日の名残り

多摩川の土手に腰掛け、夕陽に向かって色褪せた遠い記憶を投射してみる。膝にできた擦り傷、冷たいアイスクリーム、クラスメイトの笑い声。もはや透明に近しいそれらは、鮮やかなオレンジ色を浴びて煌めきながら、再び記憶の奥底へと沈み込んでいった。

もう10月か、と呟きながらウオッカは大の字に寝転がった。名前も知らない秋の虫が耳元をくすぐるように鳴いている。万物が温かい毛布をかけられたようにゆったりと夜に向かっていく流動を肌に感じるまま、ウオッカも目を閉じた。

夕間暮れの心地良い微睡みの中で、ウオッカは不意に首を絞め上げられたような苦しみを覚えた。何かどす黒いものが記憶の底からせり上がってくる。それは夕陽の優しいオレンジなどいとも簡単に飲み込んでしまうほど真っ黒で、何もかもを闇一色に染め上げようとしていた。

「おい」

ウオッカは振り向いた。ポケットに手を突っ込んだ男子小学生たちが彼女を睨んでいる。表情は黒く塗りつぶされていてよくわからないが、彼らが自分に敵意を向けていることは明らかだったし、それに見覚えもあった。

「お前、もう友達じゃないから」

男子の一人がそう言った。ウオッカはなんで?と尋ねた。男子たちはそれには答えず、互いの顔を見合わせてケラケラと笑った。ウオッカはもう一度なんで?と尋ねた。男子たちは意地の悪い笑みを浮かべたまま、ウオッカの声音に似せて「なんでぇ?」と繰り返した。なんでぇ?なんでぇ?なんでぇ?なんでぇ?

視界を飛び回る蠅のように乱高下する「なんでぇ?」の発音に、ウオッカは次第に苛立ちを覚えた。それでも男子たちは挑発をやめなかった。いよいよ憤激を抑えきれなくなったウオッカは右腕を振り上げ、持ち前の筋力を生かした力強いフックを繰り出した。男子たちはボウリングのピンのようにガラガラと倒れ、そのまま動かなくなった。

ウオッカの耳元では「なんでぇ?なんでぇ?」という幻聴が恨み節のようにいつまでも響いていた。男子たちは死んだようにその場に倒れ込んだままだった。

「ちょっとアンタ、何呑気に寝てんのよ」

聞き覚えのある声でウオッカの目は覚めた。太陽はもうとっくに沈みきっていて、秋の夜風が汗まみれの背中を冷たくなぞっていった。

「なんだ、スカーレットか」

「なんだとは何よ、学校中探し回ったんだから」

「そりゃご苦労」

「今日は半年に一度の寮生総会でしょうが。ほら、さっさと行くわよ」

「総会?そんなもん出たくねえ」

「あのね、知ってると思うけど、参加しない生徒は同室の生徒共々トイレ掃除の刑を科されるの。そうなってもアタシ手伝わないわよ」

「そんなこと言って、去年は手伝ってくれたじゃねえか」

「今年は絶ッ対手伝わないから!」

ウオッカはしぶしぶ起き上がると、憤懣やるかたなしといった雰囲気のスカーレットの後について寮のミーティングルームに向かった。

総会を終えて部屋に戻るなり、ダイワスカーレットが「何よこれ!」と素っ頓狂な声を上げた。部屋の入り口には1.5メートルはくだらない巨大なソーセージのようなものが横臥していた。ウオッカは指をパチンと鳴らして「来たか」と呟いた。

「これアンタの?」

ダイワスカーレットが額を押さえながら尋ねた。

「おう。スタンド型のサンドバッグだぜ。超イカすだろ?」

「イカすだろ?じゃないわよ!あのね、ここはアンタの部屋であると同時にアタシの部屋でもあるの。わかる?アタシがここに置いてるものといえば教科書と化粧品と思想書とゼロ年代アニメのブルーレイボックスくらいのものなのに、それに比べてアンタは何よ!」

