郷里遺失

香港ってどんなとこ?というお決まりの質問に対して、サトノクラウンはいつも返答に窮する。

ジャッキー・チェン、ヴィクトリア・ハーバー、広東語。

固有名詞ならいくらでも出てくるが、そこに流れる精神的な固有性、あるいは暮らしぶりについては彼女自身もよくわかっていない。

彼女は香港島の山間に位置する全寮制の日本人学校に籍を置いていた。

もちろんクラスのほとんどは日本人で構成されていた。向上心の強い彼女はそこで広東語・英語といった現地語をほとんど完璧にマスターしたし、現地の人々との交流活動にも余念がなかった。

しかしそれらはあくまで学内活動の一環としてであり、寮に戻れば食堂で生姜焼き定食を食べて日本語字幕のついた映画を観ていた。そういう生活を6年ほど続けていた。

それで特に問題はなかった。彼女自身、香港という空間に臨む態度はそれでいいと感じていた。

たまの休日に広東語と英語が入り混じる尖沙咀の繁華街なんかを歩いていると、彼女は自分がそのコミュニティの内側に包摂されているような心地よさに包まれた。そこにはきっと広東語と英語のみならず、日本語や北京語やその他あらゆる言語のための空き椅子も用意されている。

特定の何かに馴致されることのない自由で開かれた世界。それが香港に対するサトノクラウンのイメージだった。

実際、街の香港人たちも彼女に対して概ね好意的だった。彼女が日本についての話をすると、彼らは興味深そうに耳を傾けた。

『AKIRA』や『GHOST IN THE SHELL』の都市描写には香港に対する日本人の憧れが現れている、みたいな話をすると彼らは決まって笑ってくれた。「そんな大したものじゃないよ」。サトノクラウンはそんな香港の人々が好きだった。



香港がなんかやばいらしい、とクラスメイトたちが騒ぎ始めた頃、サトノクラウンは日本に戻るための諸々の手続きに追われていた。ウマ娘として大成する手筈として、トレセン学園への入学は必須だと彼女は踏んでいた。幸いにもトレセン学園には帰国子女枠が用意されており、彼女はその枠を狙って小論文の訓練や面接の対策に心血を注いだ。

放課後、帰国生入試担当の教員との面接練習を終えて教室に戻ると、残っていたクラスメイトたちが備え付けのテレビの画面に食いついていた。

そこに映し出されていたのは無数の傘だった。中環、金鐘、銅鑼湾といった市街地で、どうやら民主化団体を中心とした大規模なデモ運動が起こっているらしい。

「なんか、映画みたいね」

サトノクラウンは思わずそう呟いた。ねー、そうだねーと周りの生徒たちが頷いた。街路を埋め尽くす傘の群れはそれほどまでに壮観だった。

ほどなく日本人の担任がやってきて、「いつまで見てるんだ」と日本語で注意した。サトノクラウンたちはテレビを消し、各々教室を出ていった。

サトノクラウンが香港を発つ日、ちょっとした事件が起こった。

香港国際空港のロビーで黄色い傘を差しながら何事かを喚いていた学生風の男が、筋骨隆々の警官数名に連行されていったのだ。

そのときサトノクラウンは通路に面した座椅子に腰掛けながらスターバックスコーヒーを啜っていた。彼女が警官たちに拘束された男を目で追っていると、不意に男の目が彼女を捉えた。男は彼女に向かって「ここは俺たちの国だ」と広東語で叫んだ。それは文脈上、彼を拘束する警官に向けられた言葉であったけれども、サトノクラウンはなぜかそう確信することができなかった。

ここは俺たちの国だ。羽田に向かう飛行機の中で、男の声はいつまでも彼女の頭の中で残響し続けていた。



春先、サトノクラウンのウマッターのDMにとある番組のプロデューサーから連絡が入ってきた。ドキュメンタリー番組の取材対象になってくれないかという旨の内容だった。

「それで、ドキュメンタリーっていうのは具体的にどんな?」
「当番組では夢や目標を持って地方や海外からやってきた方に密着させていただいております。サトノクラウンさんは香港からやって来られて、今や日本ではその名を知らぬ者はいないほどの名バとして活躍されているわけですが、その生い立ちや日々の暮らしぶりについて多くの人々が関心を寄せているんですよ」

