コンドルは宇宙を行く

トレセン学園の片隅には大きな切り株がある。切り株には大きなウロが穿たれており、地底に向かって真っ黒な闇がどこまでも広がっている。底は見えない。

その闇にはすべてを等しく呑み込み、すべてを無へと還元させてしまうような独特の重力があった。

「死ねーーーーー!!!!!!!!」

誰かがウロに向かってそう吐き捨てた。言葉はウロの内部に広がる無窮の闇へと投げ込まれた瞬間にすべての文脈性を削がれ、単なる音素へと解体され、気がつけばその誰かの胸中にあった行き場のない悪意は雲散霧消していた。

切り株のウロは、今ではトレセン学園のちょっとした名所だった。

行き場のない感情はこの中に吐き散らせばたいていどうにかなる。それでどうにかならなければもっと身体を乗り出しながらもっとひどい言葉を吐き散らせばいい。それでもどうにもならなければ…そこまで責任は持てない。ウロの闇が保証できることにも限度がある。

年末の無根拠な高揚感に背を向け、エルコンドルパサーは一人でグラウンドを走り込んでいた。12月31日。寮にはもうほとんど誰も残っていない。ハッハッという乾ききった自分の息遣いだけが彼女の鼓膜を震わせていた。それは彼女の孤独をより際立たせた。

「エルは実家に帰ったりしないのですか?」

2学期最終日、大きなスーツケースを抱えたグラスワンダーが尋ねた。既に教室から飛び出しかけていたエルコンドルパサーが振り返った。

「帰りたいんデスけどね。今まで宿題をサボりにサボってきた罰としてエルだけ年末課題が2tもあるんデース…」

エルコンドルパサーは曖昧な笑みを浮かべながらそう言うと、すぐさま駆け出していってしまった。それは他者のいかなる反応をも受け付けない、という強い意思の表明に思えた。そのとき、窓から針のような冬風が吹き込んできて、グラスワンダーは思わず身を縮めた。

彼女は、エルコンドルパサーが帰省しない本当の理由を知っていた。

「あ、グラスちゃん!」

グラスワンダーの寒々とした白と青の感覚世界に桜色の熱が滑り込み、心臓の中心から身体の末端へと瞬時に広がっていった。それは単に雲間から覗いた太陽が教室の中に西日を投げかけただけのことだったのだが、彼女はそれを偶然と思えなかった。

「あら、ウララさん。補習はもう終わったんですか?」

彼女が尋ねると、ハルウララは地球の裏側まで伝わりそうなくらい大きく頷いた。

「なんかね、私がプリントを出したらね、私何にもしてあげられなくてごめんねって先生が急に泣き始めちゃったの。それで私が慰めてあげたら、今日はもう帰っていいよって」

「それは大変でしたね・・・色々な意味で・・・」

グラスワンダーは落ち着かない様子でぴょこぴょこと動いている彼女の耳を見つめながら、数日前のできごとを思い出していた。

彼女は校庭の土手に体育座りをしながらターフを眺めていた。次、○○と○○。という体育教師の機械的な点呼が延々と続いている。

その日の体育の授業には活気がなかった。特定の誰かが、というよりは、全体として秩序を欠いている感じだった。

とはいえもちろん彼女らは腐ってもウマ娘なのだし、身体を動かすことが突として嫌になったということではない。それはひとえに5限という時間帯の問題だった。ヒトであれウマ娘であれ、午睡の誘惑というものは不可避の生理的課題なのだ。グラスワンダーは瞼が世界を閉ざさぬよう、幾度となく自らの膝を爪でつねった。

「次、エルコンドルパサーとハルウララ」

「はあい」と立ち上がるエルコンドルパサーの足取りは重かった。彼女は盲人のような足取りでスタートラインに着くと、大きくあくびをした。それと同時に冬晴れの空を真っ二つに引き裂くようなホイッスルの音が響き渡った。

あら、出遅れましたね、とグラスワンダーは思いかけたが、彼女の隣を走っているのがハルウララだということに気がついた。いくらダートとはいえ、「怪鳥」の異名を持つ稀代のウマ娘にハルウララのような無冠が敵うわけもない。微かに萌した崩壊への期待さえも裏切られ、眼前のレースはほとんど意味のない風景へと後退しかけていった。彼女だけではない。誰もがそのレースを見ていなかった。