「何って言われてもよ」

「わかんないならアタシが教えてあげるわ」ダイワスカーレットが改行でもするみたいに咳払いした。「『トップガン』のバカでかいポスター、『マッドマックス2』のフィギュア、今川泰宏だか今石洋之だかのろくでもないスポ根ロボアニメのプラモデル、『チャンプロード』のバックナンバーの山、洞爺湖の木刀、『昭和残侠伝』と『トラック野郎』のブルーレイボックス、食べかけのポテトチップス、賞味期限切れのプロテイン、サインボールのレプリカ、旧枠デュエルマスターズのデッキ、全てのページに落書きされた教科書、締め切りが半年前の課題プリント、『ジョジョの奇妙な冒険』第4部のコンビニコミック、松岡修造カレンダー、ヤフオクで落札したSchottのライダース、DIESELのデニム、クロムハーツの偽物、ドンキで買ったグッチの財布、SNKRSで買えたはいいもののほったらかしのNIKE×Sacaiのハイカット、河川敷で拾ったすごく丸い岩、2Lペットボトルの束、長州力の手形サイン、ゴミ捨て場から盗んできた電子レンジ、2カ月前の『週刊少年ジャンプ』・・・」

「あーもうわかったわかった!」ウオッカが鬱陶しげにダイワスカーレットを制した。「後で片付けとくから、な?な?」

「後でって言って一度でも片付けた試しがあった?」

「あったぜ。一回くらいは」

「どうせ全部ガラクタなんだから今すぐ捨てちゃいなさいよ」

これにはさすがのウオッカも声を荒げた。「てめえ!」「何よ!」今日のところは穏便に済ませるはずだったが、気がつけば互いに延々と罵声を浴びせかけ合っていた。12時ごろ、さすがに見かねた寮長のフジキセキが仲裁役を務め、それで二人はなんとか平静を取り戻した。

「で、どっちが原因なんだい?」

フジキセキが呆れながら尋ねた。二人は即座に互いの顔を指差した。

「「こいつ」」

フジキセキは特大の溜息をつきながら部屋を出て行った。栗東寮の日常茶飯事だった。

ベッドに寝転がり、壁に向かってシャドーパンチを繰り出しながら、ウオッカは新しく届いたサンドバッグのことを考えた。今日は喧嘩のせいで使用することができなかったが、明日からは思う存分殴り散らしてやろうと決意した。

翌日、トレーニングを早退したウオッカは一目散に自室へ向かった。部屋の扉を開けるなり床に転がっていたサンドバッグを叩き起こし、ビニールの包装をビリビリに破いた。それからろくに説明書も見ないでスタンドを組み立てると、素手のままサンドバッグを殴りはじめた。

サンドバッグは黄色とアイボリーの中間のような淡色だったが、窓から差した西日で真っ赤に染まっていた。しかしウオッカにそんなことは関係ない。彼女は鼻先に吊るされた野菜を追い続ける動物のように、ひたすら無心にサンドバッグを殴り続けていた。オレ、殴打、サンドバッグ。それ以外の何者も介在しない世界。

ひょっとしたらオレは敢えて無心になろうとしているのかもしれない。ウオッカの頭の端にそんな考えが浮かび上がった。しかしなぜ?どうしてそんな必要がある?疑念が明確な形をとることを妨害するように、彼女はひたすら拳を振るい続けた。

当然ながら、この日もウオッカとダイワスカーレットは激しい口論を繰り広げた。扉を開けるなりサンドバッグが牡牛のように猛り狂っていて、ほんのりと汗の匂いがして、おまけに部屋は片付いていないどころか新たに包装ビニールのゴミが氷塊のようにそこかしこに散らばっていたのだから無理もない。

「もう!バカ!」

ウオッカはこうして毎日のようにダイワスカーレットと言い合い殴り合いの喧嘩に明け暮れていたが、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、この喧嘩こそが日々の生活を日常たらしめるための重力であるとさえ思っていた。しばらく喧嘩がないときなどは、かえって鬱憤が溜まるほどだった。

ウオッカはダイワスカーレットのことを必要としていた。友情にはさまざまな形があるが、これもその一つの完成形なのではないかとウオッカは考えていた。互いに優しく歩み寄り合う友情もあれば、剥き出しに殴り合う友情も存在するのだ。

幼少の頃、ウオッカは人間のクラスメイトと取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。相手の名前は何だったか。しかしその結果は言わずもがなだった。血、救急車、相手の親、謝罪、云々。そこで彼女は自分がウマ娘という人間とは別種の生き物であることを改めて自覚させられた。それからというもの、ウオッカは長らく「自分」を封印してきた。それは彼女にとってかなり苦しいことだった。