たまにはそういうのもアリだろう、と思って彼女はプロデューサーの誘いに応じることにした。目立つのはもともと嫌いじゃない。

新宿某所での打ち合わせ当日。会議室にはプロデューサーの女の他に見知った顔があった。

「你好!お噂はかねがね」

サトノクラウンにそう声をかけられ、ホッコータルマエが顔を上げた。

「サトノクラウンさん。こんにちは」

ホッコータルマエがにこやかに一礼した。過不足ない一連の所作にサトノクラウンは感心した。

ホッコータルマエは北海道苫小牧市のローカルアイドルとしてさまざまなメディアに露出している。こういうことには普段から慣れているんだろう、とサトノクラウンは思った。

同時に、なぜこの場にホッコータルマエがいるのかについても彼女は瞬時に理解した。夢や目標を持って地方や海外からやってきたウマ娘。香港と苫小牧、どちらも東京という大都市からしてみれば等しく詳細不明の辺境に他ならない。取材対象としては2人は申し分ない相手だろう。

諸々の打ち合わせが終わると、プロデューサーは足早に次の現場へと向かっていった。取り残されたホッコータルマエとサトノクラウンはその場の流れでランチを共にすることになった。

「正直、釈然としませんよね」

ミラノ風ドリアにオリーブオイルをかけながらホッコータルマエが切り出した。

「Let me see, それはどういう?」

サトノクラウンが眉を上げた。

「クラウンさんはなぜ東京に来たんですか?」
「そうだね。トレセン学園に入りたくて」
「なぜ?」
「なぜって、世界トップレベルのウマ娘養成校だから…」
「ではもしトレセン学園が大阪にあったら?あるいは島根に、沖縄に、北海道に」
「別に場所は問わないわ。そこが伝統・実績豊かなトレセン学園である限り」
「そうですよね。私も同じ意見です」

しばしの間があった。サトノクラウンはパスタにフォークを突き刺したまま次の言葉を待った。

「私は東京に憧れて東京に来たわけではありません。私の目指す学校がたまたま東京にあったというだけです」

サトノクラウンは彼女の言いたいことを概ね察した。

「でも、仕方がないことなんじゃない?」
「仕方がない、とは?」
「中央集権は日本のみならず世界全般で起きている普遍的事象でしょう?」
「その結果割を食うのは?いつだって地方じゃないですか」

ホッコータルマエの脳裏には苫小牧のシャッター街の光景が浮かんでいた。そしてその廃墟の向こう側に山のように聳え立つ巨大なイオンモールが。

「タルマエさんの気持ちは痛いほどわかります。でも今更そんなことを言っていったい何になるんですか?」

ホッコータルマエが苦々しく笑った。

「同じようなことをさっきのプロデューサーにも言われました」ホッコータルマエが語気を強めた。「ねえクラウンさん、私はどうしたらいいんでしょうか?」

サトノクラウンはホッコータルマエが目の前のミラノ風ドリアに一口も手をつけていないことに気がついた。

「香港の人たちは」サトノクラウンが口を開いた。「常に大国の間で翻弄され続けてきたわ。イギリスの統治下に置かれ、日本軍の侵攻を受け、そして中国に返還されて。それでも香港が依然として香港として存在しているのは、彼らがその時々の領主に合わせて文化的ないし経済的に変容を受け入れる度量を持ちあわせているからよ」
「それが、あなたが香港留学で得た知見なんですね?」

ホッコータルマエが釘を刺すようにそう尋ねた。サトノクラウンはゆっくりと頷いた。ホッコータルマエは財布から取り出した1000円札を机の上に置き、無言で去っていった。



サトノクラウンはプロデューサーから送られてきたドキュメンタリーの「台本」に目を通しながら溜息をついた。

「あら、どうしましたの?」

メジロマックイーンに後方から不意に話しかけられ、サトノクラウンは飛び上がった。

「Aiya, マックイーン!おどかさないでよ」
「ごめんなさい。で、それは?」

メジロマックイーンが台本に目をやった。サトノクラウンはその一節を読み上げた。

「『好きな香港映画(取材の過程で香港の映画館前を通りかかるくだりがあるので、好きな香港映画を答えられるようにしておいてください)』」
「何かの取材ですか?」
「まあね。あそうだ、マックイーンって映画詳しかったわよね」
「詳しいかと聞かれれば、ええ、多少は。ゴールドシップさんには劣りますけれども…」
「呼んだか?」

どこからともなくゴールドシップが現れ、サトノクラウンとメジロマックイーンは漫画のように仰け反った。

「アタシ的には『片腕カンフー対空とぶギロチン』だな!それか『少林寺三十六房』!」
「いや、あの、これ別に映画秘宝の取材じゃないんですのよ?」
「そういうサブカル文脈抜きでもおもしれーだろうが!」
「面白くはありますけれども…」メジロマックイーンが視線をサトノクラウンのほうに戻した。「あの、どういう雰囲気の作品がいいとか、具体的な指標はございませんこと?」
「指標って言われても、そもそもそれすらわかんないから悩んでるのよね。それこそ私、香港スターなんかジャッキー・チェンくらいしか知らないし」