しかしグラスワンダーは勤勉な右翼の少女だ。学校の授業で惰眠を貪るなど万死に等しい愚行だと考えていた。したがって彼女だけがそのレースの顛末を、そしてその衝撃的な結末を見届けていた。

「ねーねー」ハルウララがグラスワンダーのカーディガンの裾を引っ張った。「グラスちゃんは帰省するの?」

「ええ」グラスワンダーはハルウララの頭を優しく撫でた。「でも元旦の昼には戻ってきますから、カルタで遊んだり靖国神社にお参りに行ったりしましょうね」

「やったー!お土産も楽しみにしてるね!あ!私食べものがいいな!すっごくおいしくて、東京だと買えないやつ!」

「もう、ウララさんったら」

彼女に悪意がないことは誰もがよく理解している。彼女の言動と彼女の感情の間には1ミリの懸隔だってないのだ。もし彼女が「嬉しい」と言ったなら、それは「嬉しい」という感情が彼女の心に生起したからに他ならない。彼女の世界からは嘘や皮肉や打算といった中間性が、知能や学習能力もろとも欠落している。

しかしそのような彼女の空想主義が、シビアな勝負の世界で足掻くウマ娘たちのリアリズムを悪い意味で刺激していることも確かだ。殊にエルコンドルパサーのような世界を股にかけて活躍しているウマ娘にとっては。

グラスワンダーはエルコンドルパサーがちょっとした悪意でハルウララをいじめているところを目撃したことがある。

昼休み、エルコンドルパサーがハルウララにこう持ちかけた。

「ウララ、今日はピザを食べたくありまセンか?」

ハルウララは当然目を輝かせて「え!?ピザ!?」と食いついた。

「デマエカンという魔法を使えば今から20分くらいでアツアツのピザが食べられマスよ」

「何それ何それ!?やろうよ!!」

「でもそれには1500円が必要デース。魔法もタダじゃありまセーン」

「えー1500円は高いな~。でもピザ食べたいし・・・よし!私出す!」

20分ほど経過して、出前館からLサイズのピザが届いた。エルコンドルパサーはハルウララから受け取った1500円と手持ちの1000円を配達員に渡した。

蓋を開けると、今まさに窯から取り出したばかりのような熱気と芳香を放つ大きなピザが現れた。ハルウララは思わず感嘆の声を漏らした。エルコンドルパサーは付属のピザカッターを表面にあてがうと「半分こデスよ」と言って縦に線を入れた。

しかし彼女が二等分したピザはどう見ても不均等だった。数理に疎い非行少年が切り分けたように。半分こというよりは1/3と2/3だった。さすがのハルウララもこれには疑義を申し立てた。

「なんかこれ・・・エルちゃんのほうがおっきくない?」

エルコンドルパサーは悪辣な笑みを浮かべてこう言った。

「目の錯覚デース」

そうなんだ~と呟きながらピザを頬張るハルウララの、まるで父親にレジャーの予定をすっぽかされた子供のような表情をグラスワンダーは克明に記憶していた。

「あ!そうだ!」手をパチンと叩く音。「私これからライスちゃんとご飯食べに行くんだった!」

ハルウララは思い出したように身体をピンと張り、その勢いで踵を返すと教室の入り口めがけて走り出していった。

「グラスちゃんばいばーい!よいお年を!」

グラスワンダーは小さく手を振りながら「よいお年を」と返事した。今年の冬はなんだか少しだけ過ごしやすいような予感がした。しかし廊下を駆けゆく彼女の足音に先のエルコンドルパサーの姿を重ね合わせ、彼女は再び後ろ暗い心境に追いやられた。

例の体育の授業が終わった後、着替えを終えて教室棟に向かっていると、エルコンドルパサーが水道で頭から冷水をかぶっていた。彼女はじっと両手を水道の縁に突いたまま、冷水が頭部から全身を浸していく苦痛に無言で耐えていた。

グラスワンダーは「エル、こんな時期にそんなことをしていると死んでしまいますよ」と冗談めかして諭してみた。エルコンドルパサーは彼女には一瞥もくれないでこう言った。

「死んじまえばいいです」

気がつけば辺りはもう真っ暗だった。遠くから除夜の鐘の音が聞こえはじめていた。エルコンドルパサーは走り込みをやめ、近くの土手に座り込んだ。

彼女は除夜の鐘がなんとなく嫌いだった。

除夜の鐘はプロの和尚のような人物がきっちり律義に108回鐘を鳴らしているのだと思いきや、実際のところはその寺と縁の深い檀家の若衆やら子供やらがやたらめったらにゴンゴン鳴らしている。したがって一定のリズムというものがないし、ひどいところでは鳴らす回数さえあやふやなのだという。一年に一度の行事をそうやって無碍に消費してしまえる態度が、彼女はどうにも理解できなかった。