時折、幼い彼女は近所の大きな川に出かけ、そこで手頃な大きさの岩を拾い上げると、思いきり川の中に投げ込んだ。岩はどぽん、という音とともに大きな水紋を描き、それから川底へと沈み込んでいった。そうすると日々のフラストレーションが少しではあるが解消された感じがして、彼女の心は少しだけ軽くなった。

トレセン学園入学式の日、ウオッカは同室に案内されたダイワスカーレットと顔を見合わせるなり、眠っていた全身の筋肉が呼び覚まされたような気がした。吊り上がった眉、への字に曲がった口、高飛車な胸、剛健な両脚。こいつとは反りが合わないだろうな、とウオッカは瞬時に悟った。そこには落胆よりもむしろ期待の予感が萌していた。

「アタシはダイワスカーレット。アンタは?」

ダイワスカーレットは正拳突きでも食らわせる勢いで右手を差し出した。

「オレはウオッカ。よろしくな」

ウオッカは彼女の手を全力で握り返した。するとそれに対抗するように彼女も拳に込める力を強めた。二人はしばし見つめ合いながら眉間に皴を寄せていたが、やがて張りつめた糸が切れたように笑い出した。

「アンタバカでしょ」

「お前こそ」

ウオッカはもう一度ダイワスカーレットの手を握った。それは今度こそ本当の握手だった。

10月も下旬にさしかかっていた。ウオッカは多摩川の岸辺に腰掛けながらこともなげに夕陽を眺めていた。風はかなり冷たくなっていて、半袖に半ズボンという自分の格好がそろそろ深秋という額縁に不釣り合いなものであるような後ろめたさを感じつつあった。

「またサボり?」

後方からダイワスカーレットの声がして、ウオッカは振り返った。

「うるせえな。トレーナーのバカが悪いんだよ」

「何かあったわけ?」

「お前は今日は休んでろって、並走はおろか筋トレもさせてもらえねえ。ムカついたもんだから逃げてきちまった」

「具合悪いの?」

「具合、具合っつうかよ・・・」ウオッカはそこで言葉を濁らせた。「ホラ、わかるだろ、女ならさ、こう、月一で・・・ああ、ちくしょう、人間のそれに比べりゃどうってことねえのにな・・・」

ダイワスカーレットはそれで得心がいったようにうんうんと頷いた。その双眸には明らかな心配と同情の色が浮かんでいた。それがウオッカには少し腹立たしかった。

ウオッカはおもむろに立ち上がると、足元にあった岩を持ち上げ、勢いよく水面に叩きつけた。激しい飛沫が上がり、ウオッカもダイワスカーレットも全身がぐっしょりと濡れた。

「ちょっと、何してんのよ」

ダイワスカーレットは困惑と怒りを混ぜ込んだトーンでウオッカの肩を掴んだ。しかしウオッカはそれを払いのけると、別の岩を持ち上げ、またもや水面に投げつけた。

「やめなさいよ!」

ウオッカはダイワスカーレットの呼びかけなどには聞く耳も持たず、そこらじゅうにある岩を手当たり次第に川へ放り込んだ。

「本当にやめて!」彼女の呼びかけは今や叫び声にも等しかった。「どうしてアンタはいつもそうなのよ!他人だろうが自分だろうがお構いなしに傷つけて!」

ウオッカは彼女の叫びが聞こえなくなるくらい岩を川に投げ込むことだけに集中した。声も色も遠ざかっていって、血液が巡る熱だけがドクドクと全身を駆け巡っていた。次第に気力も体力も底を尽き、ウオッカはその場でよろめいて尻餅をついた。振り返ってみるとそこにはもうダイワスカーレットの姿はなかった。

部屋に戻っても彼女の姿はなかった。ウオッカは苛立たしげに部屋の中をぐるぐると旋回したが、やがて突起のある何かを踏んづけてよろめいた。それはグレンラガンのプラモデルの頭部だった。さすっていた足裏からつう、と一筋の血が流れ落ち、やがて津波のように強烈な痛みが襲ってきた。

ウオッカは「ちくしょう!」と叫びながら、部屋の隅に置いてあったサンドバッグをあらん限りの力でぶん殴った。すると鈍い破裂音がして、サンドバッグの中心に大きな穴が開いた。サンドバッグはしばらくふらふらと前後に揺れ、それから死んだように動かなくなった。中から覗いた白綿に午後5時の最も紅い夕陽が注ぎ込まれ、それはさながら鮮血に染まったはらわたのように見えた。