メジロマックイーンとゴールドシップが「うーん」と唸った。サトノクラウンは「あれだけの映画大国であなた(オメー)は一体何を?」と詰められているような気持ちになった。

「でもまあ、ジャッキーはやめたほうがいいと思いますわ」
「え、なんで?」
「なんでってオメー…」

何か言い出そうとしたゴールドシップをメジロマックイーンが手で制した。

「近頃じゃジャッキーは香港の嫌われ者なんですのよ」
「Aiya, うっそでしょ?」

メジロマックイーンの説明はこうだった。

ジャッキー・チェンは確かに70年代から90年代にかけて香港を代表するカンフー・スターだったが、近年では中国共産党への傾倒を強めている。その阿諛追従ぶりが香港市民の失望と怒りを買い、今では売国奴とまで非難を受けている。

「ある意味じゃ仕方ねーことだとも思うけどな」とゴールドシップ。「中国国内で映画活動をする以上は常に中国共産党との距離感を測んなきゃいけねーわけだしよ」
「それもそうですわね」とメジロマックイーン。「中国では中国共産党の検閲を通過できなかった映画の国内上映が禁じられてますの。ワン・ビンのようにうまいこと西洋諸国に仲立ちしてもらえる作家も多少はいますけど、そうでなければ地下映画として歴史の闇の中に沈み込んでいくだけですわ」
「中華圏で自由な表現が許されてんのは現状じゃ香港と台湾くらいのもんなんだよな。まあ、だからこそジャッキーの変容ぶりがことさら叩かれてんだけどな!」

ゴールドシップがポンとサトノクラウンの肩を叩いた。しかし彼女は釈然としない表情を浮かべていた。メジロマックイーンが「どうしましたの?」と問うと彼女は答えた。

「でも、実際の香港の人たちはそんな感じじゃなかった。私がジャッキー・チェンが好きって言ったら『いいね』って言ってくれる人ばかりだったわ」
「そりゃオメーが日本から来たヨソモンだからだろ」

ヨソモン、という言葉の強さにサトノクラウンはギョッとした。

「オメーだってカフェで偶然隣り合ったアメリカ人に『GODZILLAサイコーだよな!』って言われたら『そうですね』って答えるだろ?わざわざ『あなた方が広島と長崎にバカでかい爆弾を落としてくださったおかげです』とか言わねーだろ?」
「あのさ、ゴールドシップは香港行ったことあるわけ?」
「ねえよ」
「行ったことも無いくせによくそんなこと言えるわね」
「ただ漫然とそこに暮らしてただけでよくそんなこと言えるな、って言い返されたいか?」
「いい加減に…」
「まあまあお二人とも」

二人の間に流れる険悪な空気の間にメジロマックイーンが割り込んだ。

「本題に戻りましょうか。好きな香港映画として挙げるうえで最も適当な映画作品は何か、という話ですけども…それはブルース・リーの『燃えよドラゴン』ですわ!これならゴールドシップさんも異論はありませんわね?」
「おうよ。ブルース・リーなら間違いねえ。1997点中1997点ってとこだな!」
「満点と言えばいいものを…」



自室に戻ったサトノクラウンは今一度台本に目を通してみた。「好きな香港料理は?」「好きな香港の名所は?」「香港に戻ったら会いたい人は?」…おそらく同じような内容の台本がホッコータルマエにも送られているんだろう。

ホッコータルマエは東京に何の必然性も感じていないと言っていた。彼女にとって、東京はあくまで通過点でしかない。彼女の存在を根底から支える原理は別の場所にある。それが苫小牧という土地であり暮らしだ。

好きな苫小牧料理は?好きな苫小牧の名所は?苫小牧に戻ったら会いたい人は?ホッコータルマエにとってはどれも朝飯前に答えられる愚問なのだろう。

サトノクラウンはふと世界史の授業で見せられた映画のラストシーンを思い出した。老夫婦を乗せた浮き橋が、留め具を失い霧の沖合へと消えていく、というシーン。

映画のタイトルも、監督も、なぜそんなものを世界史の授業で見なければいけなかったのかも、今となってはまったく思い出せない。確かギリシャの映画だったと思うのだが…

ただ、霧の中を孤独に揺曳する浮き橋が、そこに立ち尽くす老夫婦の姿が、どこか現在の自分と重なり合うような感覚を彼女は得た。

再び手元の台本に目を落とすと、無数の「香港」の文字たちが不意に紙から浮かび上がり、煙のように消えていった。ハッと目を開けると夕方の陽光が窓から机の上に差し込んでいた。夢か、とわざとらしく呟いてからサトノクラウンは台本の上に垂れた涎を拭き取った。