とりあえず汗を洗い流そうと思い、エルコンドルパサーは更衣室の方面に向かって歩きはじめた。

中庭を突っ切ろうとしたとき、彼女は不意に切り株のウロのことを思い出し、切り株のそばに近づいた。

彼女は切り株の縁に手をかけてウロの中を覗き込むと、何かを叫び散らしてやろうと思いきり息を吸い込んだ。

そのとき、切り株の縁がパキンと砕けた。バランスを失ったエルコンドルパサーはウロの中に広がる闇めがけて真っ逆さまに落下した。

ようやく平衡感覚を取り戻したとき、彼女はウロの穴の最深部に尻餅をついていた。鍛え上げた肉体には少しの損傷もなかったが、天を見上げるとまばらな星の輝く府中の夜空が極小の点となって浮かんでいた。どうしてウロの内部にこのような奥行きと広さがあるのだろうか?しかしそんなことを考えてみたところで仕方がなかった。

彼女はiPhoneを取り出すなり119番に電話をかけてみた。しかし電話は繋がらなかった。ここは圏外だった。死の可能性が確かなリアリティを帯びながら彼女の背後に迫りつつあった。彼女はあらん限りの力で息を吸い込み、それから「助けて!!」と叫んだ。

5分ほど叫び続けていると、何者かの応答があった。

「だーれー?」

緊急時に見合わない緩慢で安穏なトーン。エルコンドルパサーはその声の正体がハルウララであることを瞬時に悟った。

「エルデース!エルコンドルパサーデース!」

「エルちゃーん?どうしたのー?」

「この穴に落っこちてしまいまシター!助けてくだサーイ!」

「わかったー!今すぐ助け・・・」

次の瞬間、奈落の餌食は二人に増えていた。ハルウララは「いたたた…」と呻きながらエルコンドルパサーの上に尻をついていた。

エルコンドルパサーはハルウララを振り落とすと、彼女の襟首を掴んで激昂した。

「どうしてアナタはいつもそうなんですか!愚図で間抜けで役立たずで、そのくせいつだって呑気にしてれば誰かが助けてくれると思って甘えてて!最初から最後まで誰かに縋りつきっぱなしで!一人じゃ何にもできない!穴に落ちたウマ娘一人助けられない!どうしてもっと真面目にやろうとしないんですか、どうしてもっと必死に生きようとしないんですか!そういうの本当に腹立つんですよ、本当に許せないんですよ!」

穴の底は真っ暗で何も見えなかったが、エルコンドルパサーはハルウララが啜り泣いているのがわかった。彼女は掴んでいた襟首を離し、大きく溜息をついた。ここでハルウララに怒鳴り散らしたところで事態は何も好転しないのだ。彼女にもそれはよくわかっていた。

しばらくすると、波が引くようにハルウララが泣き止んだ。完全な無音が闇の中心に鎮座した。それは二人の心にもゆっくりと手を伸ばし、僅かに残った希望のカードまでもを裏返そうとした。

ハルウララは意を決したように「私ね」と口を開いた。

「私、この前先生を泣かせちゃったの。補習の先生なんだけどね、私が間違えるたびにここはこうなんだよって優しく教えてくれて。ほんとにいい先生なんだよ、字も上手でね」

エルコンドルパサーは黙ったまま、彼女の言葉に耳を傾けていた。

「私がんばったんだ。復習もちゃんとやったし、言われたところは全部直したの。携帯もテレビも押入れに隠して、寝るまでずーーーーっと勉強したんだ。負けたくない、諦めたくないって思ったの。でもダメだった。先生の期待に応えれるようにがんばったのに、私、やっぱりダメだった」

ハルウララは再び啜り泣いていた。闇よりも深い悔しさが、闇をも押しのける悲痛さを帯びながら滲み出ていた。

エルコンドルパサーは悪寒を覚えた。彼女は、ハルウララは、すべてを理解しているのだ。自分には自分の想像や期待を超えられるような知性や身体能力が備わっていないことを。それはどれほどの絶望だろう。心は今にも飛び出しそうな熱意を秘めているというのに、肝心の脳が、身体が言うことを聞いてくれない悔しさ、もどかしさ、そして恐怖。

「助けて!」

いったい誰が助けてくれるというのだ?

