーノルド・ファンクと日本側の監督である伊丹万作の制作方針が何から何まで折り合わず、一時は出資元の倒産さえ危ぶまれた作品でしたが、結果的には空前の大ヒットを記録しました」
メジロマックイーンは観客席のほうを振り返りながら言った。
「要するに、大衆はそれほど賢くないということですわ」
*
ゼンノロブロイがデスクトップの前で頭を抱えていると、メジロドーベルから電話がかかってきた。
「何が『新しき土』だよ、知ったふうにベラベラとさ」
メジロドーベルは明らかに泣いていた。時折電話口から嗚咽と洟を啜る音が聞こえた。
「随分と古い例えを持ち出すものですね、あの人も」
「自分に都合のいい史実にだけは詳しいんだよ。だからああやって世の中を渡っていけるんだ」
「そうかもしれませんね。ですが、あの人と『新しき土』のプロデューサーを務めた川喜多長政との間には天と地ほどの隔たりがあると私は思います」
川喜多長政。1928年に東和商事を設立し、数々の外国映画を国内に輸入するとともに数々の日本映画を外国に輸出した伝説的映画プロデューサーだ。『新しき土』の企画もまた彼の尽力によって実現したものであった。
「ドーベルさん、『新しき土』には二通りのバージョンが存在しているのをご存知ですか?」
「そうなの?」
「ええ。一つはアーノルド・ファンクが撮り上げたドイツ版。もう一つは伊丹万作が撮り上げた日本版です」
「なんでそんな…」
「そう、経済的意味はありません。むしろいたずらに制作費が増大しただけです。しかし川喜多はアーノルド・ファンクと伊丹万作の間にある作家的断絶を見過ごすことができなかった。そこで伊丹に別バージョンの『新しき土』を撮らせた」
メジロドーベルは心臓の鼓動が徐々に速くなっていくのを感じた。
「川喜多はプロデューサーとしての絶大な権力を作り手のために行使したのです。彼は伊丹万作の監督としての手腕を見込んでいた。もっと言えば、彼は日本映画の力を心の底から信頼していたんです」
メジロドーベルは大海のうねりの中を揺曳する一隻の小さな船のことを思い浮かべていた。船は不可解な波に幾度となく翻弄されながらも、どうにか船体を真っ直ぐに保とうとしていた。
「そういう人もいるのです」
ゼンノロブロイは「私もそうであれたならば」と付け加えたかった。しかしそう口に出した瞬間に悔しさと絶望で胸がいっぱいになってしまいそうで言い出すことができなかった。
「ありがとう」と言ってメジロドーベルは電話を切った。
ゼンノロブロイはカーディガンを羽織り、冷めたコーヒーを飲み干した。
"でも、仕方がないわ、生きていかなければ!"
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』のソーニャの台詞が頭の中で何度もリフレインしていた。
"長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。"
忍耐だ。忍耐。忍耐は知性の最も尊い側面だ。
*
試写会の日から数週間が経過した。
主に5chとTwitterを中心に『劇場版 まほうつかいはじめました』に対する酷評が噴出していた。酷評はTikTokやYouTubeにも拡大していき、ほとんど炎上の様相を呈していた。週末にはロードショーが開始されるというのに、都内のシネコンはどこもかしこも空席だらけだった。
プロデューサーのメジロマックイーンはウマスタグラムで急遽声明を出した。
「みなさまの良心と審美眼を信じてやみません」
それが作品の炎上にさらなる拍車をかけたことは言うまでもない。
*
金曜日の夕方。ライスシャワーは公園のベンチに座っていた。
「なぜ我々は誰もいない公園のベンチに座っているのでしょうか」
隣に座るミホノブルボンがそう尋ねた。ライスシャワーは首を捻った。
「うーん、なんでって言われても、なんでだろう?」
二人はついさっきまで府中駅前のサイゼリヤで早めのディナーを食べていた。ライスシャワーは食後にミホノブルボンを連れて駅前を散策する予定だったが、急にその気が失せてしまった。TOHOシネマズ府中にでかでかと掲示された『劇場版 まほうつかいはじめました』のポスターを目にしたからだろうか。
ミホノブルボンはライスシャワーの視線を辿り「この映画が観たいのですか?」と尋ねた。ライスシャワーは「今日じゃなくていいかな」と答えた。
そして二人はこの公園に漂着した。
辺りは既に暗くなりはじめていて、公園の電灯が樹木や遊具の影を地面に投げかけていた。
ライスシャワーは何か言い出そうとして言い出せず、視線を傍に逃がした。
すると隣のベンチの足元に太い枝が落ちているのを発見した。
ライスシャワーは枝を広い、それから地面に何か描きはじめた。
「何をしているのですか」
ミホノブルボンが尋ねた。
「絵を描いてるの」
ライスシャワーは木の枝で地面に黙々と絵を描き続けた。
そこに現実とは異なる論理で駆動する別世界が現前しつつある感触を彼女は感じていた。ミホノブルボンはその様子を横からしげしげと眺めていた。
ライスシャワーは持っていた木の枝を半分に折ると、片方をミホノブルボンに差し出した。
「一緒に描こうよ」
街灯に照らし出された円形の広大なキャンバスの上に、二人は思い思いの世界を描き出した。ミホノブルボンの筆致はライスシャワーのそれと比べていくぶんかおぼつかなかったが、次第に丸みを帯びていき、やがてライスシャワーの世界と繋がった。もはやそこに言葉の介在する余地はなかった。
ふいに一陣の風が吹き、二人は咄嗟に顔を手で覆った。
二人が目を開けたとき、円形のキャンバスはただの地面に戻っていた。
「帰ろっか」
ライスシャワーが言った。
ミホノブルボンは一瞬躊躇った後で彼女のほうに手を差しのべた。
ライスシャワーはそれをぎゅっと握った。
ミホノブルボンの手の温もりを感じながら、ライスシャワーは涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。
こらえることに意味があると思った。
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