2019年8月、羽田空港午後16時。

国際線方面の飲食スペースでコーヒーを啜っていたプロデューサーが、「困るんですよね〜、こういうことされると」と溜息をつきながらiPhoneの画面をサトノクラウンに見せた。メールの送り主はホッコータルマエ。

”今回の密着取材に関してですが、やはり辞退させていただこうと思います。”

”私にとって苫小牧とは投機やツーリズムの対象ではありません。故郷なのです。私は苫小牧を最後まで誇りに思い続けたい。逆に言えば、誇りに思えないことは絶対にやりたくない。たとえその結果、故郷が滅びてしまうことになったとしても。”

”ですから、今回の仕事は受けられません。本当に申し訳ありません。”

プロデューサーは文章の末尾にある「違約金に関しては全額お支払いいたします」の箇所だけを読み上げた。

「これがなかったらブチギレてましたよ」それから彼女はサトノクラウンのほうを見遣った。「全然疑ってはいないんですけど、クラウンさんは大丈夫ですよね?」

サトノクラウンは「冇問題、受けた仕事は最後までやり遂げるタイプなの」と答えた。「違約金なんて払いたくないもの」

プロデューサーが机を叩いて笑った。その言いようのない下品さにサトノクラウンは嫌悪感を覚えた。しかし何も言い出せなかった。今、窓ガラスに目をやれば、彼女と同じような顔で笑っている自分自身を発見できるに違いないとサトノクラウンは思った。

すいませ〜んと遠方から声がして、大量の機材を持った撮影班がやってきた。プロデューサーは時計に目を落とし「よし」と立ち上がった。

「そろそろ行きましょうか」



「現在、着陸先の香港国際空港にて大規模な抗議デモ運動が勃発しております。そのため、当機は東京国際空港にUターンいたします。ご搭乗のお客様には大変ご迷惑おかけしますが…」

そう機内アナウンスが入るや否や機体は右方向に大きく転換し、座席モニターの飛行機マークが逆転した。

「あーマジか〜」とプロデューサーが両手を額に当てた。「ギリギリ行けると思ったんですけどね、ねえ?」そう言ってサトノクラウンの二の腕を小突いた。

サトノクラウンは香港で何らかのデモが起きていること自体はニュースで知っていた。香港の人々が逃亡犯条例というものに反対しているらしく、香港警察との衝突が続いているらしい。

しかしデモがどれくらいの規模で行われているのか、誰が参加しているのか、「逃亡犯条例」とは具体的にどういう条例であり、誰にとってどういう利益・不利益があるのかといった細部について、彼女はほとんど知識がなかった。

ここ数ヶ月、彼女は秋のG1に向けた長期トレーニングに心血を注いでおり、テレビも見なければ新聞も読まない日々が続いていた。政治的な話題といえば政治好きの歴史教師の雑談を通じてしか仕入れていない。しかしそれで”冇問題(問題なし)”だった。香港情勢の変容は彼女のウマ娘としての活躍を少したりとも阻害していなかった。

「いつまでやるつもりなのかしら、こんなこと」

サトノクラウンが呟いた。

「あれ、クラウンさん建制派だったんですか、ちょっと意外ですけど」

ケンセイハ、という言葉の明確な意味がわからず、かといってわからないとも言えず、サトノクラウンは曖昧な笑みを浮かべた。

「でもそれあんまり大きい声で言わないほうがいいですよ。2016年の香港ヴァーズ以降、あなたの虜になった香港人はことのほか多いんですから。敵に回しちゃ損ですよ」

「いや、別に香港と中国のどっちがいいとか、私そんなこと思ってないってば」

「正直それが一番いいですよ。どっちでもないところで宙ぶらりんのまま透明になっていく。有名タレントとしては一番望ましい身振りですね」

「煽ってる?」

「いえ全く。この際ぶっちゃけて言えば、私だって取材ついでにデモのあれこれをあわよくばスクープしたいだけの、言うなれば大義なき野次馬野郎ですから」

そう言ってプロデューサーは笑った。刹那、機体が乱気流に巻き込まれ、上下にぐわんと揺れた。サトノクラウンは座席の手すりにしがみついた。ほどなくして乱気流を抜けてからも、まだ揺れが続いているような気がした。身体中から冷や汗が出ていた。

「すごい雲」撮影クルーの一人が窓から下を覗き込んでそう呟いた。「東京は大雨らしいっすよ」

プロデューサーが「エビ餃子食べたかったな」と溜息をついた。

悪寒と目眩の中でサトノクラウンは思った。

どうしよう、私、傘を持っていない。

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