ここは暗い穴の底だ。

どれほどの時間が経過したのだろう。二人は身を寄せ合い、真冬の夜の寒さにじっと耐え続けていた。もはや助けを呼ぶ体力すら残っていなかった。

ハルウララはポケットの中をまさぐると「あ」と呟いた。彼女は空いていた方の手でiPhoneのライトを点けた。彼女の手の上には小さな個包装のビスケットがあった。

「これ、八百屋のおじちゃんにもらったんだった」

そう言うと彼女はエルコンドルパサーにiPhoneを持たせ、両手でビスケットを二つに割った。ビスケットは不均等に割れた。それは半分こというより1/3と2/3だった。

彼女は迷わず大きいほうのビスケットをエルコンドルパサーに差し出した。エルコンドルパサーはそれを断ろうとしたが、彼女は無理やり手のひらに握らせ、それからこう言った。

「だいじょうぶ、目の錯覚だよ」

エルコンドルパサーはとめどなく涙が溢れるのを感じた。こんなことで体力を消費しては朝まで生き残ることができないとわかっていたが、それでも涙を抑えることができなかった。それは生き残ることよりもよっぽど大切なことだと思った。

ビスケットを食べ終わると、ハルウララがエルコンドルパサーの手を握った。エルコンドルパサーはそれを握り返した。寒さで体温が失われ、小刻みに震えていた。

「ねえエルちゃん、えるこんどるぱさー、ってどういう意味なの?」

消え入りそうな声でハルウララが尋ねた。

「スペイン語で『コンドルは飛んで行く』って意味デス。アンデス地方にそういう民謡があるんデスよ。ボイジャーのゴールデンレコードにも収録された有名な歌なんデスよ」

「ぼいじゃー?ごーるでんれこーど?」

「昔、そういう名前の惑星探査機があったんデス。ゴールデンレコードはボイジャーに搭載された金属板で、そこには世界中の言葉や音楽がいっぱい収録されてたんデス。ボイジャーの目的はあくまで惑星の位置や組成物質を調べることなんデスが、もし途中で宇宙人の乗ったUFOなんかに拾われたときに、地球っていう星がありますよ、ここにはこういう文化がありますよってわかってもらうためにゴールデンレコードを搭載したんデス」

「うちゅうじん?なんか怖いなあ。ボイジャーは今どうしてるの?」

「宇宙空間を漂っていマス。今も。通信だって毎日ちゃんとできてるんデスよ。・・・ですが2025年には電池が完全に切れてしまうそうデス」

「えー。そうなったら、ボイジャーはどうなっちゃうの?」

「地球との通信が切れマス。ですが宇宙には摩擦力がありまセンから、ボイジャーは電源が切れたまま、それでも宇宙の彼方へと進み続けます。一人ぼっちで」

「寂しいね」

「寂しいデス」

「早く見つけてもらえるといいね」

「宇宙人に?」

「うん、うちゅうじんに」

そう呟くと、ハルウララはぐったりとエルコンドルパサーの胸に倒れ込み、小さな寝息を立てながら眠りはじめた。朝はまだ遠いというのに。

エルコンドルパサーは切り株の小さな穴から覗いている夜空に目を凝らした。いくつかの星がちかちかと瞬いているのが見えた。

あの星々の間にも実際には途方もない距離と時間が横たわっている。そう考えると悪寒がより一層強まった。そしてその圧倒的な斥力に晒されながら、ボイジャーは今も真っ暗な宇宙空間を進み続けているのだ。

どうか彼が誰かに見つけてもらえますように、とエルコンドルパサーは祈った。本当の一人ぼっちになってしまう前に・・・

遠くでまた鐘の音が鳴った。

ピザが食べたい。エルコンドルパサーは強く思った。

明日、もしここから出られたら、ウララと一緒にピザが食べたい。府中駅周辺を歩き回って、人多いねなんて愚痴をこぼして、結局最後は学園のそばにあるピザーラに入って。

ゴールデンレコードよりも大きなピザを、きっちり二等分にして食べるのだ。

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