それを見た瞬間、ウオッカは矢で心臓を貫かれたように過去のあるできごとを思い出した。その傷口はみるみると広がっていき、彼女の内奥に固く閉ざされていたはずの記憶を否応なしに開陳していった。

確か小学校中学年の頃、遠足か社会科見学でどこか遠くの街へ行ったときのことだ。そのときはちょうど自由行動の時間で、ウオッカは仲の良い男子数名と街を散策していた。

「おい」

ウオッカはそう呼び掛けられて何気なく振り返った。男子たちが彼女のことを見つめていた。しかしどこかいつもと様子が違う。

「お前、もう友達じゃないから」

男子の一人がそう言った。ウオッカは自分が今どのような状況の中に放り込まれているのか、いまいち把握しきれていないようだった。それで単刀直入に「なんで?」と訊き返した。返答はごく単純なものだった。

「女だから」

「はあ?どういうことだよ」

「俺たちもう子供じゃない。男がいつまでも女と遊んでたらダセーんだよ」

「俺は女じゃねえ。ちゃんとした男だよ。力もあるし、メカとかバイクとか好きだし、自分のことも俺って言うし」

「でも女じゃん。ウマ娘の娘って、女って意味なんだぞ」

「ちげえよ」

「違わねえよ。オレたちきのう習ったんだよ、6年生の先輩に」

「何をだよ」

「女はおっきくなると血が出るんだってよ」

「血?」

「セーリって言うんだって。それの間は女は腹が痛くなったり吐き気がしたりして動けなくなっちまうんだぞ。お前知らねーのかよ、女のくせに」

ウオッカは体の内側から凍り付くような悪寒を感じていた。深く冷たい闇の中をいつまでも落下し続けているような。それをはるか上方から見下ろされているような。寒い、寒い、寒い、怖い、怖い、怖い。彼女は思わず座り込んで身を縮めた。男子たちがせせら笑う声が聞こえた。そして彼女は思った。この寒さを、怖さを、取り除く術を考えなくては。彼女は考え続けた。脳みそが端のほうから麻痺していくのに抗うように、必死に考え続けた。そして閃いた。

力だ。

彼女は胸の前で祈りを捧げる修道女のように組んでいた両拳をほどき、右の拳に全身の血液を集中させた。この悪寒と恐怖をはねのけるには、もうこれしか方法はないのだ。せせら笑う男子たちを見据え、彼女は勢いよく右の拳を振り下ろしかけた。そのときだった。

「やめなさい!」

右腕が何者かによって掴まれた。瞬間、彼女の全身は金縛りに遭ったように硬直した。ものすごい力だった。ウオッカはハッと我に返り、それから後ろを振り向いた。そこには見知らぬウマ娘がいた。歳はきっとウオッカと同じくらいだった。見知らぬウマ娘はポンポンと手をはたくと、呆気にとられた表情のウオッカに向かってこう言った。

「アンタの気持ち、よくわかるわ。でも、それはよくない」

彼女はそれからウオッカの後方で同じく唖然としている男子たちに視線を移し、ナイフで突き刺すように指差した。

「何が悪いわけ!?」彼女の瞳の奥では日に照らされた宝石のような涙がきらめいていた。「女だから、何が悪いわけ!?」

それだけ言うと、彼女はつむじ風のように踵を返し、どこかへ走り去って行ってしまった。ウオッカは彼女に名前を聞くことさえできなかった。

しかし今や、ウオッカは彼女の名前を誰よりもよく知っている。

「スカーレット・・・」

ウオッカは一目散に寮を飛び出した。太陽はもうほとんど沈みかけていた。辺り一面に薄闇と冷気が立ち込め、草むらの陰からは有象無象の虫の声が不協和音を奏でていた。ウオッカは半袖半ズボンのまま街じゅうを駆け回った。まだ間に合うはずだと思った。まだそれは失われていないはずだ。

しかしアイツを見つけることができたとして、オレはアイツに何と切り出せばいいのだろうか。今から部屋を掃除するから、投げ捨てた岩を全部元通りにするから、喧嘩のための喧嘩はもうやめるから・・・言うべきことがありすぎて適切な言葉が見つからない。

いや、そんなことはどうでもいい。オレの言葉がどれだけ縺れようが躓こうが、そんなのは大したことじゃない。

お前がもう一度笑ってくれるなら、「バカでしょ」ってオレの胸を優しく小突いてくれるなら、そんなことは本当にどうだっていいんだ。

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